2-4. 軌跡による立証:知を統べる教授は幕引きを告げる

 シェリルとロウガは、最上階に向かう階段に足を掛けた。引き金にかけっぱなしのシェリルの指先は痺れ、腕がひどく重い。それでもなんとか自分たちは辿り着いたのだ。なんとか。


 白鴉シロガラスのほとんどは、シェリルが拳銃で撃ち落とした。道中で共喰いの姿を認めたが、それが近づいてくる前に時計台の防火扉が共喰いを遠ざけるように廊下を寸断した。扉が落とされる寸前でプレアデスからの指示がどうだとかいうアナウンスが流れていたから、ラナ達のうちの誰かが操作したに違いなかった。


 そして今、シェリル達の眼前には大きな鐘がある。科学都市サブリエの象徴たる時計台の本体を、彼女は初めて目にしたのだった。高さはロウガの身長より少し高いくらいだ。鈍色に輝く表面に装飾はなく、鐘といえば誰もが想像するようなありふれた形をしている。


 息をずいぶん上がらせたロウガが、喜色を滲ませた声を上げた。


「嬢ちゃん、もうすぐだぞ!」

「言われなくても分かってるっ! 刑事さんこそ、最後の最後でヘマしないでよ!」


 性懲しょうこりもなく追いかけてくる白鴉の羽ばたきに、シェリルは振り返った。二時の方向。ロウガの指示のままに彼女は狙いを定めて引き金を引く。鴉が軋んだ鳴き声を上げ、機械部品を散らして地面に落ちる。


 恐怖はない。そして、正気でもない。シェリルはそのことにうすうす気づいている。浮足うきあし立っていて、興奮している。その証拠に鴉以外への注意力は散漫だ。だが、かえってそっちの方が良い気がした。立ち止まれば、自分は使い物にならなくなってしまう。


 再び鴉を撃ち落とし、二人はじりじりと後退して鐘へ近づいた。あと十歩にも満たない。そこで、ばりばりというありえないほどの大きな音を立てて、鐘のほど近くに位置する壁が裂ける。


 息を呑んだシェリルの足が止まる中、壁にぽっかりと開いた大穴から黒いもやをまとった巨体が姿を現した。靄からひも状の何かが飛び出し、シェリルとロウガは距離をとるようにそれを避けた。避けたと言えば聞こえは良いが、実質、シェリルはロウガに突き飛ばされたようなものだった。


 なんとか足に力を込めてシェリルは立つ。そして彼女は、巨体の正体を見た。たこのような頭に、不釣り合いな小さな体。両腕からは、先程の紐ようなものが幾本も生え、獲物を探すようにうごめいている。


「鐘……鐘だ……守護を……まも、る……まもらねば……指示が……」


 うわ言のように呟き、巨体が血色の眼球をぐるんと動かす。目があい、シェリルは凍りついた。それは底なし沼のように深く、ひどく濁っていて、ぞっとするほど冷たい。


 共喰いだ。シェリルは小さく悲鳴を上げ、反射的に拳銃の引き金を引いた。二発打ち込む。なのに銃弾は共喰いにちりとも掠めない。おかしい、鴉にはあんなに簡単に当たったのに。焦りで照準がずれる。また外す。それでも近づけば近づいただけ、狙いは定めやすくなる。頭なんて、外しようがない。なのに、また当たらなかった。


 共喰いが笑った。その時ばかりは理知的で、残忍な笑いだった。しゅうしゅうと腐臭がする。


「あぁ、小娘よ。わしを撃つのかァ? 儂もお前と同じ人間であるのにィ?」

「っ……!?」


 わざとらしいくらい哀れっぽい声はしかし、確かに人間のそれで、シェリルは凍りついた。そうだ、これは人間だ。化け物のような形をしているけれど、人なのだ。


 シェリルの体が震えた。そうなればもう止まらなかった。足から力が抜ける。馬鹿みたいにか弱い声を上げてへたりこんでしまう。


 共喰いは笑い、腕を伸ばした。紐だと思った物は、正確に言えば腐りかけたつただった。ところどころ焼け焦げ、黒い血を流す動きは緩慢だったが、ただの人間を仕留めるには十分だった。


 一斉にシェリルの頭めがけて蔦が放たれる。彼女は思わず目をつむる。


 全身に激痛が走った。やけにヤニ臭い香りもした。頬を地面に擦り、シェリルは自分が倒れ込んだことを知る。呻きながら目を開けた彼女の視界に飛び込んできたのは、ロウガのくたびれたコートだった。


 彼はシェリルを抱え込んでいる。その肩からは血が流れ、黒い蔦が幾本も突き出ていた。


 シェリルは悲鳴を上げた。


「っ、刑事さん……!」


 ロウガは苦悶に顔を歪めながらも、答えなかった。シェリルの手から拳銃を奪い、共喰いの頭部に照準を合わせる。引き金を引く。


 一発の弾丸は共喰いの頭部の中心部に沈み、黒血を撒き散らしながら貫通した。共喰いが目を見開き、動きを止めた。打たれたのが信じられぬと言わんばかりの顔だった。


「――まぁ、これだけ近けりゃ、当たるもんも当たるわな」


 白煙登る銃口を構えたまま、荒い呼吸を吐いたロウガが苦笑まじりに呟く。同時、共喰いが空気を震わせながら絶叫した。


 悪態をついたロウガがシェリルを乱暴に抱き寄せる。血の臭いとヤニの臭いが濃くなった。到底、良い香りなんかじゃなかった。かばうつもりだ。冗談じゃない。だって、そんなことをしたらロウガが本当に死んでしまう。悪態はいくらでも浮かぶのに、シェリルの体はちっとも動かなかった。またしても。


 けれど結果として、それが正解だった。


『巡りの血の果て 煉獄れんごくの底』


 凛とした声が響き、業火の柱がシェリル達と共喰いを隔てるように上がった。共喰いの右足が炎に消え、さらに絶叫が重なる。断面からは幾度も蔦が生えようとしていたが、その度に炎にまかれて灰になる。共喰いはぐるぐると目を動かし、壁に開いた大穴の方をひたと見据て獣の叫び声を上げた。


「ああああああアイシャああああああああ!?」


 見つめる先で、水色のリボンで白銀の髪をまとめた少女が立っている。その腕の中には灰色の猫の人形、そして背中には、緋色に輝く爬虫類のような翼があった。


 *****


 共喰いを倒しきったアイシャは、カディルを相手取っていた。亡くした右腕の代わりに共喰いと混じったらしい彼女の父親は、強くはあったが倒せないほどではなかった。言動がしゃくに触るのは言わずもがな、それでも思考はカディルのそれだった。


 様子が急変したのは、あと一歩でアイシャがカディルを倒し切るというところだった。彼は『鐘が』と呟き、我を失ったように時計台へ向かって走り出した。正気じゃなくなったのは、そこからだ。混じった共喰いに意識を飲まれたのか、はたまた何かの指示を受けたのか。


 いずれにせよ追いかけてきてみれば、かの男はシェリルとロウガに手を出そうとしていた。あぁもう本当に、この男は。


反吐へどが出ますにゃ」


 唸り声を上げる共喰いへ吐き捨て、アイシャは地面を蹴った。次々と放たれる蔦の束を避ける。紅の燐光で彩られた脚で蹴り上げ、蔦を切り裂く。


「ああもう、汚い汚い汚い!」蔦が掠めた耳元を必死にぬぐいながら、腕の中で灰色の猫の人形が不満げな声を上げた。「ねぇ、ちまちま攻撃してるだけじゃ終わんないでしょ! いい加減にアイシャに代わんなさいよ! こんな男、さくっと倒してあげるんだから!」

「うるさいですにゃ。合図で魔術ですにゃ」

「話を聞きなさいよお……! アイシャは魔術苦手なのにっ!」


 身をかがめて蔦をやり過ごし、アイシャは手首を振って、流れる血を頭上に散らした。ほのかに光る魔術の触媒へ、ニャン太とアイシャが同時に意思を伝える。


『巡りの血の果て 煉獄の底』

『巡りの血の獣 災厄の爪』


 ニャン太の喚んだ業火は狙いを僅かに逸らしつつも蔦を燃やす。仕留めきれなかった蔦の一部をカディルは引き戻した。それを追いかけるアイシャの両腕が緋色に輝く鱗で覆われ、瞬く間に身の丈に合わぬ竜爪を形成する。


 空気を鳴らし、彼女は爪を振るった。共喰いから蔦を根こそぎ剥がし取る。黒血が散る。だが本体には届かない。


「ああああああ痛い痛い痛い!? 父は悲しくて胸が張り裂けてしまいそうだぞォ……!」


 大げさに嘆くカディルの胸が、宣言のとおりに張り裂けた。吐き出された大量の蔦に、アイシャの回避が一拍遅れる。


 黒い蔦の奔流ほんりゅうに飲まれる。手足をとられると同時に、蔦がアイシャの側頭部を強く打った。視界が揺さぶられ、体から一気に力が抜ける。髪の毛を強く引かれた。水色のリボンが蔦の濁流に飲み込まれてしまう。


 駄目。それは。アイシャは状況も忘れて必死で指先を伸ばした。けれど、あと少しというところで、リボンはするりと遠ざかってしまう。同じように、意識も。


 生きて帰ってきてと、ヒルと約束したのに。


「諦めないでよ、こんなことくらいで!」


 叱咤しったするように叫んだのは、他ならぬアイシャ自身だった。


『巡りの血の果て 煉獄の底』


 詠唱を紡ぐ。同時、彼女の全身から緋色の光が立ち上る。魔術は灼熱を生み、まとわりついた蔦を一瞬で灰に変える。悲鳴を上げるカディルを尻目に、アイシャはふらつく体で距離をとった。


 いつの間にか切れていた唇を、リボンを掴んだ手の甲で拭う。一瞬とはいえ、体中の血液を媒介にするなんて、やっぱりやるものじゃない。


「でも、この潔さがアイシャちゃんの素晴らしいところよね」


 無理矢理に笑ったアイシャが呟けば、腕の中の灰色の猫の人形が小さく呻いた。強制的に入れ替わったもう一人の自分は、意識を取り戻すなりアイシャを睨む。


「む、無茶苦茶ですにゃ……」

「なによう、敵に遠慮なんていらないでしょ」

「そうじゃにゃあですにゃ! さっきの魔術、どうかしてますにゃ……! 一歩間違えたら、死んでしまうですにゃ!」

「ばっかみたい! それくらい命賭けてやんないと、戦いなんて楽しくないでしょ!」


 なおも文句を募ろうとしたニャン太の首元に手早く水色のリボンをかけ、アイシャは駆け出した。


 カディルが苦悶に歪めた顔を上げる。その周囲で黒い靄が凝集し、再び蔦を吐き出した。随分と数の減った蔦をしなやかな身のこなしで避け、地面に突き刺さった一本の上を駆け上ったアイシャは、宙に身を躍らせる。


「ほらほら、ニャン太! 得意の魔術であいつの足止め、頼むわよ!」

「私はニャン太じゃないですにゃ!」


 しくも先のアイシャと同じ返事をしながらも、灰色の猫の人形は高らかにうたった。


『巡りの血の罪 永久の獄房ごくぼう


 十三本の紅蓮の槍が宙空に出現した。ぐるりとカディルを取り囲むように十二の槍が突き立つ。床に血色の紋章が描かれる。カディルの動きが鈍くなる。

 浮かんだままの最後の一本を掴み、アイシャは唇を動かした。


『巡りの血のそら ついの裁き』


 槍が炎をまとう。そしてアイシャは、宙空から降りる勢いのまま共喰いの脳天を槍で貫いた。共喰いの体が大きく震え、黒血を撒き散らしながら後ろ向きに倒れる。


 その体が動かなくなったことを確認し、アイシャはその場にへたり込んだ。どっと襲ってくる疲れを感じながらも、灰色の猫の人形へ、にやりと笑う。


「ほらね、アイシャの方がよっぽど上手く戦えるでしょ?」

「野蛮の間違いではにゃあですか」


 ぼそと不満げに呟く灰色の猫の人形を、アイシャは小突いた。そこで一人と一匹の耳に羽ばたきの音が届く。


 見れば、シェリルの手から黒鴉が飛び立ったところだった。機械じかけの鳥を運び、鐘を破壊するのがシェリルたちの目的だったはずだ。それも無事に達成できる。アイシャを含めたその場の全員が安堵する中、鐘の頂点に止まった鴉はつぶらな黒目をぱちりと瞬かせ、くちばしを開いた。


『対象ヲ確認。作戦目標ノ鐘ト認定。破壊プログラム起動――爆破マデ、残リ百八十秒』

「……は?」


 アイシャの間抜けな声は、はからずもロウガと重なる。灰色の猫の人形も驚いているようだったが、アイシャに嫌味を言うことも忘れなかった。


「仮にも私なら、もう少し馬鹿っぽくない反応をしてほしいですにゃ」

「待って、爆破ってどういうことなの!?」


 少し離れた場所で食って掛かったのはシェリルだ。そんな彼女たちを見下げ、鴉がことりと首をかしげる。


『当機ハ鐘ノ破損ヲ目的トスル』

「それは知ってるわよ、鐘が壊れれば音がでないからでしょ? でも、もっとあるじゃない。ほら、ここに入った時みたいにプログラムをどうにかするとか」

笑止ショウシ』鴉は馬鹿にしたような色を無機質の瞳に宿した。『鐘ハ鐘デアル。物体ノ破壊ニ爆破ハ有効ナ手段デアル』


 言葉を失うシェリルの傍らで、地面に伸びたままのロウガが苦笑した。


「おうおう、こりゃまた辛辣しんらつで……って痛ってええええ!? お嬢ちゃん、なんで今殴ったんだね!?」

「刑事さんが無駄口叩くからでしょ! そんな暇あったら、どうやって逃げるか考えなさいよ! ほんっと最悪! あの教授! 信じられない! 帰ったら絶対一発殴ってやるんだから!」

「いや、お嬢ちゃんの方が愚痴ばっかり痛い痛い痛い!?」

『残リ百秒』


 再びロウガの傷口を殴り、シェリルがアイシャたちの方を見やった。アイシャ達は顔を見合わせ、慌ててシェリルの方に駆け寄る。香水屋を営む親友はこの中では一番平凡だが、機嫌を損ねた時は一番怖い。


 腰に両手を当てたシェリルは、感謝もそこそこに「ともかくも逃げないと」と切り出した。


「逃げるって」アイシャは恐る恐る意見を述べた。「やっぱり塔の階段を降りるってこと?」

「それはできないわ、アイシャ。扉の向こうは共喰いでいっぱいなの」

「にゃ……じゃあ、私達が来た穴から出るしかないですにゃ。シェリル達を抱えて飛べば、いけますにゃ」


 しゃべるニャン太に、シェリルが一瞬驚いたような顔をする。そういえば人前ではニャン太は喋らないことに――いや、アイシャが喋らせていることになっているのだから、一応言葉を話す事自体はおかしくないのか。アイシャの頭に浮かんだややこしい疑問はしかし、『残リ六十秒』という鴉の声で一気に吹き飛んだ。


 面倒な話は、ニャン太の中にいる自分に解決してもらうとしよう。そう結論づけ、なれど決定的に聴き逃がせなかった部分だけアイシャは反論する。


「穴から出るのは良いわ。だけど、流石にそこのオジサンまで運べないわよ? アイシャにだって限界ってものがあるんだから」

「じゃあ、刑事さんを落としましょ。それで地面に当たる寸前で受け止めるの。これで解決じゃない?」

「さすがシェリル、妙案ですにゃ」

「……まぁそれなら、できなくはない、けど」


 至った結論に互いに頷きあって、シェリル達は足元のロウガを見やる。蒼白な顔をした彼は、引きった笑みを浮かべた。


「……お、お嬢ちゃん達……? 冗談だよな……? 一応、オジサンはこれでも怪我人っていうかな……?」

「死ぬよりはマシでしょ」

「いやいやいや、シェリル!? そういうことじゃあなくてだねェ……!?」

「大丈夫ですにゃ」ニャン太が力強く両手を握った。「ちゃんと最後は抱きかかえますにゃ! やるのは私じゃにゃあですけど!」

「これっぽちも励ましじゃねェよな!? それはおぶっ」

「はいはいはい、うるさいオジサンはちょっと黙ってて」

『残リ三十秒』


 アイシャの手刀が見事に決まり、ロウガがぐらんと頭を揺らして地面に倒れ込む。


 それからきっかり二十秒後、彼女達は穴から外へと身をおどらせる。背後で爆発音が響き、鐘が歪な音を響かせたのは、そこからさらに十秒後のことだった。



 *****



 周囲で空気を焦がして光が輝き、無数の稲妻を放つ。四方から攻め立てる光の嵐を睥睨へいげいし、エメリは動じることなく黒鴉クロガラスへ指示を出した。


『誘雷』


 数羽の鴉が翼で空気を打った。千々に散った羽によって雷の軌道が逸れ、その内の二筋の光がアランを挟み込むように宙を駆ける。

 悪魔はしかし、一歩も動かず低くうたう。


『再臨せよ 孤絶の夜姫やき


 顕現した漆黒の盾が雷を弾き、黒鴉の二羽を射抜いた。抜けた穴を補充するように、エメリはさらに数羽の鴉を先行させた。元の数は三十機ほどだが、これで残り十三機……いや、一羽落ちて十二機か。


 辺りは時計塔の内部とは思えぬほど惨憺さんたんたる有様だった。炎が床と壁を舐める。そのすぐ横で氷柱が連なる極寒の地がある。さりとて時計塔がここまでびくともしないのは、何事か内部を守護するような仕掛けが施されているということなのだろう。


 残り一分四十三秒。改めて内部の状況を鴉に観察させながら、エメリはこつこつと杖で床を叩いた。


「つまらん戦いだな。扱うのは炎だの水だのという事象のみ、それも教科書に載る程度の知識で対処できる範囲とは。学術機関アカデミアへの入学試験の方がよほど知恵を使う」

「ラトラナジュをどこに隠した、エメリ・ヴィンチ」

「その上、返事の方にも機知ウィットが感じられない」白けた表情で、エメリは嘆息する。「まったく、研究者の三分という貴重な時間を、このような無駄に費やさねばならんとはな」


 鼻先を掠めるように白銀の剣が降ろされ、防御に展開していた鴉の一羽が串刺しになった。残り十一機。砕けた機械の向こうで、アランは金の目を剣呑けんのんにすがめている。


 エメリはひらりと手を振り、肩をすくめた。


「さっきも助言してやっただろう。もう少し楽しみたまえよ。偉大なる科学者と戦える機会なぞ、そうそうないのだからな」

「科学など、ただの児戯じぎだ。そんなもので、ラトラナジュを救うことなど出来はしない」

「いいや、違うな。お前は、お前以外の人間に小娘を救わせたくないのだ」エメリは鼻先で笑い飛ばした。「固執、執着、妄執もうしゅう。この手の側面は実に悪魔らしいが、結局望んでいるのは御伽話おとぎばなしの主人公だろう? まったく、悪魔ともあろう存在が笑わせてくれる」

「俺が望むのは、ラトラナジュの幸せの結末のみだ。それ以外の望みなどありはしない」

「幸せなどと言うものは、本人が努力さえすれば誰かに望まれずとも手に入る。悪魔の助けも、奇跡なぞという馬鹿げた事象も、何もかも要らんのだ」

「……人間に対する過信がすぎるぞ、老いぼれが」


 アランが吐き捨て、装飾腕輪レースブレスレットから紅の宝石を外す。口づけと共に、欠片が光を灯した。純粋な輝きは眩しく、それゆえに禍々しく。


 そしてエメリは、細めた青鈍色アイアンブルーの目に氷点下の光を宿す。


「いいかね、アラン・スミシー。私は怒りを覚えているのだよ。貴様にも、プレアデス機関というお粗末な人工知能にもな。貴様らの全ての行動は無意味だった。その無意味さに付き合わされ、我ら科学者の叡智えいちの全ては何度も殺された。これは科学に対する愚弄ぐろうだ。万死どころで済むと思うなよ」


 返事の代わりにアランが手を掲げる。同時、エメリは眼前に再び鴉を展開させた。


『冠するは炎 常世を祓い暁を導け』

『滅炎』


 輝石が砕け、一斉に紅蓮の炎が放たれる。鴉の鳴き声が空気を揺らし、迫る炎を防いだ。築かれたのは不可視の防壁。周囲の空気は瞬く間に数百度に到達する。


 ラナから請け負った三分が経過した。そこから一秒後、最前線に配置した鴉が二羽融け落ちた。と思えば、炎を裂いて光の剣が飛び込んでくる。灼熱まとう刃を落とすために、エメリはさらに四羽の鴉を使い捨て、顎をさすった。残る鴉は三機。火勢は衰えを知らず、いっそう激しく燃え盛る。


 流石に残りの鴉を落とされれば厄介か。焦りはなく、どこまでも客観的に判断してエメリは指先で快音を響かせた。


事象再現:type 塔Res reproduce: turris


 黒鴉が鳴き、体躯を解いた。それは瞬時に黒色の盾と成って炎を防ぐ。テオドルスの鴉を完全に模倣してはいるが、それでも保って三十秒だ。急場しのぎだが、無いよりはましだろう。


 それにしても盾とはな。エメリは胸中でテオドルスを嘲った。まったく、crowシリーズの概念を理解していないから、見当違いの発想になる。


 元より鴉は、飛翔のために軽量さを重視している。鴉の形態変化を指示するプログラムを構築したテオドルスの腕は評価できるが、攻撃を受けようなどという発想自体がお門違いなのだった。そういう意味では、鴉のプログラムに干渉して行動阻害するというエドの選択は正しい。ただし、そのために短剣を介して神経で処理するという実行手順は要領が悪すぎる。言わずもがな、マリィは機械の知識そのものを勉強し直すべきだろう。


 全て終われば、まとめて補習だ。なんと手間のかかる。諸々の文句を一点にまとめるのに要した時間は五秒。そして残りの二十秒でエメリの思考はさらに深く沈む。


 考えるべきは、目の前の炎をどうするか、などという些事さじではない。エメリの興味を引いたのは、アランの空間把握能力だった。


 アラン・スミシーの耳は聞こえていないはずだ。だというのに、およそ視界が良好とは言えない戦場で、かの悪魔は正確にエメリの位置を把握している。一方で、アランは物陰に隠れたラナを見つけられていない。


 ここまでの光景が、エメリの脳内でいくつも閃いた。その中から必要な情報だけをふるいにかけ、推論を立てて次々と否定する。


 炎を受ける盾の辺縁が、陽炎のように揺らめいた。鴉の耐久温度を越え、警報音が狂ったように鳴り響いている。炎の向こうでは、アランが次なる魔術の光を灯す。金の目は紅蓮を弾いて炯々けいけいと輝いた。今にも魔術を撃とうとする。それが分かって、なれどエメリは動くことなく、思考を止めることもない。


 爆発音と共に歪な鐘の音が響いたのは、その時だった。時計台全体を微かに震わせた異常にアランの視線が僅かに宙へ向けられる。


 それを見逃さず、エメリは唇を歪めた。


「――あぁ、なるほど。そういうことかね」


 教授の意図を組んだかのように、盾が組み変わった。エメリの眼前の炎を覆うように黒盾は半円球を形成し、周辺の空気から遮断することで内部の炎を消す。コンマ一秒後、解けた盾は再び三羽の鴉となって飛び立った。


 アランの視線が、素早くエメリの方に向けられた。だがそれより早くエメリは呟く。


鳴析めいせき


 先行する二羽の鴉が一斉に鳴き声を上げた。時計台の内部を乱反射しながら音波が駆け、アランの背後で光を灯していた輝石を全て破砕する。


 悪魔はしかし、冷めた様子で右手を掲げた。砕けた輝石に光が灯る。いくら石を破壊したところで、魔術の触媒になるという事実は変わらない。自明の理だった。


 だからこそ、輝石の破壊などという現象はエメリの目指すところではない。


震禍しんか


 エメリが再び指示を出す。一拍遅れて、後方に控えていた鴉が嗄声しゃがれごえで鳴いた。それは先の二匹の鳴き声よりも細く小さい。宝石を砕くことさえもない。


 だが、先の音波を解析して作られた鳴き声は、時計台全体を振動させた。人がほんの少しよろめく程度の軽微なものだ。が、アランは耳元に手を当て顔を歪ませる。ぱり、と乾いた音を立て砕けたのは、彼の耳飾りだった。


「なに、そう不思議な顔をするなよ」エメリは目を細めた。「固有振動数の応用だ。すべての物体には、その振動を誘起させる波長が存在する。それさえ割り出してやれば、こんな小さな機械でも建物を揺らすのは容易いというわけだ。そして、耳ではなく振動で我々の位置を把握している貴様にとっては、建物全体の振動は酷い雑音ノイズとなる。そうだろう?」

「っ、小賢しい……!」


 アランは金の目を怒りに光らせた。周囲で輝石が強く輝き、詠唱もなく光が放たれる。それは三羽の鴉を呆気なく貫き、音を不自然に途切れさせ、エメリの胸元に突き立った。


 なれど血は出ない。電気が空気を焦がす乾いた音と共に、空間に投影していたエメリの姿が揺らぐ。


 アランの表情が歪んだ。鴉を通してそれを確認したエメリは嘲笑する。


「人間を舐めるなよ、確率の悪魔」


 なにかに勘付いたようにアランが顔を上げた。振動の余韻が残っている以上、悪魔の行動はまったくの偶然だ。あぁまったく、確率の悪魔に偶然など馬鹿馬鹿しい限りだが。


 それでも残念ながら全てが遅い。

 崩壊寸前の鴉の目を操作し、エメリは宙を見上げる。途切れかけた映像でも、三階の窓から飛び降りた彼女はよく見えた。


『冠するは炎 常夜を祓い暁を導け――!』


 ラナが叫ぶ。その指先からあふれた真紅の炎がアランを飲み込んだ。

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