1-1. 奇跡なき世界:魔女の後継と若き医者は、ありふれた恋をする
午後を迎えた診療所は、穏やかな空気で満たされている。
「思ったより傷は深くないね。うん、これなら
「ありがとですにゃ、ヒル先生」
「お礼は要らないよ。これくらいしか僕には出来ないからね」
ヒルは小瓶に入った軟膏を指先で取った。アイシャの右手を取り、その二の腕に刻まれた、獣で裂かれたような爪痕へ塗りこむ。
丸椅子に腰掛けたアイシャがはにかんだ。
「なんだか、変な気分ですにゃ」
「うん、変っていうのは?」
「こうやってヒル先生に手当してもらってると、何もなかったみたいですにゃ」
アイシャが床から僅かに浮いたつま先をぶらつかせた。指に残った軟膏を布で拭き、ヒルは「そうだね」と目元を緩める。
「お昼も食べ終わったし、午後の往診の準備をしてる頃かなぁ」
「ですにゃ。持っていくお薬を選んで、車に積み込みしてるんですにゃ」
「そうそう。その間に、僕は端末に入ってるカルテを確認してるんだね」
「それで、いつも時間ギリギリの出発になるんですにゃ」
「はは、面目ない。アイシャちゃんがいなかったら、絶対に忘れ物か遅刻してるよ、うん。タチアナさんにも、よくそれで怒られるし」
ヒルはそばかすの浮かぶ頬を
膝の上で手を組み、静かにヒルは問いかけた。
「エドナさんと、最後にちゃんと話はできたかい?」
「ううん」アイシャは申し訳無さそうに首を横に振った。「出来なかった、ですにゃ」
「そっか……」
掛けるべき言葉に迷うヒルの頬を、割れた窓ガラスから吹き込んだ秋風が撫でる。
日常の延長など嘘だった。世界は三日間だけ巻き戻った。巻き戻る直前に診療所は共喰いの襲撃を受けた。そしてエドナ・マレフィカという魔女は死んだ。亡骸さえなく、それは彼女が契約していた悪魔が喰らったせいなのだった。
そしてエメリ・ヴィンチの理論が正しいのならば、死んだ人間は生き返ることができない。
ヒルの手に、僅かに力がこもった。結局自分は、どこまでも無力なのだと思う。
「大丈夫ですにゃ、ヒル先生」
ヒルが顔を上げる。その先で、秋の陽光に白銀の髪を
「心配は、いらないのですにゃ。後悔してないって言ったら嘘ですにゃ……でも、これでいいって、思うんですにゃ」
これでいい、と、そう口にしたアイシャの表情は思いがけず晴れやかで、ヒルはまじまじと彼女を見つめる。その一言が、生半可な覚悟で口にされたものではないことはすぐに分かった。だからこそ、彼は唐突に自覚する。
心優しく内気な少女は、いつの間にかたくましく、綺麗になった。
どきりと心臓が鳴る。飲み込みかけた唾が気道に入り、ヒルは
「ヒル先生?」
「や、な、なんでもないよ! アイシャちゃん!」
赤面する顔を背けながら、ヒルは慌ただしく椅子から立ち上がった。不思議そうなアイシャから目を逸らし、机の上に並んだ小瓶をもっともらしく取り上げる。
いやいや、自分は何を考えているんだ。意味もなく小瓶の蓋を緩めたり閉じたりしながら、ヒルは
心中で理路整然と並べたところで、ふとベッドに置かれた灰色の猫の人形と目があった。ジト目だ。いや、人形だからそんな筈がない。ぎこちなく視線を引き剥がす。その先に、きょとんとしたアイシャがいる。
ヒルはぴしりと固まった。よくよく見れば、彼女の肌は雪のように白い。髪は柔らかそうだし、そういえば近づいた時には良い匂いがしていたような。
「って、そうじゃなくて!」
ヒルは両頬を勢いよく叩いた。アイシャが目を丸くする。
「だ、大丈夫ですかにゃ!?」
「だ、大丈夫だよ! 全然、これっぽっちも!!」
「でも、顔が赤いですにゃ。体調が悪いとか、にゃっ!?」
勢いよく立ち上がったアイシャが、足をもつれさせた。ヒルは慌てて腕を差し出す。
受け止めた体は、予想のとおりに柔らかかった。アイシャが頬を赤くする。けれど小さな手はヒルの腕を掴んだまま離さない。
心臓がもう一度どきりと鳴り、ヒルの理性が吹っ飛んだ。
「……だ、駄目だよ。アイシャちゃん」ヒルは噛んで含めるように呟いた。「僕も一応男だから、こういう勘違いさせるようなことは良くない、というか」
「……か、勘違いじゃなかったら、いいんですかにゃ」
こんな状況なのに、か細い声でアイシャが返す。ヒルはたまらず彼女の目を片手で塞いだ。その背中を押し、小さく震える唇へ顔を寄せる。
「何やってるんですか」
響いた呆れ声に、ヒル達はすんでのところで体を離した。二人揃って戸口を見やる。半開きの扉から顔をのぞかせたエドの、白けた視線が突き刺さった。
*****
慌ただしく準備を整えたヒルが、診療鞄片手に部屋を飛び出した。少し遅れて、アイシャもそそくさと部屋を出ていく。
一歩下がったエドは、白々しく手を振って二人を見送っていた。
その袖を、ラナはやや乱暴に引っ張る。振り返った彼は悪びれもしない。ラナは腕を組み、エドを軽く睨んだ。
「ちょっと、なにやってるんだい。エド」
「別に。うっかり狼になりかけてた男を追い払っただけだろ」
「狼なんて! ヒル先生だから大丈夫だろ」
「それを褒め言葉と取るべきか否か、議論が分かれるところだな」
エドは呆れたように肩をすくめた後、「まぁでも」と言葉を続けた。
「ヒル先生とアイシャのやりとりを盗み見してた君も、大概趣味が悪いと思うけど」
「う……」ラナは視線を泳がせた。「それは、その……」
「アイシャの様子が気になってたから、だろ。それなら良かったじゃないか。随分と元気そうだ」
「……うん、まぁそうなんだけど」
「エドナ・マレフィカが死んだことが気になる?」
ラナは
おもむろに伸ばされたエドの指先が、ラナの額を弾いた。鋭い痛みに顔を跳ね上げれば、エドが悪戯っぽく笑う。
「なんでもかんでも、自分のせいだと思わない。信じるって決めたんだろう?」
額を押さえたラナは、ぱちりと目を瞬かせる。じわりと込み上げた気恥ずかしさを誤魔化すように頬を緩めた。
「そう、だね……うん。ありがとう」
「謝らないだけ、君も成長したね」
「……なんか上から目線だね?」
「これでも、君よりは年上だから」
指先をくるりと回しながら、エドがどこか得意げに言う。ラナは小さく吹き出した。
廊下の奥から、
「まったく、こんなところで時間を無駄にしていたのかね。貴様らに油を売る暇など、どこにもないはずだが」
「ちょっと休憩してただけだろ」ラナは頭の上の鴉を睨めつけた。「準備はほとんど終わってるはずだよ。あんたが一人で安全な場所に逃げてる間に」
「逃げるはずがなかろう。安全の確保される場所に身を移しただけだ。それを追いかけられない貴様らに落ち度がある」
「未だに隠れ場所を教えてくれないじゃないか」
「当然だ。時間の巻き戻しに成功したとはいえ、未だ全ての電子端末は敵の手に落ちている。情報の
鴉は羽を震わせ、ぐっと頭を上げた。小さな目で、器用に二人を
「さて、知らせだ。西地区に飛ばした鴉が多数の共喰いの出現を確認。十三分十八秒後にここに到達する」
エドが顔をしかめた。
「
「いつ告げようと結果は変わるまい。誰かが対処し、残りが敵の本拠地に向かう。計画通りだ」
「言うのは簡単だけどね……」
心底うんざりしたラナの声を合図に、二人は歩き始めた。廊下を抜け、診療所の外へ出る。
アイシャとヒルは車に詰め込みをしている最中だった。車体に背を預け、どこかぼんやりとしているのはマリィだ。ラナ達の姿を認めるなり、彼女は瞬き一つでいつもと変わらぬ笑みを浮かべる。
「お、二人ともどーしたんだ?」
「共喰いです、マリィ先輩。それも多数」
「おおう、そりゃまた……なんだ、時間が巻き戻ったから、同じ行動繰り返してるみたいなヤツ?」
「そんなはずがあるまい」鴉はマリィの冗談を一蹴した。「時間の巻き戻しは、あくまでも感覚的なものだ。巻き戻った世界で、前回と同じ事象が発生するはずがない。明確な意図がない限りな」
「カディル伯爵が、私を狙ってるんですにゃ」
車の後部座席に置いていた猫の人形を取り上げ、アイシャが断言した。ラナが尋ねる。
「狙うって、なんでだい?」
「私が悪魔と混ざってるから、ですにゃ。少なくとも伯爵はそう言ってたのですにゃ」
「研究材料として欲するというところかね。なるほど、なかなかどうして科学的じゃあないか」
エメリの皮肉に、ラナが顔をしかめる。されど当のアイシャは気を悪くした風もなく「そうですにゃ」と頷いた。
「なら、私が足止めするのが適任ですにゃ。
「だ、駄目だよ!」
赤毛を揺らし、ヒルが反論の声を上げた。
「だって……それはアイシャちゃんが一人でここに残るってことだろう? ヴィンスさんとエドナさんがいても対処しきれなかったんだ。それを彼女一人なんて。せめてもう一人……いや、二人くらい、ここに残るべきだ」
「それこそ、駄目だ。ヒル先生。気持ちは分かるけれど」
「どうしてだい、ラナちゃん」
批難がましい視線は、普段のヒルからは想像もつかないほど鋭い。案じる気持ちは痛いほど分かった。それでもラナは、一切に気づかぬふりをして静かに答える。
「午前中に話しただろ。アランとテオドルスさんを止めなきゃ、何度だって世界は巻き戻る。そしてそのためには、あんたも含めて全員が力を合わせなくちゃ」
「ラトラナジュ・ルーウィは実にお優しい」エメリは冷ややかに付け足した。「もっと端的に言いたまえ。一時の感情で計画を乱すのは認めんということだ。一人でも計画と外れる動きをすれば、我々は敗北する。実に簡単な
「……そんなに計画が大事なら、アイシャちゃんも僕たちと一緒に連れて行くべきだ」
「くどいぞ、ヒル・バートン。アイシャ・カディルは、もとより伯爵に対処する予定だった。ならば彼女がここに残るという選択自体は、まったくもって計画どおりだ」
歯噛みするヒルへ、アイシャが困ったように微笑んだ。
「心配ありがとうございますにゃ、ヒル先生。でも大丈夫ですにゃ。私だって一人じゃないんですにゃ」
「でも……」
何事か言いかけて、ヒルは悔しげに口を閉じた。ぶるりと体を震わせ、憂いの滲む目をそらす。
「……アイシャちゃん、少しだけ動かないでいてくれるかな」
「にゃ?」
ヒルは
エドが軽く口笛を拭き、ラナは慌てて彼の脇腹を小突いて諌める。顔を赤くしたアイシャがそろりとヒルの方を見やった。
「あ、あの、ヒルせんせ……」
「髪の毛、汚れちゃうのは良くないから」ヒルは早口で言って、そばかすの浮かぶ頬を掻いた。「いや、こんな……お菓子のリボンで申し訳ないけど……」
「そ、そんなことにゃあですにゃ! うれしいですにゃ!」
「なら、よかった」
ほっとしたように頷いて、ヒルは腰を折った。アイシャと目を合わせる。
「こんな言葉しか掛けられなくてごめん。でも、生きて帰ってきてくれ」
*****
ヒル達を乗せた車が去った後、アイシャは熱い頬を両手で挟んで座り込んだ。髪に触れ、その先のリボンを指先で撫でる。
彼にもらったのだ。しかも、自分の心配までしてくれた。思い出すだけで胸が高鳴り、アイシャは溜息をついてニャン太の頭に顔を埋める。
「にゃにゃにゃ……ヒル先生……かっこよすぎですにゃ……」
「なによ、なによ! あんなの、ただのヘタレでしょー!」
もぞりと動いたニャン太が、無粋な甲高い返事をする。アイシャは唇を尖らせ、灰色の猫の人形の首根っこを掴んでぶら下げた。
「うるさいですにゃ。ちょっとは大人しくしてて欲しいのですにゃ」
「さっきまで大人しくしてたでしょ! ていうか、なんでよ!? なんでアイシャが小汚い人形に入ってるわけ!?」
「人形じゃなくて、ニャン太ですにゃ」
「ニャン太だろうがミャン太だろうが関係なーい! 口調的に、どう考えてもあなたがこっちじゃない! アイシャは外に出てミルクティを飲みたいのー! それからハミンスのフルーツタルトと、海猫屋のトマトたっぷりのピザとー!」
「はいはい、全部終わったらニャン太の口に突っ込んであげますにゃ」
「馬鹿なの!? 人形のままで食べられるわけないでしょ!?」
騒がしいもう一人の自分に、アイシャはうんざりと首を振った。時間が巻き戻ってからというもの、彼女はニャン太を介してアレコレと注文をつけてくるのだった。
アイシャの気持ちを読んだかのように、「お言葉ですけど」とニャン太がぶうと頬を膨らませた。
「時間が巻き戻ってからこっち、好き勝手やってるのはあなただけじゃない。不公平よ。不公平」
「好き勝手やってるわけ、」
「へええええ?
「にゃ!?」アイシャは赤面してニャン太を抱きしめた。「そ、そんなことないですにゃ!」
「……ってちょっと待ちなさいよ。アイシャの首が締まって、」
「ヒル先生は……私みたいなお子様に興味なんかないですにゃ……」
「分かった、分かったから力を緩め、」
「で、でも今日のヒル先生はかっこよくて……リボンも……」
「息……いき、できな……」
アイシャがうっとりと頬を染める中、ニャン太がぐるぐると目を回す。
そこで獣の
雲ひとつない晴天の下、ゆったりと近づく共喰いの姿がある。数は十数。建物の二階ほどもありそうな巨体から、アイシャたちと同じくらいの背丈の獣まで。いずれも黒い
群れを先導する、ひときわ大きな獣があった。巨大な頭部は
「あああ……アイシャ、我が愛しき娘よォ! 同じ場所で父を待っていてくれるとは、いじらしい子だ!」
紅の目を光らせ、黒衣でもまとっているかのように己の体を風に揺らめかせて、共喰いがねっとりと
ニャン太が白けた声を上げた。
「何よアレ。あなた、あんなのと知り合いなの? 最っ高に趣味がどうかしてる」
「冗談はよしてくださいにゃ」溜息をつき、アイシャは黒のワンピースの裾をはたいて立ち上がった。「分かってるくせに。アレはカディル伯爵ですにゃ」
「つまんなーい! 真面目に答えないでってば!」
強く風が吹いた。腐臭にアイシャが顔をしかめる中、カディルはゆったりと歩きながら嬉しそうに話す。
「いやはやァ、どちらも威勢がよい娘で嬉しい限り。それでェ、どちらが悪魔なのかね? えェ、分からないか。なになに構わんよ。魔術は血に宿る。なれば血を扱う我ら魔術師が、より深く悪魔と混じって境界が曖昧になるのはァ、道理というもの」
あと数歩というところでカディルは立ち止まった。共喰いの動きも揃って止まる。
「アイシャ……あぁアイシャアイシャアイシャ! さァ、その服を裂き、腕をもぎ、腹を捌いて血をすすらせておくれ! さらなる高みへと儂を押し上げるためにィ!」
「うるさい、
アイシャとニャン太が揃って返す。その周囲に緋色の燐光が舞った。苛烈な輝きを帯びた灯火を従え、彼女たちは真っ直ぐにカディルを睨みつける。
「あなたはここで倒すんですにゃ」
「そういうこと! アイシャちゃん達が、ぎったぎたにしてやるんだから!」
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