第2話 病院の有名人との出会い

 三人がけのベンチに腰掛け、桜の木を見上げていると一人の男性が声を掛けてきた。その男性は三年以上入院しているご老人で、この桜の木の下で日向ぼっこをしている姿を見かけていた。私は見かけるたびに挨拶はしていたが、きちんと話すのはこの日が初めてだった。


「こんにちは。今日はいい天気ですな」


 そうありふれた言葉で話しかけてきた彼は九十八歳とは思えないほど足腰がしっかりしていて、頭もしっかりしている。さすが太平洋戦争を軍人として生き抜いてきただけあるなと感心した。

 天気のいい日は必ず桜の樹の下にいるので、病院内の人は誰でも知っているほどちょっとした有名人だ。軍人や年齢のことも本人に尋ねずとも自然と耳にするほどだ。そんな有名人なのに会話をしたのがこの日が初めてなのは、なんだか滑稽だ。


「そうですね。久しぶりにこんないい天気だったので、ついつい足が桜の樹の下に伸びました」

 

 と半分嘘をついてしまったことに恥ずかしさもあったが、まさか女の子の声が聞こえたような気がしたからと言っても不思議に思われるか笑われるかに違いない。


 でもそれを察したかのように彼はこう返してきた。


「そうですか。こう天気が良いと桜に呼ばれたように足が進んでしまいますな。そういえばまだ自己紹介がまだでしたな。私は生野真一と言います」


「私は四条薫です。ここの勤務医で救命医師をしています」


「四条さんと言いましたか。いつも挨拶をしてくれましたが救命医師だったとは。今日はいつもと服装が違いますな」


「ええ、そうなんです。先日あることで頭を打ってしまい入院しているんです。まさか自分が勤める病院に入院するとは……」


 自覚はしていたけれど、いざ言葉にすると少し照れている自分がいた。


「ははは。それもまた何かの縁なのでしょう」


 桜の樹の下に生野さんがいると、いつもこの明るく優しい笑い声が聞こえていた。絹のような滑らかさで包み込むような、人を安心させる何かを持っている。だから皆に愛されていて、いつも誰かが声を掛けている。こんな年の取り方をしたいと私は密かに憧れていた。それなのに話すのが初めてだったのは矛盾しているけれど、それだけ心に余裕がなかったのだと反省した。


 いつ患者が運ばれてくるか分からず、常に気を張っていなければならない環境に四年もいる。この数分間のやりとりのようなゆったりとした、時間を感じさせない会話のやりとりが今の私に必要だったのだなと一人思っていた。誰にでもあるような些細なやりとりが懐かしかった。

 もちろん同僚や先輩たちとも仲が良く会話もしていたけれど、その感じとは違う、もっとこうより日常に、力を抜いて素の自分が出せるような飾らない自分でいられる感じだ。


 長く忘れていた感覚に浸っていたら妙な空気感が出来てしまった。

その空気感を一掃しようと今まで気になっていた生野さんのことについて聞いてみたくなった。


「生野さんはどんな症状で入院されているのですか?」


 病院という環境のせいなのか、医者としてのコミュニケーションの仕方が身についてしまったせいなのか、いささか失礼な聞き方になってしまった。無意識とは怖いものだ。


「すい臓がんでな。余命2年と宣告されて入院してから、あっという間に5年が過ぎようとしています」


 失礼な聞き方だったのにいつもと変わらない優しい口調で答えてくれた。


「そうでしたか。そういえば私がこの病院に赴任した時にはすでにおられていましたね。実は病院に初めて来た時に最初に目を引いたのが生野さんだったんですよ」


 私は不意に当時のことを思い出した。


 春の暖かい陽気に気分が上がっていて病院に入る前に賑やかな笑い声が聞こえていて、病院なのにこんなに賑やかなこともあるのだなと思った。今となっては「病院=暗い」の固定観念に縛られていたただの世間知らずの若者だ。

 なんだか急に恥ずかしくなった。。。


「ははは! 声が大きいのが私の取り柄ですからな。昔はこの大きな声が役に立ったというものよ。年をとっても声の大きさだけは変わらないのだよ。とても死にかけの老人とは思えんじゃろ?」


「そうですね。ははは!」


「あ!」


 思わず肯定してしまった。あまりにも元気で入院している状態でなければ病気であることなど誰も分からないのでつい言葉に出てしまった。


「ははは!皆遠慮して否定するのに、あなたは正直な人だ。

そういうところが気に入ったよ。


 ふう……


あなたと話していると、あの人のことを思い出してしまうよ」


生野さんはいつもと違った声で悲しげに語り出した。

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