3. 祈跡導く夜明け:悪魔は少女の愛を識る

 炎が消え、煙が晴れた。あとに残るのは荒れ果てた部屋だけだ。黒と白、二種類の機械じかけのカラスの骸が散らばっている。輝石の魔術のきらびやかな光は失せ、天高くから薄暗闇が降ってくる。歯車の音は聞こえなかった。代わりに胸元で静かに動く懐古時計の針の音と、呼吸音ばかりが耳につく。


「……どうして、けなかったんだい」


 ラナは荒い息の合間に問いかけた。短剣の刃を突きつけた先に、仰向けになったアランの喉元がある。体中から血が流れていた。服も随分ずいぶんと焼け焦げている。疲労の滲む表情にしかし、男はにこりと笑みを浮かべてみせた。


「何もしなければ、君が床に叩きつけられて死んでしまうだろう?」

「私を上手く抱きとめる確率を選んだってこと」

「察しがいい。さすがだな、愛しの君」


 嬉しそうに返したアランは、恐らく左手を動かそうとしたのだと思う。けれど空っぽの装飾腕輪レースブレスレットで飾られた手は動かなかった。確率を選んだ代償なのだろう。また彼は捨てたのだ。彼自身の一部を。


 短剣をぐっと握りしめ、ラナはこみ上げる息苦しさに声を震わせた。


「……分かってたよ」


 この戦いに、最初から公平などない。


 簡単なことだ。目の前の悪魔が確率を選ぶのは、いつだってラナだけのためだった。時間を巻き戻すという大それたことも、崩れた瓦礫がれきから守るというささやかなことも。それが分かっていて、だからラナは三階から飛び降りた。


 そうすればアランは、自分が助かる確率を選ぶだろうと思った。そしてその時こそが、自分の魔術が届く瞬間だろうとも思った。事実そのとおりで、だからこそ、こんな方法しかとれなかった自分に、ラナは嫌気がさす。


 結局、最初から今まで――何度世界を繰り返そうとも、彼はラナのためにしか力を使わない。そのためなら、彼は全てを捨ててしまう。なのに、ラナを殺してでも時間を巻き戻そうとするのだ。幸せな結末のために。


 彼はいびつで、まっすぐで、頑固で、優しくて、何もかも分かっているようで、何も分かっていなくて、でも、だからこそ。


「……私はあんたを、愛してる。アラン・スミシー」

「俺もだよ、ラトラナジュ。君のことを愛している」


 ラナが苦労して言葉を紡げば、アランは一瞬の迷いもなく美しい笑みを浮かべて応じる。普段と変わらないやりとりだった。だからこそラナは、うん、とつっかえながら何度も頷いた。


 熱くなる目元をゆっくりとまばたきをしてやり過ごし、ラナは胸元の時計を掴む。鎖の音が微かに空気を揺らす中、ラナは「紅玉ルビーの石言葉はね、」と言葉を紡ぐ。


「勇気、勝利、純愛なんだよ。炎と血の象徴と言われることもあるし、血液の浄化と永遠の命を示すこともある」


 ラナは喉元に突きつけていた短剣を投げ捨てた。滲む一歩手前の世界で、アランが怪訝けげんな顔をする。疑問は最もだった。彼は確率の悪魔だが、同時に輝石の魔術の使い手でもある。こんなこと、彼にとっては当たり前のことだろう。


 そのことを承知で、さりとてラナは言葉を重ねなかった。ただ静かにアランに向かって微笑み、懐古時計を――その中に使われた紅玉を握って、ゆっくりと口を動かす。


『冠するは永遠 わたしはあなたに全てを返す』



 *****



 音のない世界で彼女が紡いだ言葉は、アランにとっては聞き慣れない詠唱だった。その小さな手に握られた懐古時計から月白の光が零れる。冬の窓辺に揺れる灯火のような光は、どこからともなく吹き込んだ風にふわりと舞っていく。


 彼女は時間の巻き戻しを望んでいないようだった。ならば、自分を殺してでも止めるのだろう。どこまでも冷静に考えていたアランは拍子抜けし、次いで彼女のいじらしさと愚かさに笑いそうになった。あぁ本当に彼女は、どこまでも彼女のままなのだ。優しいがゆえに間違いを犯す。それで苦しむのも彼女自身だ。彼女の優しさは、決して彼女自身には向けられない。


 だからこそ、優しい間違いを消してしまわねば。アランは右手を伸ばし、時計を握る彼女の指先に触れた。さしたる苦労もなく微笑みを浮かべる。安心しなさい、と言うつもりだった。もう何も恐れる必要はないのだ。一つ前の世界こそが正解だった。これからはそれを繰り返すのだから、もう二度と君の身に悲しみが降りかかることはない。彼女を安心させるための言葉は幾らでも浮かんで、早速その一つを形にしようと口を開く。


 唇の端に引きつれた痛みが走った。先のくだらない戦いのどこかで、攻撃がかすめたのだろう。血の伝う生ぬるい感覚がある。口づけの時に彼女を汚してしまわないよう、気をつけなければ。


 アランは指先を滑らせて、彼女の手の甲を包み込んだ。柔らかく小さい。規則正しい音を立てて懐古時計が時を刻んでいる。無粋な音が彼女の密やかな息遣いを掻き消して、それが煩わしいとアランは眉をひそめた。


 そして思考が凍りつく。

 自分は今、痛みを感じている。ぬくもりを感じている。音が聞こえている。


「……馬鹿な」


 ありえない、それらは全て捨て去ってきたもののはずだ。代償として支払われた物は、いくら時間を巻き戻そうと二度と戻らない。そのはずだ。


 ならば、これは何だ。アランは困惑する。その間にも、不意に指先にふれる彼女の肌に体温を感じた。温度を感じる感覚が戻ったのだ。そして彼女の手は、ぞっとするほど冷たい。おかしな話だった。彼女の体は、いつだって日なたのようなぬくもりがあったはずだ。得体の知れない焦りにアランの思考が突き動かされ、そこでようやく気がついた。


 彼女は、自身のすべてをアラン・スミシーという悪魔に捧げようとしている。


「待て……」アランは呆然と彼女を見上げた。「待つんだ、ラトラナジュ。そんなことは望んでいない。俺は、少しも、」

「アラン」


 穏やかに名前を呼んで、彼女がゆるりと首を横に振る。たったそれだけで、アランは何も言えなくなってしまった。体が震えた。なのに体を動かすことが出来ない。


 彼女は微笑んだままだった。黒灰色の目は今にも泣き出しそうに揺れているのに、いつくしむように細められているのだった。そしてそこに、アランを惹きつけてやまぬ光が宿っている。夜に灯る、光が。彼をずっと導いてきた輝きが。


 ねぇアラン、と。彼女は再び、愚かなばかりの悪魔の名を呼んで、問いかける。


「キセキは、どこから生まれると思う?」


 アランは答えられなかった。目を見開いたまま、無様に息を震わせることしかできなかった。そしてその一瞬の間に、彼女は微笑んだまま目を閉じて倒れ込んだ。


「ラ……トラナジュ……?」


 自分の胸元に倒れ込んだ彼女に、恐る恐る触れる。ありえないほど冷たい体は、たちまちアランの喉を凍りつかせた。氷塊が突き刺さって痛みを訴える喉を、彼は何とか動かす。そうして空唾からつばを飲み込んで、何度も首を振る。


 違う。彼女はまだ死んではいない。その体を抱き起こした。胸元はかすかに上下している。辺りを舞っている月白の光にも変化はない。魔術は発動している。ならばまだ生きている。そうだ、そうだとも。何度も呟いて、彼女の体を抱きしめた。こんなことは何度もあった。恐れることはない。動揺も不要だ。弱さなど何一つ要らぬ。一刻も早く時間を巻き戻さなければ。彼女が死んでしまう前に。


 アランは己に何度も言い聞かせ、彼女と唇を重ねた。やわく、冷たい唇だった。懐古時計を掴む彼女の手はいつになく細く、頼りなかった。それが恐ろしくて、いっそう強く手を握る。規則正しく刻まれる時間に触れる。そっと唇を離す。流れた血が彼女の唇をけがしている。


 そして悪魔は、いつもどおりの言葉を紡ごうとした。自身の体の一部を捧げて、幸せな結末を望もうとした。それは今までに幾度となく繰り返され、これからも幾度となく繰り返すであろう当然の行為だった。疑うべくもないことだった。彼女のためならば、なんだって捨てられる。誇張でも比喩でもなく、心の底からアランは思う。


 思って、けれどそこで、ぞっとした。自分は一体、何を捧げるのか。


 戻りつつある機能の全ては、元を正せば彼女のものだ。彼女が魔術で自分に捧げたものなのだ。それはアランにとって何よりも大切な守るべきものだった。だからこそ時間の巻き戻しを行えば、回復した機能を再び魔術の代償として失ってしまう。


 彼女の欠片を代償として捧げるのだ、自分は。彼女をつぶして平穏を手に入れたこの世界と同じように。


 自分だけは、彼女をそこないたくないと、思ったのに。これでは。


「……あぁ」


 アランは声を震わせた。込み上げる嵐のような何かが、彼の思考を壊していく。腕の中の彼女は動かなかった。呼吸は一層弱々しく、その黒灰色の髪も月白の光が触れる度に薄くなり、明滅し、薄金色に輝く。アランは彼女の頬をぎこちなく撫でた。その唇についた血をぬぐい、髪に触れた。黒灰色が、失われてしまう。大切な夜の色が。そう思うだけで、アランは息が止まりそうになった。


 そうだ、色だ。彼女とそろいの色は、一番最初に失ったものだった。君と揃いの色が嬉しかったのだ。そのことに、失ってから気づいたのだ。あの頃の自分は。


 そして、今も。


 俺は、君の色が。

 君の。

 君が。


「……駄目だ……行かないでくれ……」透明な何かが落ちて、彼女の頬を濡らす。その正体も知らぬまま、アランは声を震わせてうなだれた。「君がいい。俺は、君がいいんだ……ラナ……」


 かちりと、懐古時計が針を鳴らした。やけに遠く、重く、響いたそれは、永遠に次の音を鳴らさない。静寂は重く、孤独に耐えかねてアランは目を閉じる。そうしてしまえば、真っ暗闇だった。そのまま消え去ってしまえばいいとさえ思った。


 なれどアランの頬を撫でる、暖かな感触がある。


「……私の、勝ちね……」


 苦笑交じりの掠れた声に、アランは顔を跳ね上げた。


 世界は相変わらず月白の光であふれていて眩しい。無数の燐光は雪のようでもあるが、冬の終わりの日差しのように柔らかな暖かさを灯している。


 そしてその中で、黒灰色の目を開けた彼女は微笑んでいた。ゆらりと腕が伸ばされ、彼女はアランを抱きしめる。


 アランは成されるがまま、ぽつりと呟いた。


「どう、してだ……? 俺では君を救えない……そうだろう……?」

「大げさだなぁ、そういうことを言いたかったわけじゃないのに」


 ラナはくすくすとアランの耳元で笑った。


「輝石の魔術だよ、これも。言っただろ? 紅玉の石言葉は愛で、血で、永遠の命なの。私とアランで、一つの命をわけあうのね。といっても、あんたにもその意思がなければ成立しない魔術なんだけれど」


 あぁでも、せっかくなら黒髪のあんたが見たかったなぁ。のんきに言って、ラナがアランの髪に指を絡める。


 アランはしかし、ラナの両腕を掴んで引き剥がした。驚いたような顔をする彼女の髪色も目も、黒灰色のままだ。そしてその瞳には、薄金色の髪と金の目を持つ情けない悪魔が映っている。


「……ふざけた、ことを」アランはうめいた。「なんという無茶を……ならば、もしも俺が時間を巻き戻していれば……」

「あぁ、それは考えてなかったねぇ。多分、私はそのまま消えちゃうとか?」

「笑い事ではない」

「どうして? 私は信じてたよ、あんたのことを。きっと選んでくれるって」

「そういうことではない!」


 ラナはぴたりと口をつぐんだ。じっとこちらを見つめる黒灰色の目をにらみつけ、アランは唇を震わせる。


「君は、残酷だ。奇跡などないんだ、どこにも。だからこそ俺は、君のために奇跡をつくりたかった。そのための時間の巻き戻しだ。そのためのアラン・スミシーという存在だ。なのに君は、俺にその力を捨てさせるのか。君を守るための唯一の力を」

「そうだよ、アラン。私はあんたにさえ捨てさせる」ラナは目を細め、そっとアランの頬を撫でた。「でも、ね。そんなに悲しまないで。奇跡なら、あるよ。私達の間にあるの。だから私は助かったの。私があんたの全てを願って、あんたが私の全てを願ってくれたから」

「結果論だ。そんな偶然、なんの慰めにもならない。君を守るなら、俺は過去を選ぶべきだった。時間の巻き戻しこそ選択すべきだったんだ」

「……あんたは、私のことが嫌いかい?」

「そんなはずがあるものか!」アランは両手にぐっと力を込めた。「そんなはずがない……あるはずがない。だから俺は君を選んだ。選んでしまった。不確定極まりない、君との未来を。約束された幸せのない、この世界を。なぁ教えてくれ。これが愛だとでも言うのか? こんなにも矛盾した感情が? 君を危険にさらすだけの、この感情が?」


 月白の光が舞った。懐古時計から漏れ出たそれは、徐々に薄くなりつつある。魔術が役目を終えようとしているのだ。そうしてラナは生きようとしている。確かに喜ばしいことのはずなのに、彼女を思いやる言葉の一つでさえ浮かばぬ己を、アランは呪った。積み上げてきた何もかもが消え去ってしまえば、所詮しょせん自分は無力な悪魔なのだ。そう思う。弱さに歯噛はがみする。不完全な全てを消し去ってしまいたいと思う。


 なのにラナは、悪魔の手を取り、くしゃりと微笑むのだった。そしてたったそれだけで、アランの胸に暖かな火が灯る。


「危ないことはね、これからも沢山あるよ」ラナはゆっくりと口を動かす。「アラン、それは私だけじゃない。あんたにだって降りかかる危険かもしれない。その時、私じゃあ、きっとあんたを守ってあげることが出来ないと思う。だって、私は弱いもの。それでも……あんたを危険に晒しても、あんたと一緒に未来を見たいの。わがままだけれど、それがいいの。ねぇ、これがきっと愛なんだね。あんたが私を選んでくれたことだって、愛なんだ」


 装飾腕輪の鎖が、光に彩られた空気を揺らした。ささやかな音は澄んでいて、はにかんで笑う彼女を美しく彩る。


「だから、アラン。私の愛しい悪魔さん。どうかこれからも一緒にいてくれませんか?」


 こみ上げる何かに、アランはすぐには返事をできなかった。暖かくてみるようなそれが、何の感情なのか彼には分からなかった。あるいは、どうしようもなく目元が熱くなる理由も。


 それでも、体は動いた。衝動に突き動かされるまま、アランは彼女の体にそっと腕を回し、柔らかなぬくもりを抱きしめる。


「……もちろんだとも。俺は君の全てが欲しい。どうかそばにいてくれ。俺の、傍に」


 銀の光はいつの間にか消え失せた。懐古時計が砕けるささやかな音が、ながい世界の終わりを告げる。

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