Epilogue

Stand with you

 冬の朝は、ぬくもりを感じるには丁度いい。


「ん……」


 規則正しく響く携帯端末に、ラナはベッドの毛布から手を差し出した。ひやりとした空気にうめきながら、シーツの上を手でまさぐる。冷たい長方形の機体を掴み、再び呻いて暖かな毛布に頬を擦り寄せた。


 寒い。無理。出られない。寝ぼけた頭でぼんやりと思ったところで、携帯端末の呼び出し音が止まった。

 呼び出し音。

 目覚まし音じゃなくて?


「あああああ!?」


 跳ね起きたラナは、画面に表示された時間を確認し悲鳴を上げた。


「ちょっと……! もう九時じゃないか!?」

「……どうかしたのか、ラトラナジュ」

「どうかしてる! 朝! 遅刻! エドから鍵を受け取って荷物を引き取る予定だっ、たのに……」


 画面に浮かぶ不在通知の名前を見ながら返事をしていたラナは、そこで言葉を止めた。返事の相手はもちろんアランだ。随分と気だるげだから、まだ眠いのかもしれない。それはいい。


 半身を起こしたまま、ラナは引っ越したばかりの寝室を見回した。きっちりと閉められたクローゼットと、空っぽ同然の棚。レースのカーテン越しから朝の光が差し込み、ベッドサイドに置いた絵本を照らしている。千年の眠りについたお姫様。蛙の呪いをかけられた王子様。古びた本は、アランがずっと持ち続けていたものだった。


 けれど、そのアランの姿はどこにもない。ラナが首をかしげたところで、もぞりと足元で何かが動いた。


 動いたのは毛布の山だ。そういえばやたらと足元が温かい。というか、誰かに腰をつかまれているような。


 布をそろりと押し上げたラナは、ぴしりと固まった。毛布の中で、眠たげな金の目と視線が合う。癖のない薄金色の髪は少しばかり乱れて目元にかかっている。そして何故か上半身裸の彼は、顔を真っ赤にするラナへ屈託くったくのない笑みを浮かべた。


「おはよう、愛しの君」

「っっっ、服を! 着て!!!」

「む」


 何事か言いかけたアランの頭に毛布を勢いよく被せ、ラナはベッドから飛び出した。素足に床は冷たい。上履きを勧めるアランのくぐもった声が聞こえてくるが、彼女は無視して廊下に出た。


 端末を操作して電話をかけながら、ラナは洗面所に駆け込む。冷水で顔を洗って、改めて鏡を見やった。自分の顔は真っ赤だが、ちゃんと寝間着を着ている。それに安堵あんどしかけて、いやいやと彼女は首を横に振った。


 寝る時に寝間着を着るのは当たり前だ。おかしいのはアランの方だ。いや、たしかに何も着ない方がよく眠れるという人もいるだろうけれど。そこは否定しない。一緒に寝るのも、まぁ、成り行きというか押し切られたというか、いやだって、一人で眠るのは寒いし。冬なのだから。


 でも、やっぱり、心臓に良くない。おかしい。そう、それだ。ラナは小さく呻きながら、タオルに再び顔をうずめた。一応年頃の男女なのだから、そこは節度を守ってほしい。いや、その節度がなにかという話なのだけれど。


『もしもし? ラナ、聞こえてる?』


 洗面台の脇に置いた端末からエドの声が響き、ラナはぱっと顔を跳ね上げた。


「ご、ごめん、エド……! 約束の時間、八時だったよね……!?」

『その声、寝起きだろ。随分と盛大にやらかしてるけど』エドが怪しむように声を低くした。『もしかして、あのクソ悪魔に何かされてるとか、』

「されてない! されてないってば!」

『ふうん……?』

「それより、エド。ええと、今からそっちに行くってことでいいんだよね?」


 ラナは麻かごから取り出した着替えに袖を通しながら、無理矢理に話題を変える。不満げな感情は電話口からでもありありと伝わってきたが、結局エドは溜息ためいきをついただけだった。


『そのことなんだけど、もうすぐマリィ先輩の退院の手伝いに行かなきゃいけないんだ。ロウガさんも先輩の快気祝いの準備でシェリルと買い出しするみたいでね。車を引き上げるって言ってる』

「あぁ、そうなんだね。こっちは心配しないで。鍵だけ天秤屋さんに預けてもらえれば、アランに手伝って運んでもらうよ。荷物もそんなに多くないし」

『本とか服とか結構な量だけど?』

「そうだっけ……」

『そうだよ』エドの声音に呆れ声が滲んだ。『ダンボール箱で五つ分。君の家からここまで歩いて十分くらいだろ。何回も行き来するのは効率がよくないと思うな。まぁ君が寝坊しなければ解決した話なんだけど』

「う……じゃあ、誰かから車借りなきゃ駄目なのか……」

『ヒル先生は?』

「駄目だよ」


 長袖のブラウスの裾を引っ張ってしわを伸ばしながら、ラナは唇を尖らせた。


「せっかくアイシャが先生と二人きりでお祝いの準備してくれてるんだから。そこは空気読まないと、だろ」

『あの先生が狼になってないといいけど』

「またそれ? エド、前もそれ言ってたよね」

『むしろ疑わない君の方がおかしいと思うけど……まぁいいや。それより、車。ヒル先生も駄目なら、いけ好かない神父くらいだと思うけど?』

「ヴィンスさんか……ううん……貸してくれるかなぁ……」

『そこは君の交渉力次第だね。頑張って』

「……エドってば、微妙に冷たくないかい?」

『寝坊した君の自業自得だろ?』


 エドからの返事はそっけない。互いに沈黙する。が、それもすぐに、どちらからともなく噴き出して破られる。


 鏡の横の棚からくしを取り出しながら、ラナは穏やかに話を続ける。


「マリィさん、退院できてよかったね。一ヶ月と、半分くらい、だっけ」

『無理し過ぎなんだよ、あの人は。俺と戦うだけじゃなくて、あの神父ともやりあってたんだから。その前にも随分と景気よくカラスを撃ち落としてたらしいし』

「ふふ、マリィさんっぽいけどね。でも、ヒル先生がちゃんと応急処置してくれたから、短期の入院だけですんだんだろ?」

『そう。今から思えば、エメリ教授はそこまで読んでたんだろうな。マリィ先輩とヒル先生を組ませて行動させるのは、あの人の案だっただろ』

「だねぇ。あ、そういえば今日の快気祝いにハミンスのケーキを買ってくるつもりなんだけど、結局エメリ教授も来るのかい?」


 よどみなかったエドの返事が、そこで鈍った。ラナが手を止め目を瞬かせれば――通話モードだけなので、当然エドに姿が見えるはずはないのだが――、エドがぼそりと呟く。


『……来るよ』

「……ええと、エド? 元気ないね……?」

『補習だとか何とか言ってるんだ。多分、ケーキを楽しむ暇もないかも……マリィ先輩とアイツも含めて……』

「アイツって、テオドルスさんのことだよね? 来れないって言ってなかった?」

『来れないんじゃない。気まずいから行きたくないってやつだよ、アレは。でも分かるだろ? あのエメリ教授が呼びつけてるのに、欠席できるはずがない』

「……それはその……無理矢理エメリ教授がテオドルスさんを連れ出す、ってことかな……?」

『手段問わずね』エドは憂鬱ゆううつそうに息をついた。『まぁアイツはどうなってもいいんだけど。とりあえず、教授用にエクレアを買っておいてくれないか?』


 ついでに、エドとマリィのためにも追加でケーキを買っておこう。ラナは引きつった笑みを浮かべて頷きながら、心の中で買い物リストにケーキを追加した。


 マリィの快気祝いは夕方の五時から。それまでに部屋の準備を終える必要があるから、さらに一時間前に診療所に集まること。エドと確認しあって、ラナは電話を切る。鏡の中をもう一度確認して、洗面所を後にした。数歩行ったところで引き返し、シェリルからもらったばかりの桜色のリップを唇に薄く塗る。


「……よし」


 一つ気合をいれ、ラナは玄関へと足を向けた。既に身支度を整えたアランが壁に背を預けて煙草をくゆらせている。白シャツと紺色のニット、それに紺のスラックス。見慣れた外套コートを羽織った彼はしかし、近づくラナに気づいた様子もない。どこかぼんやりとした彼の外套を引っ張れば、ようやくその目がラナの方に向けられた。


「準備はいいのか、愛しの君」

「私は大丈夫、だけど」ラナは微笑むアランをじっと見やり、顔をくもらせた。「アランこそ大丈夫かい? 疲れてるなら、家にいてもらってもいいけど……昨日も懐古症候群トロイメライを追いかけて大変だったわけだし」

「あぁ、気にするな。いつものだよ。それよりほら、おいで。コートを着せてあげよう」


 備え付けの棚に置かれた灰皿に煙草を押しつけ、アランは玄関の壁にかけたダウンコートを嬉々として取り上げた。彼にコートを着せてもらいながら、ラナは「ねぇ」と首だけひねる。


「いつものことって……それって例のエネルギー不足、ってやつだろ? 何とかする方法はないのかい?」

「ないだろうな。君の魔術は、一つ分の命を二人で分け合うものだから」

「でも、私の方はなんともないじゃないか」

「嘘はいけない、お嬢さん。眠気があるんだろう?」

「……それは」

「同じことだよ。ただ、俺の場合は必要とするエネルギーが多いから、余計に腹が減りやすいということさ」

「うん……」


 ラナは目を伏せた。


 時計台でアランと対峙たいじしたあの日、懐古時計に使われた紅玉ルビーを使って魔術は確かに発動した。一つの命を二人で分け合う、というのは実は正しくなく、アランの欠けたところと、ラナの欠けたところを補い合って一つの命にしているのだった。だからこそ互いの五感は正常で、普通の人と変わらぬ生活を送ることができる。ここまではラナの予想通り。


 予想外だったのは、魔力だった。アランに言わせればエネルギーで、血液のようなものらしい。魔術の影響でそれも二人で分け合う形になり、おかげでアランは常に気だるげなのだった。


 そっと、ラナは溜息をつく。仕方のないことだとは分かっている。あの選択に悔いもない。だがやはり、こうして手落ちがあると、良い気分にはなれない。


「さぁ、できた」


 満足げに言って、アランがラナの両肩を叩く。香水と煙草の香りを追いかけてラナが顔を上げれば、アランは金の目を細めてあごに手を当てる。


「困ったな。心配そうな顔をするなと言うのは簡単なんだが。君はそれでは納得してくれないようだ」

「当たり前だよ」ラナは唇をとがらせた。「だって、あんたのことだもの」

「それは実に嬉しいことだよ、愛しの君。ふむ、ならば解決策を一つ教えようか」

「あるのかい!?」


 ラナが勢い込んで尋ねれば、アランは含み笑いを浮かべたまま身をかがめた。ラナの耳元で装飾腕輪レースブレスレットの鎖がしゃらりと鳴る。耳朶じだを掠めるアランの指先がくすぐったい。思わずラナが首をすくめる中、何故かアランは声をひそめた。


「そも、悪魔は感情を食べて生きるのさ。それがエネルギーの代わりになる。だから君の感情を食べさせてくれればいい」

「感情を、食べる……?」

「あぁ、何も怖い話ではないよ。俺と君はパスでつながっている。そうだろう? だから、君の感情がたかぶってくれると、俺も元気になるというわけだ。例えば今朝のように恥ずかしがってる君の感情は、とてもかった」

「っな……」


 ラナは顔を引きつらせて半歩身を引いた。アランは大げさに両眉を上げる。


「おや、つれないな。昨晩はあんなにも俺に甘えてくれて、」

「ちょ、ちょっと待って! 朝のって、そういうことだったのかい!? というか、昨日の夜は何もしてないだろ! してないよね!?」

「どうだったかな」アランは可笑おかしそうに目を細め、灰皿の隣に置かれた時計を見やってラナの背中に手を当てた。「さぁ、それでは出発しようか。今日はやることが沢山ある。違うか?」

「あぁもう、そうやって誤魔化ごまかして! 心配して損した!」

「おやおや」


 形ばかりの困ったようなアランの声を無視して、ラナは外に出た。腹いせにびた階段をヒールで叩くようにして歩く。背後で忍び笑いが聞こえた気がして、彼女はきゅっと眉根を寄せた。こんな自分は子供っぽいというのだろう。あぁそうさ。そうだってば。でも仕方ないじゃないか。あんたが本当か嘘かわからないようなことで、からかったりするから。


 文句を並べるうちに、屋根付きの階段を降りきった。頬にかかる水滴にラナは空を見上げる。快晴だ。ということは天気雨だろうか。


「ラトラナジュ」


 そっと名前を呼ばれて、ラナはゆっくりと振り返った。一歩先にアランがいる。些細ささいな距離だった。普段の彼ならば簡単に詰めてしまうだろう。だというのに、どこか寄る辺ない子供のような頼りなさを滲ませた彼は動かない。


 ラナは腰に両手を当てた。やれやれと白い息を吐いて、目元を緩める。


「怒ってないよ、アラン」

「……そうか、ならばよかった」

「ほっとした?」

「もちろんだとも。君が喜んでいる方がずっといい」

「大げさ」


 小さく笑って、ラナは一歩分の距離を詰めた。彼の体に両腕を回せば、心得ているように彼も抱きしめ返してくれる。


 冬の空気は澄んでいて、だからこそアランのぬくもりがまっすぐに伝わった。彼の金の目がきらめき、嬉しそうに細められる。そしてそれは多分、自分も。


「ラトラナジュ――ラナ」

「うん」


 大切そうに名を呼ぶ、アランの声に胸がいっぱいになりながらラナは口を開く。折しも、彼と一緒に。



 愛しているよ。どちらからともなく呟いた言葉が響く世界で、雨のしずくが朝日を弾いた。


 それはまさしく輝石のように輝いて、唇を重ねる二人に優しく降り注ぐ。


<了>

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