9. 人心を解するのも、研究者には必要な能力の一つなのだよ
戻ってきたロウガ達を迎え入れ、エメリの書斎はいっそう手狭となった。それもこれも、エメリが天秤屋から買い取った古めかしい機械が置かれているからなのだった。部屋の入り口近くには色あせたビデオカメラ、申し訳程度に置かれた数脚の丸椅子の間をぬって走るのはコード類。床のあちこちには、組み立て途中の機械模型が乱立している。
一体、ここ数日の間に何があったというのか。ロウガ達に、ここまでの経緯を話し終えたラナが
「おや、集まったのはこれだけかね。
組んだ指先を擦り合わせながらエメリが鼻を鳴らせば、入り口近くに
「申し訳、ないですにゃ……神父様もエドナも、部屋にこもったきりなのですにゃ……」
「まったく、嘆かわしいことだな。この私自ら教鞭をとる機会など、そうそう無いというのに」
「
「アラン・スミシーを止める方法など、お前が説得するほかあるまい。むしろそれ以外に何があるのかね?」
あっけからんとした言葉に、ラナは一瞬言葉に詰まった。
「それは、そうかもしれないけれど……じゃあ、あんたは何をしてくれるっていうの」
「戦略だよ、ラトラナジュ・ルーウィ。古来より、戦略なき戦術は敗北をもたらすと決まっているからな」
馬鹿にしたようなエメリの声に、ラナは引きつった笑みを浮かべた。
巨大な白板の前に立ったヒルが、ペン片手におずおずとエメリの顔を伺う。
「あのう……ところで、これは何のための板で、どうして僕はここにいるのかな……?」
「それは天秤屋から買い取ったホワイトボードだ。電子パネルの代わりに使いたまえ。なに、君は映えある私の助手に選ばれたのだからな、胸を張るがいいさ。そして、これから話すことを一言一句違わず書き留めろ」
「いやあの、僕は医者であって、雑用係じゃあ、」
「最初の言葉は、そうだな。アラン・スミシーと不愉快な災厄について、とでもするか?」
エメリのすげない返事に、ヒルは肩を落としてボードに向かった。
「ううう……アラン・スミシーなんて名前、書きたくないんだけど……」
「そういえばさっき、不吉だって言ってたけど。あれは一体どういう意味だったんだい?」
ラナが問いかければ、ヒルは気乗りしない様子で頬に浮いたそばかすを掻いた。
「僕は映画をよく見るんだけどね。アラン・スミシーっていうのは、映画で不祥事が起きた時に、実名を出したくない監督が使う名前なんだよ。実体のない人間とでも言うのかな」
「実体がないとは、
再びラナ達をぐるりと見回し、エメリは口を開いた。
「手がかりは幾つもあるが、今回は三点を特筆しよう。一点目は
ヒルが顔をこわばらせてエメリに尋ねた。
「最後のって、タチアナさんの病気のことじゃないんですか?」
「そのとおり、ヒル・バートン医師。記録上では、十数年前に貴様が途方に暮れ、私が技術提供して手術を成功させた
思わぬ言葉に、ラナは目を丸くした。先程返されたばかりの懐古時計を見下ろす。胸元に下げたそれは、微かな歯車の音を響かせながら時を刻んでいた。
おいおい、と弱りきった声を上げたのはロウガだった。
「ちょいと待ってはくれねえか、エメリ教授。確かに時間がおかしなことになってる、って話は聞いちゃあいるがね。それが原因ってのは一体……」
「無論、一つ一つ説明してやるとも。まずは懐古症候群から解明するが、ここからは経験者も交えて議論を進めるとしようか」
エドがゆっくりと目を開けた。彼は壁から背を浮かせ、落ち着いた様子で話し始める。
「時間が巻き戻った後の世界では、大半の人間が前の世界のことを覚えていない。ただ一方で、少なからずの例外もある」
「はぁ。例外ってのは?」
「巻き戻った前の世界のことを記憶している人間のことだ、ロウガ刑事。それを俺たちは懐古症候群と呼ぶ」
ロウガがあんぐりと口を開けた。エメリがヒルに板書を指示しながら言葉を継ぐ。
「実際に、そう考えると腑に落ちるのだ。懐古症候群の患者は過去を嘆くが、患者の経歴に該当する過去は存在しない。ゆえに、患者は気が触れたと診断を下すわけだ。だが仮に、患者の嘆く過去が前の世界で体験したことであるなら、何も矛盾はない」
エメリはちらと、エドの方を見やった。
「こう考えれば、エドワードのみがこの世界で記憶を保持していたというのも、懐古症候群に罹患したことと無関係ではないと推察される」
ラナは眉を潜めた。
「それはおかしいんじゃないかい。エドの懐古症候群は、前の世界の私が治してるはずなんだよ。仮に、懐古症候群だった、ってことが大事なんだとしても……エド以外にも過去を覚えている人がいるはずじゃないか。日記を読む限り、私は他の人間も治療してたんだから」
「凡人にしては良い質問だ、ラトラナジュ・ルーウィ」エメリはくるりと指先を振った。「なに、単純なことだ。治療の方法が違うのだよ。他の患者は懐古時計を用いて治療された。対して、エドワードは時計を使わずに治療された」
「この時計が、なにかの違いを生んでるってこと?」
「時計を用いない治療は不完全なのだろうさ。懐古症候群の症状自体は消失する。だが、懐古症候群の持つ『過去を記憶する』という性質までは治癒できない」
シェリルが戸惑った声を上げた。
「ねぇでも、懐古症候群で見られる症状はそれだけじゃないでしょう。彼らは末期になれば異形の化け物になる。それはどう説明するつもり?」
「それに関してはラトラナジュの方が詳しいんじゃないかね?」
「え、私?」
ラナが目を瞬かせれば、エメリが事も無げに付け足した。
「いいか? 懐古症候群の患者は過去に固執する。決して戻らぬ過去を取り戻さんと強く願うのだ。考えても見ろ。強き願いが何を引き寄せるか」
「……悪魔」
ラナはぱちと目を瞬かせた。天秤屋で読んだ初期の魔術体系の話が蘇る。
「そうだ……魔術って、本来は悪魔に願いを捧げて行使するもの、だから……」
「懐古症候群の患者が悪魔と契約したってわけ?」
シェリルに問われ、ラナは迷いながらも頷いた。
「そう、なのかも。私も詳しくは知らないけれど……でも、正しく契約されれば、あんなことにはならないはずで」
「恐らく、ここにも不完全さが絡んでくるんだろう」エドがゆっくりと助け舟を出した。「共喰いの話とあわせて考えてみればいい。共喰いは人間と悪魔を強制的に混ぜて作る。それが自然発生したのが懐古症候群の患者だ。覚えている過去があるがゆえに、強くそれに執着する。それを悪魔が見つけて、不完全に人間と契約を結ぶ」
ホワイトボードにむかってペンを動かしていたヒルが手を止め、首を傾けた。
「あのう……じゃあ、他の手がかりについては……? 例えば二点目に、日記を挙げていたわけだけど」
ラナはすかさず答えた。
「その日記には、巻き戻る前の世界のことが書かれているんだ。だから当然、それも証拠として、」
「いいや、記述自体にさしたる重要性はない」
エメリにぞんざいな声で否定され、ラナは言葉を途中で止めた。一体どういうことなのか。視線だけで問えば、エメリが冷ややかに目を細める。
「まさかとは思うが、ちょっとした偶然でこの日記が存在していると思ってはいないだろうな?」
「……そうなんじゃ、ないのかい」
「あぁ全く嘆かわしい思考停止だ。そのような奇跡など起こるはずもなかろう」
エメリは大仰に溜息をつき、椅子を軋ませた。
「いいかね。この現象には一つの特徴がある。それは、我々の時間は巻き戻っても、物質の時間は巻き戻らないということだ。この日記は、まさにそれを体現しているのだよ。紙に記述された記録は保存される、という形でな。そしてこのことは、三点目の手がかりにつながる」
例の、肉体と精神の年齢が乖離する病だ。そう前置きして、エメリは言葉を続けた。
「十中八九、時間が巻き戻った場合は、人間の意識も肉体も時間が巻き戻る――つまりは若返るというわけだ。だが、これが不完全に発生した場合、二通りの
エメリは手元のキーボードを叩いた。ラナ達の方へ画面を向けながら、話を再開する。
「いいかね。状況証拠を
「……そのわりには、随分と楽しそうだけれど」
「そう見えるというなら、お前の目は随分と節穴じゃあないか。ラトラナジュ・ルーウィ」
エメリは肩をすくめ、話を続けた。
「それでは、アラン・スミシーの動機に目を向けてみようか。既に聞き及んでいると思うが、アラン・スミシーという男はそもそも人間ではない。アレは悪魔であり、始まりの世界でラトラナジュと契約を結ぼうとした。ところがプレアデス機関の計略により、かの男はラトラナジュを失い、そこを起点に時巡りの世界が開始した。この理解に異論はあるかね? ラトラナジュ」
「いいえ」
「よろしい。次だ。エドワードの話を聞くに、一つ前の世界のラトラナジュという女は死を選び、これを止めようとしてアラン・スミシーは時間を巻き戻した。なんと偶然なことに、ここでもプレアデス機関という名前が登場する。この時は魔術協会のヴィンセント神父が守り手だったようだが」
アイシャが顔を青くした。
「……それは、今もそうですにゃ。神父様は、プレアデス機関の指示ばかり仰いでいるのですにゃ」
「ほう、利用すべき機械に依存するとは如何にも愚かな人間の典型だな」
エメリが鼻を鳴らす。難しい顔で考え込んでいたテオドルスが、ゆっくりと口を開いた。
「……てことは、こうも考えられんのか? 何らかの形で、プレアデス機関はラトラナジュという女の死に関わってる。だからこそ、アラン・スミシーはプレアデス機関に恨みを抱き、それを守る人間ともども排除しようとしている、とか」
「そんなところだろうよ。定められた死に抗うために、あの男は行動する。実に陳腐極まりないことだがね。おや、何か言いたそうだな、テオドルス」
「あー……いや」テオドルスは気まずそうに頬を掻いた。「教授、まさかあんたが真っ先に肯定するとは思ってなくてな」
「人心を解するのも、研究者には必要な能力の一つなのだよ」
気まずそうに目をそらすテオドルスに、エメリは目だけで笑った。
エドが咳払いする。
「いずれにせよ、仮説はあながち間違いでもないと思います。過去のアランの行動を見ても、プレアデス機関の用意したラナが殺される未来を回避するってことなら頷ける」
「だったら、なおのこと止めなきゃ」
ラナはゆっくりと口を開いた。部屋中の視線が集まるのを肌で感じる。奇しくも七日前と同じ光景の中で、ラナは静かに、けれどきっぱりと宣言した。
「ちゃんと、生きるもの。もう殺されることも、死を選ぶこともないって、アランに伝えるよ」
「いい顔してんじゃんか」
真っ先に声を上げたのは、マリィだった。ソファから勢いよく立ち上がった彼女は、にこりと微笑んで伸びをする。
「んー! そしたらここは、いっちょ私達が一肌脱がないと、だよなぁ!」
「げ……やっぱり行くのかよ」
「やー、そりゃ勿論そうだろ、テオ! 要はアランが悪の親玉ってやつみたいだし? そのアランに手を出すってんなら、共喰いを創ってるカディル伯爵も黙っちゃいないだろうしさ! そうなりゃ、私達がばーんっと登場して、ラナちゃん達をどーんっと助けるってのが一番じゃんか」
「いや、最後だけ滅茶苦茶ぼんやりしてるんだけどな!?」
マリィとテオドルスのやりとりに、部屋の空気が緩んだのをラナは感じた。エメリは興味なさげに、ヒルは微笑ましいものを見るかのようにマリィ達を眺めている。ロウガとシェリルは視線を交わしているが、そこに否定的な色はない。アイシャの顔色は相変わらず悪いが、それでも何事か真剣に考えているようだった。
向かいに立つエドが、ラナに向かって力強く頷いた。それにラナは頷き返し、一歩前に出る。
「ありがとう、皆。色々と言いたいことはあるかもしれないけれど……でもごめん。ここまで来たからには、私は皆を最後まで利用させてもらう。エメリ教授、どうせあんたには私達がどう動くべきかの案もあるんだろう?」
「戦略はあると、最初に言ったはずだがね」
「なら、一度相談させて。その後で、皆がどう動くべきか改めて伝えるよ」
アランと対峙するまで、残り二日。それまでに準備を整える。強い決意と共に、ラナは話し合いを締めくくった。
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