2-2. 軌跡による立証:少女は涙すれども前を向く
エメリの
ラナの手のひらに収まるほど小さな立方体を指先で
ラナはしばらく口を開け閉めし、渋面をベッドの端に止まった機械仕掛けの鴉へ向ける。
「ううん……言いたいことは分かるけど」
「そうだろうとも」エメリの声を吐き出した鴉は小さな頭を上げ、
「でも、その……不公平じゃないかい。だって、あっちは七つしか石を使わないのに」
「ハッ、笑わせてくれるな。情けをかけてやるほどの余裕があるのかね? え?」
ラナは大きく息を吸って吐き出した。手のひらの立方体を握りしめ、ベッドの上で立てた膝に口元を埋める。
「ないよ」溜息をついて、ラナはごろりとベッドに横になった。「ないです。
「実に無駄な会話だった」
「はいはい、理解が遅くて悪うございました」
「腑抜けた返事を」鴉は苛々と爪先で机を蹴った。「あぁまったく、我々の最大の不幸は貴様のような凡人に悪魔の相手を任せねばならんことだろうよ」
「心配しなくていいよ。アランに勝ちたいって、その気持ちは変わらないもの」
「結果を伴わねば何の意味もないがね」
「嫌味だなぁ」
「それで、動機はなんだね? 刺されでもして、憎しみが勝ったか? 身勝手な世界の否定に義憤でも湧いたか?」
シーツの波間から鴉の瞳が覗く。エメリな顔が目に浮かぶようで、ラナは小さく笑った。「違うよ」とゆるりと首を横に振りながら、天井を見上げる。
「私はただ、分からず屋のあの人を納得させたいだけ」
「くだらんな。たったそれだけのために少なくはない人間を巻き込んで、世界までも
「そうさ。だって愛は
エメリの返事はなかった。気恥ずかしさが後から追いかけてきて、ラナは膝を抱える腕に力を込める。ちょっと、というか、だいぶ気取った台詞じゃないか。大した力もないのに。でも、その一言に尽きるのだから否定する気にもなれないのだけれど。
「痛っ」
うじうじと悩んでいたところで、後頭部を鴉にこづかれた。涙目で見上げた時には、黒鳥は宙空に飛び立っている。
「生意気な返事だが、及第点といったところだな。少なくとも、世界を救うなどという綺麗事を掲げられるよりは余程マシだ」
*****
いついかなる時も、エメリの言葉には遠慮がない。だが、その技術だけは一級品だ。そして、彼の技術の粋を集めた立方体の武器は、今やラナの手に握られている。
『
ラナの声に応じて、立方体に
かの教授は言う。ラナの魔術はアランに劣る。その原因の一つは宝石の力を十分に引き出せていないことにある。宝石が魔術に変換される効率は約30%。残りの宝石は魔術とならず、欠片になって
理屈は単純。だが、それを実現させるための理論は
そして魔術の発動源となる輝石の欠片は、今や辺り一帯に飛び散っている。文字通り部屋中だ。そのための先の戦いだ。
「行って」
ラナの決然とした声が、再戦の合図となった。引き絞った矢を放つように、部屋中に展開された光鎖がアランに殺到する。
アランが動いた。わざとらしく感嘆するように眉を上げ、軽やかな足音を立てて歩を進める。時に下がる。時に右へ。左へ。鎖の嵐の中を踊るように彼は避ける。かと思えば立ち止まる。直後、当たりそこねた鎖が床を穿った。飛び散った木くずで、別の鎖の軌道が僅かに逸れる。結果的に、アランに鎖は当たらない。
確率操作、ではない。浮かびかけた不安を、ラナは胸元の懐古時計を握ることで否定した。こうも簡単に、彼が確率操作を使うはずがないのだ。単純に、アランは光の鎖が落ちる位置を観察して
焦るなと言い聞かせ、ラナは立方体を指先で回す。
『
乾いた破裂音が空気を震わせた。一帯で
アランの指先が
『冠するは夜天 善なるを退け不和をもたらせ』
詠唱と同時に、彼を守るように漆黒の盾が出現した。磨き抜かれたそれは、八方から攻め立てる雷を
そのうちの一筋を、ラナは転がるようにして避けた。近くの床が大きく
『
地に落ちた真珠の欠片が輝き、渦巻く暴風と成る。
鋭く研ぎ澄まされた風の先端は一点で盾に突き当たった。再びの轟音、次いで硝子の割れるような澄んだ音と共に盾が砕け散る。
砕けた破片の向こうで、アランが意外そうな顔をして笑った。余裕は少しも崩れない。ラナは舌打ちと共に、アランめがけて風を強く押し込む。暴風は彼を直撃した。
肩で息をしながら、ラナは白煙登る部屋の中央を見やった。ずっと走り続けた足を止めれば、疲労感があっという間に追いついていくる。乾ききった喉は焼けるように痛い。それでも目を凝らしていれば、案の定、煙が不自然に揺れた。
ラナは指先に力を込める。
その背後から、面白がるような笑い声が聞こえた。
「今のはなかなか刺激的だったな」
「っ……!?」
右後方から、唐突に腕が伸びる。ラナは息を呑み、反射的に距離をとった。今しがた自分の立っていた場所に、アランの姿がある。空振りした右手を見やり、さして残念でもなさそうに溜息をついている。
ラナの背に冷たいものが落ちた。一体いつの間に。見落としていた? いいや、そのはずはない。なら。
「確率操作ではないよ、ラトラナジュ。それではあまりに不公平だろう?」
穏やかに応じたアランが、すいと
「……あぁそう、それは良かった」
「そうか? それにしては少しも嬉しそうではないが」アランは耳飾りを
「確率操作じゃないなら、どうやって避けたっていうわけ」
主導権を握らせまいと、ラナは硬い声でアランに問うた。なおも言葉を重ねようとしていた彼は口を閉じ、整った唇に笑みを刻む。
「歳の功というものだよ。飽きるほどに戦ってきたのだから、当然のことだ」
「それは、今までの世界で、ってこと」
「無論だとも、愛しの人。君を害そうとする愚かな輩は山といたからな。あぁだが、このことで君が憂う必要は全く無いんだ。君はいつだって正しかった。間違っていたのは世界の方だ」
「……そんなこと、あるはずがない」
「いいや、事実だよ、ラトラナジュ。変えようのない真理といってもいい」
「アラン、私はおとぎ話の主人公じゃないんだよ」
静かに否定すれば、アランが不思議そうな顔をする。ラナの胸が引き攣れたように痛んだ。やっぱり彼は分かっていない。大切なことを、何一つ。
彼女は目を伏せた。
「ねぇ、私はお姫様にも王子様にもなれないの。当然じゃないか。私は完璧じゃない。あんたとは違う」
「自分を
アランは困ったように言った。
「安心しなさい、ラトラナジュ。完璧でなくとも良いんだ。言っただろう? 幾度世界を巻き戻そうと、君は変わらなかった。それだけで十分なのさ」
「違う……違うよ、アラン」ラナは声を震わせ、顔を上げた。「どうして分からないんだい? 私だって変わってる。何度も何度も、世界が巻き戻る度に変化してるの。それでも、あんたは変わらず私を見つけて愛してくれるんだ。何も特別なことなんてない。たったそれだけのことなんだよ」
「いいや、ラトラナジュ。そんなものは愛ではない」
アランは優しく、だがきっぱりと
「なるほど、たしかに俺は何度でも君を見つける。そうだとも。だがそれは失敗の証だ。俺が選択を誤って、君を死の淵に追いやった証明そのものだ。だからこそ、そんな愚行を愛などと称してはいけない。 君を確実に救う、それこそが愛だよ。俺の愛だ」
アランが装飾腕輪から宝石を一つ取り出す。ことさらゆっくりと石に口づける。
『
ラナの眼前に柱状の水晶が幾重にも立ち上がる。透明な柱の向こうで、詠唱を終えたアランの指先に光が灯った。その指先で石が砕ける。来たるべき衝撃に備えてラナは身構える。
だが、予想に反して衝撃はなかなか来ない。ラナが違和感に気づいたのは一瞬だった。そしてその一瞬の間に、アランは石も持たずに薄く笑んで詠唱を重ねる。
『再臨せよ 怒れる裁定者』
ラナの耳が、異音を拾った。慌てて首を巡らせれば、無数の白光が彼女を取り巻いている。それは雷だ。だが到底、一つの宝石で生み出せる量ではない。ならば、どうやって自分の背後をとったのか。疑問の答えを、稲妻が放たれる直前にラナは得た。血の気が引く。まさか。
アランが軽やかに指を鳴らした。雷が弾け、ラナへと放たれる。彼女は奥歯を噛み、反射的に身を伏せた。後れ毛を焦がして雷が駆け抜けていく。間一髪だった。けれどそれを喜んでいる余裕もなかった。
ほとんど地面を転がるようにしてラナは駆ける。周囲で再び無数の光が灯る。今度は濃灰色だった。それは再び弾け、荒削りの刃の雨を注ぐ。ラナは確信した。同時に、ぞっとするほど冷たい恐怖が心臓を掴む。
アランは、自分と同じように宝石の欠片を使って攻撃している。
『
頭上に展開した揺らめく灰色のヴェールは、かろうじて間に合った。だが盾は薄く、鋭い刃を受けて軋む。大きく震動する。心もとない。あまりにも。
降り止むことのない凶悪な雨音に混じって、「驚くことはないさ、愛しの君」というアランの上機嫌な声が届く。
「
あぁだがもちろん、君を傷つけるつもりは毛頭ない。さも当然のようにアランが付け足す。そこで、ラナの頭上を守っていたヴェールに鋭いひびが入った。
ラナは歯噛みし、砕ける直前で後退する。刃の雨が地面を抉った。
「っ……!?」
「さぁ捕まえた、お嬢さん」
思い切り引き寄せられ、ラナはたたらを踏む。その体を抱きとめたアランは、ことさら優しい声音とは裏腹に彼女を手近な壁に押し付けた。逃れようと足掻くラナの両手首が掴まれ、その頭上に引き上げられる。それでも、まだ体は動いた。まだだ。まだ。追いつきそうになる恐怖から逃れようと、ラナは足をばたつかせようとする。
その瞬間、皮膚の下をなぞるような、ぞくりとした痺れがはしった。痛みと快楽の狭間、神経を逆なでするような刺激に彼女は目を見開き、たまらず唇を開ける。
「っ、ぁ……!?」
「あぁラトラナジュ、いけない子だな」アランがくつくつと喉奥で笑い、ラナの顎へ指をかけた。「お仕置きなのに、そう甘い声を出しては。勘違いしてしまう輩も出てくるだろう?」
「な、に……これ……っ」
「心配しなくていい。
「っ、や……」
アランと目が合う。再び見えぬ指で神経をなぞられる感覚があって、ラナは細い悲鳴を上げて、びくと体を震わせた。つま先をぎゅうと丸める。強い刺激はそれきりだったが、弱い痺れは絶え間なく彼女を攻め立てた。思考も体中の感覚も、するりと
駄目だ。それは駄目。ラナは必死に唇を噛んだ。鈍い痛みに少しだけ正気に返る。指先の機械をすがるように握りしめる。は、と短い息を吐きながら、揺れる視界でアランを
アランの目に
「その反抗的な目も、なかなかにそそられるな」
「っ、う、るさい……っ」
「褒めているんだよ、ラトラナジュ。まさか、君の鮮烈な眼差しがこれほど俺を
ラナの顎から手を離し、何事か思案するようにアランが口を閉じる。
説得だなんて、よく言う。ラナの反論は言葉にならず、痺れを耐えるための呻き声に変わる。だめ、だめ、駄目だ。流されまいと首を必死に横に振る。
そこで、香水と煙草の香りがぐっと濃くなった。整った顔がラナの耳元へ寄せられる。
「そうだ、ラトラナジュ。君の仲間は元気でやってるか?」
ラナはぴたりと動きを止めた。
きっと自分は情けない顔をしていただろうとラナは思った。
されどアランは微笑んだ。先と少しも変わらぬ笑みだった。
「なに、君は失念しているかもしれないが、共喰いのことが心配でね。可哀想に、カディル伯爵が時計台を訪れていた客を残らず共喰いにしてしまったんだ。選りすぐりはあの男が連れて行ったが、残りはこの塔の中にいる。どこだったかな、一つの部屋に閉じ込めておいたんだが。弱いなりに気性は随分と荒いから、そろそろ鍵を壊して部屋を出ている頃合いかもしれない。そうなると、君の仲間が危険にさらされてしまう」
「最低……っ!」ラナは唇を震わせた。「なんてことを……! 邪魔をしたいなら、私にだけ攻撃すればいいじゃないか……!」
「ならば、君は彼らと離れるべきではなかった」
穏やかな指摘に、ラナは喉を震わせた。それを、あんたが言うのか。焼けつくような痛みと共に思う。思うが、否定は出来なかった。だからこそ、無様に震える息を吐き出すしかない。
アランの眼差しに憐れみが混じった。
「俺は君がいる限り、他の人間を本気で攻撃できない。賢い君ならば、少し考えれば理解出来ただろうに」
「……そ、れは……」
「あぁそれとも、気づいていたが見て見ぬ振りをしてくれたのか? だとすれば、君は甘い。本当に」アランは言葉を切り、声を一段低くした。「なぁ、ラトラナジュ。もう終わりにしてしまわないか、こんな茶番」
茶番じゃない。本気だ。ラナは思った。なのに、それもまた言葉にならなかった。指先が震える。当たり前だ、頭の上に手があるのだから血が巡っていないだけだ。アランの拘束から逃れれば、こんなものすぐに戻る。そうだ、今すぐそうすべきだ。でも、本当にそれだけか。
時計台に響く歯車の音に、低い獣の唸り声が混じる。共喰いだ。アランの言葉のとおり、敵が増えようとしている。ラナは身震いした。シェリル達が共喰いに行きあったら?
違う、これも計画通りじゃないか。ラナは弱々しく自身に反論する。アランが予想外の動きをする可能性は考えていた。カディルによる襲撃は予定よりも早くはあったが、それもアイシャが対処してくれている。不測の事態が起こることは百も承知だった。それでも、この計画でいいと決めたのだ。
でも、とラナは思う。再び思ってしまう。本当にこれで正しかったか。もっと良い手はあったんじゃないか。アイシャと共に、カディル伯爵を全員で倒すべきだったのではないか。シェリルたちの傍につくべきなのは、自分だったのではないか。エドを一人で行かせて、本当に良かったのか。
もっと。
「もっと良い手が、あったんじゃないか。そう考えているだろう? ラトラナジュ」
「っ――!」
ことさら優しいアランの声音に、ラナは目を見開いた。そこに至って、ようやく自分が顔を
は、と吐き出す息が震える。痺れのせいではなく、恐怖からだ。そしてそんなラナを
「いいんだ、実に自然なことだとも。自分を責める必要はない」
「ぁ……」
「俺も、いつも考えていた。教会の片隅で君が死んだ時、もっと君から目を離さねば良かったと後悔した。愚かな絵描きに君が殺された時には、余計な人間を速やかに排除しなければならないと学んだ。始まりの時間など、もっと酷かったものさ。あれはすべてが失敗で、愚行でしかなかった。俺だって、完璧ではないんだ。だが、時間の巻き戻しを重ねれば失敗など消し去ってしまえる。事実、一つ前の世界では君の幸せを確信した」
鎖のこすれる、微かな音がした。アランの左手が優しくラナの頬を撫でた。指先はそのまま首筋を辿り、胸元へ向かう。体に熱を灯すような甘さを
ラトラナジュ、とアランは艷やかに
「選択とは恐怖そのものだ。必ず失敗がつきまとい、それは君に癒えぬ傷を残すだろう。だから、君は選ばなくていいんだ。未来などという、不確定な世界は全て捨ててしまいなさい。俺が全てを選んで、君のための幸せな過去を作ってみせるから」
その声は優しかった。その声は甘かった。それはラナの未熟さの全てを許す、絶対者の声そのものだった。
それに、けれどラナは顔を上げて、言う。
「……いらない」
弱々しい呟きに、アランの手が止まる。表情は変わらなかった。美しい笑みだった。けれどそれは空っぽで、虚ろだ。そこに彼はいない。彼が気づいていない、彼自身の本心はない。
ラナの心臓が掴まれたように痛んだ。その痛みがしかし、彼女を正気に引き戻しす。首を振る。目元が熱い。何かが
「いらない……そんなもの、いらない」
「ラトラナジュ、」
「後悔なんて、山ほどあるよ」
ラナは少しばかり声を大きくした。
「ある。もう、いつだって後悔しかないよ。当たり前だろ。私がもっと強ければ? もっと私の頭が良ければ? 皆を分断せずに戦えた? そもそも、こんなことにもならなかったかもしれない。前の世界で、あんたを説得できてたかもしれないんだ。そうすれば、あんたが聴覚を失うことなんてなかった。あんたが手を怪我することなんてなかった。その前の世界で、あんたを傷つけることだってなかった。でも、私が一番後悔してるのは!」
一息に言って、ラナはアランを
それが腹立たしくて、悔しくて、だからラナはくしゃりと顔を歪めて叫んだ。
「後悔、してるのは。あんたにそんな顔をさせてることだ。もっと早く、私は真実に気づくべきだった。あんたが未来に絶望して、そんなに泣きそうな顔をする前に、私はあんたを抱きしめてあげるべきだったんだ」
「おかしなことを」
ややあってアランは声を立てて笑い、目を細めた。
「そんなはずはない、ラトラナジュ。泣くなど。君がこの腕の中にいるのに、何を悲しむことがある? むしろ喜ばしいことだ。君のための幸せを手にすることができるのだから」
「じゃあ、その幸せは、なんなの?」
「……なに、だと?」
「そうだよ。ねぇ、アラン。私のための幸せって、一体なに? 何も知らずにあんたと過ごすことなの? あんたの支払う犠牲に気づかないこと? もしもそれが、私が世界を選ばないことなら、ねぇ、良いんだよ。世界なんて繰り返す必要はないんだ。だって私は、世界を守りたくて、ここにいるわけじゃない。あんたがいいの。ただそれだけの理由で、皆を巻き込んで、皆に何かを捨てさせて、ここにいるの。そうまでしても、あんたが欲しいの。あんたと生きたいの」
アランの表情が凍りつく。その機を逃さず、ラナはありったけの力で身を
距離を置くように走りながら、ラナは乱暴に
共喰いが来たから、計画が狂ったから、後悔してるって? あぁそうだ、そうだとも。この計画の甘さを後悔してる。
それでも、こうなっても良いと決めたのだ。何があっても、エド達なら何とかしてくれると信じたから別れを決めた。何があっても、アランに勝つと決めたから自分はここに残った。後悔したっていい。でも信じたことを疑ってはいけない。二度と、絶対に。
「未来なんて怖いに決まってるだろ!」ラナはアランに、なによりも己自身の弱さに向かって叫んだ。「でも、未来より過去の方が幸せだって、そんなことありえないんだ! どんな選択をしたって、失敗したって! 私は全力で生きて、絶対にアランと幸せになるんだから……!」
ラナの指先が、立方体の側面を回す。かちという音と共に、中に仕込んだ欠片を表出させ、彼女はアランに向かって腕を跳ね上げた。
『
白黒の視界に、数え切れないほどの白光が灯る。間髪入れず放たれた光の剣は、数こそあれど細く頼りなかった。
アランが我に返ったように詠唱を紡ぐ。
ふらついた足がもつれる。地面に倒れ込んだ彼女の足首に鎖がかかる。指先からこぼれた立方体が音を立てて転がり、アランの靴がそれを踏み潰す。
アランが、ラナの体を引き上げた。その顔には能面のような笑みだけがあった。何かに惑うような、けれど何かに苛立つような、奇妙な感情にその目が揺れている。それでも彼は、常と変わらぬ穏やかさと優しさで呟く。
「すまない、ラトラナジュ」
アランはラナの喉元に手を掛けた。ぐっと力が込められ、ラナは呻く。気道が塞がれ、視界が瞬く。なんとかアランの手を引き剥がそうと、ラナは必死に指を掛けた。彼の手は揺らがなかった。彼の表情も変わらなかった。揺れる瞳に時おり浮かぶ、今にも泣き出しそうな張り詰めた感情を含めて何一つ変わらなくて、それが悲しくて。
そこで、ラナの耳に騒々しい鴉の羽ばたきが届く。無数の黒羽がアランへと放たれたのは、その一瞬後だ。
舌打ちとともにアランの手が喉から離され、ラナは床に崩れ落ちた。急に入り込んできた空気に咳き込みながら身を起こしたラナは、すぐ傍に男の姿があることに気づく。
初老の男だ。杖をつき、灰色の髪をきっちりと整え、銀縁眼鏡の奥では
あまりにも普段どおりの様子に、ラナは弱々しく笑った。
「……なんだい、ずいぶんと格好いい登場の仕方じゃないの」
「無駄口を叩く余裕があるとは、大いに結構」黒鴉を
ラナが頷く。二人の眼前で、アランがゆらりと立ち上がった。その
「この、老体が」アランは怒りも
「そうだとも。なに、喜びたまえよ。アラン・スミシー」
エメリは口角を釣り上げたまま、その目に凶悪な光を灯らせた。
「科学を
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