8. やっぱり俺は、君が綺麗だと思ってしまうんだから

 散々な一日だったと、エドがベッドに腰掛けてぼやく。ラナは苦笑いして、タチアナから預かってきたベッドシーツを手渡した。


 日が沈み、二人はタチアナの家に身を寄せていた。老獪ろうかいの教授に質問攻めにされていたエドを見かねてのタチアナの提案だったが、結果的には正しかったようだ。文句を並べながらも身体の力を抜いた様子のエドに安堵して、ラナは窓辺に近づいた。


 かつてアトリエとして使われていた部屋には、乾いた絵の具の甘い香りがしみついている。ラナが少しだけ苦労してガタついた窓を押し上げれば、夏と秋の狭間の夜風が吹き込んだ。


 心地よい風に髪を遊ばせて、ラナは窓枠に手をついた。街灯一つない裏通りは寂れた黒に沈む。それでも今宵は満月だ。少し遅れてラナの隣に立ったエドの横顔が、仄白い明かりでぼんやりと照らされる。


 時計台の鐘が、夜の空気を震わせた。静かに降り積もる鐘の音を数え終え、ラナはゆっくりと口を開く。


「随分と長い間、エメリ教授に捕まってたよね」


 エドは溜息をついた。


「ほとんど尋問だよ。すっかり忘れてたけど……あの人はそういう人間だった。情報に貪欲なんだ。そのためなら、何だってする」

「しそうだねぇ。しかも、私達が反論できないように逃げ道を塞いできそう」

「嬉々としてね」

「そして、私達は反論できない」

「そうさ」一度言葉を切り、エドはじっとラナの方を見つめた。「そして君は、そうと分かっていながら教授を俺のところに差し向けた」


 呼吸一つ分の静寂が落ちた。

 ラナは窓枠に身を預ける。向かいの建物の壁で、灰色のつたの葉が風に揺れた。

 それを眺めながら、ラナは「そうだよ」と穏やかに頷いた。


「私は、エドを教授に売った。アランを止めるための協力がほしかったから。ふふ。私にしては、上手く出来たと思わないかい? あの教授をその気にさせたんだからさ」

「…………」

「その後に、エドナさんとも話をしてね。その時に思ったんだ。アランを止めるには彼の過去も知らなきゃ駄目だなって。だから、彼女に頼んで、悪魔も融通してもらったの。会ったのはね、アランにそっくりの記録の悪魔だったよ。私の願いを映したからそうなったんだ、って言ってたけど。だったら、もう少し愛想の良い感じになれば良かったのにね」

「…………」

「でも、うん。ちゃんとアランの過去を見せてくれたから、問題はなかったかな」

「……ラナ」

「うん」

「君はそれで、何を差し出したんだ?」


 エドの問いかけに、ラナは目を閉じた。


「教授には懐古時計と日記。悪魔には色のある世界」


 目を開けて、隣を振り仰ぐ。色を失った白黒モノクロの世界で、ラナはエドの表情をじっと見つめた。


 彼が、反対することは分かりきっていた。


 確かにエドは、いつも自分の傍にいてくれた。けれどそんなもの、家族の情の延長線に過ぎない。彼はアランを危険視している。その意思はきっと変わらないだろう。


 ならば自分は、エドの家族の情さえも利用すべきだ。だからこそ失ったものの話をした。そうすれば、彼が自分を放ってはおかないだろうと思ったから。


 憐れむか。怒鳴るか。はたまた何も言わずに部屋を立ち去るか。何が起こってもいいように、ラナは全身を緊張させる。


 そしてエドが、ゆっくりと口を開いた。


「――君は、俺にどうして欲しいんだ?」


 静かな問いは全くの予想外で、目まぐるしく動いていたラナの思考が急停止した。

 呆然と見上げた先から、表情一つ変わらぬエドの視線が注ぐ。


「憐れんでほしかった? 君ばかり貧乏くじを引いて可哀想に、って?」

「え……っと……」

「怒ってほしかったのか? 無茶ばかりするなって?」

「その……」

「あぁ、何も言わないっていう選択肢もあるか。その場合、君は家族に愛想をつかされた女ってことで、誰かの同情を買うのかな」

「エド、」

「俺は、怒ってる」


 エドの声が少しばかり大きくなり、ラナはびくりと体を震わせた。

 遠くから通りを走る車の音が響く。僅かに首を傾けたエドの顔に影が落ちた。


「無茶をする君に怒っているんだ。でも同時に、簡単に自分を売ってしまう君を憐れんでもいる。俺たちの心配を少しも考えてくれない君に苛立ってもいるし、分からず屋の君なんか放っておいて、今すぐにでもアラン・スミシーを殺しに行きたいとも思ってる。でも、そうはしない。何故か分かるか? 俺が君のことを好きだからだ」

「……え」

「俺は、君を好きなんだよ。愛してる。家族じゃなくて、一人の女性として」


 ラナはまじまじとエドを見やった。彼の表情はいたって真面目で、これが冗談でも、聞き間違いでもないこともすぐに分かった。

 分かって、だからこそラナの顔から血の気が引く。


「待って……」ラナは色を失った唇を震わせた。「駄目だ……エド、それは駄目だよ……」

「なぜ?」

「だって、エドのことは大切だけど……私が好きなのは、エドじゃ、なくて……」

「うん」

「……あなたじゃ、なくて。アラン、だもの」

「そうだろうね」

「そうだろうね、って」ラナは苦労して湿っぽい笑みを浮かべた。「なにそれ。知ってたの」

「見てれば分かる」

「分かってるんなら、なんで」


 なんで、好きだなんて言うの。口にしかけた問いが如何いかに無粋なものかに気づいて、ラナはとうとう愛想笑いを浮かべることもできなくなった。


 胸元をぎゅっと掴んだ。そこでやっと、自分の胸が刺すように痛んでいることに気付く。今さらすぎて笑いそうになる。感傷なんて、アランを止めたいと皆の前で宣言した時に捨ててきたはずだ。罪悪感を抱く資格もない。だって、自分はエドのことを利用するつもりでここにいる。


 美しく笑えばいい。甘えればいい。私のことを愛しているのなら協力してと、傲慢ごうまんにも言ってやればいいのだ。エドの望むように、彼に触れて。必要ならば、耳心地の良い嘘をかたって。


 ――なんて、自分は、汚い女だろう。己の思考に吐き気がして、ラナは項垂うなだれる。


「馬鹿だな、君は」


 呆れ声にのろのろと顔を上げれば、エドは困ったように微笑む。それ以上は何も言わなかった。けれど、そのたった一言で、ラナは彼が何もかも承知の上でここにいることに気づく。


 鼻の奥がつんと痛くなった。ラナはふと、彼と過ごした二十年近くの月日を想う。あるいは、彼が一人で抱えてきたであろう、それ以前の月日を。あぁどうしてもっと早く。浮かんだ後悔がしかし、どうしようもないほどに偽善であることも分かっている。


 自分が追いかけたいと願ったのは、エドとの時間、ではない。


 ラナは目を伏せた。震える息を無理やり吸い込む。胸は痛く、それでも涙を零すまいと再びエドを見上げる。


 そして、精一杯に傲慢に笑ってみせた。せめて彼が、なんの未練もなく自分に愛想を尽かしてくれるように。


「エド、お願い。アランを助けるのを、手伝って。たとえ、あなたが彼のことを嫌いだとしても。私を愛しているというのなら、私のために彼を助けて」

「――承知した」


 エドが目を閉じて頷く。それはひどく静かで、けれど決定的な何かが変わってしまった瞬間でもあって。それでも泣くべきではないのだと、ラナがぎゅっと唇を噛んだところで、夜風が吹いた。


 レースのカーテンがほどけて月明かりに揺れる。それを捕まえ、エドはラナの頭からふわりとレースをかけた。


 一歩、近づく足音。そして真白のヴェール越しに、エドはそっと唇を重ねた。ぬくもりは刹那に遠ざかる。目を丸くするラナに「俺も大概、馬鹿だなぁ」とエドは呟いた。


「こんな風に言われても、やっぱり俺は、君が綺麗だと思ってしまうんだから」


 そう言って、彼は泣き顔にも似た笑みを浮かべる。

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