界のカケラ
akira
第1話 あの日から
あの日から十日が過ぎた。
自分が勤める病院に十日間入院しているが、怪我自体は大したことはなく病院側の配慮で休まされている。
救命医師として生死の最前線に四年もいるけれど、生きるということ、生きているということ、死ぬということを頭がパンクするまで真剣に考えたことは一度もなかった。
いや、真面目には考えていたし、自分なりの死生観は医者になる前からそれなりにあった。それなのに私はあのことがあってから、その全てが崩されたと言っていいほど受けたショックが大きく、医師として生死と向き合っていくことに迷いが生じていた。
専門を変えるなどすれば直接生死と向き合うことはなくなる。が、それはどうも違う感じしかしなかった。違和感だけではなく、使命という言葉になるのか分からないけれど、言葉では言い表せないような何か大きなものがあるような感じが頭の中にあったし、体の感覚から感じとれた。
そんな状態だからこそ、医者として、一人の人間として生死に向き合う自信を無くしている自分が苦しかった。そして、このまま自信を取り戻せるほどの答えが出ずに医者を続けることは無理だった。いっそのことスパッと辞められるほど信念や執着がなければ話は別だっただろうが、物心つく前から医者になってたくさんの人を救うということを決めていた記憶があるから、苦しみに拍車をかけていた。
この苦しみを誰かに話したかったけれど、友達では本当の意味で理解はしてくれないだろうし、職場の医師や看護師たちに話したところで誰しも経験することだという認識しかしてくれないか、その人たちに迷いを生ませてしまうかもしれないだろうと思い、話せずに十日が過ぎてしまった。
ベッドの上で考えていると気分が落ち込みマイナスなことしか頭に浮かばなくなるので、リハビリがてら病院内を毎日歩いて気分を少しでも上げようとしていた。自分が治療した患者さんと話したり、仲の良い看護師たちとも話したりしながら院内を散歩することが日課になっていた。
しかし十日間毎日、ある患者の病室の前でドアを開けられないで立ち尽くしてしまう。病室の前までは行けるのに、ドアノブに手をかけられるのに、手が震えてしまい開ける動作がどうしてもできないでいる。
そして今日もダメだった。
「はぁ…… 今日もダメだった」
ため息混じりの独り言が誰もいない廊下に響いた。どんなに勇気を振り絞ってもあのドアを開けられない。でも開けたところで、どんな顔をして会えばいいのか何を話せばいいのか分からない。だから開けられなかったことは良かったのだと無理やり自分に言い聞かせた。
「病室へ戻ろう」
そう思って振り返ろうとした時、
「一緒に外へ行こうよ」
小さな女の子の高い声がしたような気がした。
そういえばこの十日間、一度も外へ出たことはなかった。
外を眺めることはあっても行くことはなかった。
「どうせやることはないし、病室へ戻っても考えることは一緒だし、その時間を少しでも減らすために外へ行ってみよう」
少しは気がまぎれるかと思い、病院の中庭に出てみることにした。
私が勤める病院の中庭には樹齢百年を優に越えていると言われている大きな桜の木がある。春になると入院患者と関係者たちがお花見をするほど立派に咲かせ、桜が咲いているときはたくさんの人の笑顔で溢れている。
芝生もきれいに整備されていて全国の病院の中で一番きれいな庭がある病院ではないだろうか。維持費だけでも相当かかってそうな感じだが、これは院長の意向だと聞いたことがある。病院に来るということはそれだけで気分が落ちてしまうものだから、少しでも病院へ来る人たちの心を和ませたいという院長の心配りは私が尊敬する部分だ。
そんな院長だからこそ、あのことがあった私に優しく接してくれて、療養期間を長く設けてくれた。まさか私がこんなにも深く悩み迷うとは院長も思っていなかったと思うけれど、十日間は私に必要な期間だったのだと思いたい。
久しぶりに中庭に出た。いつも見慣れていた中庭なのに、今日はいつもとは違う感じがした。
医者として勤めているときと、入院患者としているときと受け取る印象が変わってくるのは不思議だけれど、この違いに気づけたのは面白かった。これから新しく来る人たちの話のタネにとっておこうと思った。
そんなことを思いながら久々に外の空気を吸ったことで、気持ちが少しずつ上がってきたのを感じた。
「あ、そうだ。久しぶりに中庭に出たのだから、あの桜の木に会いに行こう」
桜の木は中庭の舗装された道に沿っていけば迷わずに行けるようになっている。病院の敷地が広すぎるが故の配慮だが、病棟自体は全て繋がっているので中庭といえば常識的に考えて迷うことは普通はない。桜の木も大きいので一目でわかる。
ここで迷う人はいないだろうと思いながら歩いていたら、目的の桜の木が見えてきた。
桜の木の周りは少し盛り上がって丘のようになっていて、根元の土が踏まれて固くならないように柵が丘の周りを覆っている。その周りに三人がけのベンチが五つ、二人がけのベンチが四つ置かれている。
桜の木は春に向けて青葉が茂り始めていて花を咲かせるための準備を始めた頃合いだった。毎年この時期から春過ぎにかけて歓送迎会やお花見シーズンでいつも以上に急患が来るから、こうやってゆっくりと見ることがなかったけれど、どんなに樹齢を重ねても毎年同じサイクルで葉をつけ、蕾をつけ、花を咲かせ、次の世代へとつなげて行く姿を繰り返していることに、私は畏怖と尊敬を感じずにはいられなかった。
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