7-3. ぬくもりは、寂しさの特効薬だもの

 ラナから一通り話を聞き終えたエメリが所望したのは、前回の世界について綴られた日記だった。それを診療所に持ち帰って来たものの、当の教授はエドの病室にこもったまま出てこない。


 色あせた日記の表紙を撫で、ラナは一つ息をついた。給湯室に足を向け、椅子に腰掛けて辺りを見回す。


 一口しかないコンロ。マグカップを二つ置けば埋まってしまう流し。一人分の冷蔵庫。ほのかにコーヒーの香りが残る空気を、小窓から差し込む晩夏の陽射しが青く染めている。


「やぁねぇ、電気もつけないで感傷なんかに浸っちゃって。湿っぽいったらありゃしないわ」


  当てこするような声と共に、エドナが現れた。胸元は大きくはだけ、乱れた金髪も降ろされている。彼女は冷蔵庫から麦酒の小瓶ミニボトルを取り出し、ラナの向かいに腰掛けた。


「聞いたわよ。貴女、午前中の話し合いで大見得を切ったんですってね」


 酒で唇を湿らせたエドナは、ラナが机の上に置いた日記を無造作に引き寄せた。興味なさげにページをめくりながら、言葉を続ける。


「神父様ったら、怒り心頭だったわよ。頭がおかしいとか、気が触れてるとか」

「いいよ、別に。なんて言われたって構わない」

「あら。随分と諦めがいいのね?」

「諦めてるんじゃない。そういう考えの人もいるだろう、ってだけ」


 ラナが肩をすくめて日記を取り返せば、エドナは両眉を上げて微笑む。


「じゃあ、死にたくなってくれたかしら。前の世界の貴女みたいに」


 ラナは日記の表紙に手を置いた。真っ直ぐにエドナを見上げ、首を横に振る。


「いいえ。私は死なない」

「あら、残念ね。そうしてくれれば話は早かったのに」

「それとも、私にアランを殺してほしかった?」

「素晴らしいわ。是非そうして頂戴」

「でも私はそうはならない」

「そうでしょうとも」

「あんたは」


 ラナは淀みなく動かしていた口を止めた。エドナの榛色ヘーゼルナッツの目を見つめたまま、彼女から預かっていた携帯端末を取り出し、机の上に置く。


「あんたは、魔術協会ソサリエを守りたいんだね」


 鳥が羽ばたく音がした。小さな影が窓を横切り、飲みかけの酒瓶に模様を落とす。

 エドナは何も言わなかった。表情が崩れることもない。ラナはゆっくりと言葉を続ける。


「アランが言ってた。魔術協会も学術機関アカデミアも不要だ、って。その言葉どおりなら、彼が魔術協会に対して何らかの危害を加えててもおかしくない。二日前の共喰いの襲撃ほど、大がかりなものじゃなくてもね。そしてあんたは、魔術協会が狙われていることも、その首謀者がアランであることも承知してた。だからこそ、魔術協会を守るために私にアランを殺させようとした。分からないのは、なんで自分の手で殺そうとしなかったか、だけど」

「ふふ。愛してる人間に殺されるなんて、最高の悲劇というものでしょう?」

「……そうやって、笑って他者を遠ざけるのは、何故?」

「優しいのねぇ。そんな風に解釈してくれるなんて」


 からかうように言って、エドナは酒に口づけた。手首に巻かれた包帯に赤が滲む。

 エドナは頬杖をつき、ゆらゆらと瓶を揺らした。


「何もかもを打ち明けて助けを求めるなんて、柄じゃあないのよね」

「そんなこと、言ってる場合じゃないだろ。一人で魔術協会を守るなんて無茶だ。あんたはせめて、アイシャとヴィンスさんには相談すべきだったんだ」

「それは貴女の世界の正義でしょう?」


 魔女は笑った。酒を置き、剥がれかけたマニキュアで彩られた指を組む。


「神父様の愛する世界を守る。これが私の正義よ」

「矛盾してる。その共喰いが魔術協会を滅ぼそうとしてるんだよ?」

「なら、共喰いを肯定した上で魔術協会が滅びないようにすればいい。簡単なことだわ。貴女には一生かかっても理解できないことでしょうけどね」


 何も言えないラナを尻目に、エドナは再び麦酒を飲んだ。空瓶をテーブルに置く。そしてほんの少し、目を細める。


「愛というのは、矛盾するものよ。守りたいのなら、捨てなさい。愛したいのなら、秘めなさい。幸せを願うなら、全ての災いを受け入れなさい。その先にこそ答えがある」

「…………なら」しばしの沈黙の後、ラナは膝の上で両手を握った。「なら、アランの過去を教えてくれないかい?」


 エドナが意外そうに両眉を上げた。


「あら。てっきり、私にも協力を依頼すのるかと思ってたのだけれど」

「そのつもりだったけど、やめた」


 だって、たぶん、目の前の彼女は変わらない。諦めも怒りもさしてなく、ひどくすっきりとした気持ちでラナは事実を受け入れる。


 エドナは、アランに似ていた。

 彼女の中に正義がある。それを曲げることは、きっとヴィンスにだって出来ない。

 そしてそうであるとするならば、アランにも彼の正義がある。ラナが未だに知ることのできない正義が。


 ラナは言葉を重ねなかった。エドナは榛色の目で物珍しげにラナを観察し、やがて飽きたように立ち上がった。酒瓶の隣に、透明な砂の入った小瓶一つをテーブルに置いて。

 すれ違いざま、エドナが軽やかに言う。


「兎を追いかけて落ちた穴の先が、幸せの世界とは限らないわ。その覚悟はあるかしら」

「全ての災いを受け入れろと言ったのはあんただろ」


 ラナは魔術の触媒をいれた瓶に手を伸ばし、そこで一度手を止めて首をひねった。


「でも、協力してくれてありがとう」


 心からの感謝を込めて、少しだけ笑う。エドナの面食らった顔に満足して、ラナは小瓶を掴んだ。


 暗い闇が吹き出した。視界が覆われ、世界が黒で塗りつぶされる。

 ラナの耳に、落ち葉が擦れるような乾いた音が届いた。


「妙なモノが混ざり込んだ」

「コレは我らが魔女の言う娘ではない」

「なれば契約を望むか」

「否、否、否。コレは手付きだ」

「歪んだ契がまとわりついている」

「まさに」

「穢れの」


 がさがさと、そこかしこに鳴り響く声に、ラナは大きく息を吸って口を動かした。


「願いを、叶えて貰いに来た!」


 ぴたと声が止んだ。静寂が一斉にラナを見つめる。無遠慮な視線に肌が粟立つのを感じながら、ラナは意識して背筋を伸ばした。


「アラン・スミシーの過去を教えてほしい。エドナがあんたを紹介してくれたんだ。ならあんたは、そういう能力のある悪魔だ。そうだろ?」

「代償は」

「あんたが望むものならば、なんでも」


 沈黙が落ちた。そしてそれは、靴音で破られる。振り返ったラナは、悲鳴を上げそうになるのをなんとかこらえた。


 少し離れた場所に、男が一人立っている。

 薄金色の髪。金色の目。黒のワイシャツをさり気なく着崩した男――アランにそっくりの悪魔は口元を歪めて冷淡に笑った。


「我は記録者。我は鏡。目に見える全ては、お前がのぞんだ泡沫うたかたに過ぎない」

「……私の中の、アランを映してるってこと」

しかり、愚かな娘よ。刹那の時ではあるが、たしかに我は汝の願いを聞き入れた。ゆえに過去をひらき、汝を導き、しかるのちに汝が一部を頂戴する」

「それは構わない、けれど」自分の前を行き過ぎていく男を、ラナはじろじろと見やった。「ねぇ、その人を真似するのだけはやめてくれないかい?」

「聞き入れられぬ。抗議するなら、己自身の心にでもしておけ」


 悪魔がすげなく返したところで、風が吹いた。周囲の闇が揺らめき形を為す。眩しい光にラナは思わず手をかざした。その手首を、悪魔が無造作に掴む。


「さぁ、着いたぞ」


 手を引き剥がされ、ラナはそろりと目を開けた。


 そこは、奇妙な場所だった。辺り一面が灰色の壁で覆われている。それは天井まで弧を描くようにして続いていて、椀を半分にひっくり返したような形だった。辺りは薄暗いが、壁に空いた大小様々な穴から橙色の光が差し込んでいる。


 そんな世界で、二人の人間が対峙する。黒灰色の髪と、黒灰色の目をした二人だ。


 一人はぼろぼろの服をまとった、自分と同じ顔をした少女。

 そしてもう一人は、小綺麗な服で身を包んだ、自分が求めて止まない男。


 少し離れたところでそれを見つめながら、ラナは唇を震わせた。


「……アラン」

「正確に言えば、アラン・スミシーではない」


 背後からラナの手首を握ったまま、金色の目をした男が囁いた。


「名もなき悪魔だ。悪魔と言えど、アレには何もない。力も、積み上げるべき過去も、厄介な運命も。それは眼前に対峙する女の方にも言えることだろうが」

「アランは、悪魔なの」

「おや、聞き及んでいなかったか」背後でくつくつと男が笑う。「なれば過去をのぞく価値はあっただろうよ。ほうら、見てご覧。何やら言い争いをはじめたようだ」


 少女が、明らかに話を聞いていないであろうアランをいさめた。どうやら彼は招かれざる客だったらしい。そしてアランも、自分が何故ばれたのか分かっていないようだ。


 それでも彼はさしたる反省の色もなく少女をあしらい、笑い、美しく瞳を煌めかせる。少女がほんの少しだけ頬を染め、ラナの心臓もどきりと鳴った。アランの顔に浮かぶのは、見たことのない表情だった。それはけれど嫌な感じではない。ほんの少しだけ、胸が暖かくなるような。


「それでは次に行こうか」


 悪魔が言うや否や、景色が再びぐるりと渦巻く。未だ形を成さぬそこを、散歩するかのように悪魔はラナの手を引いて歩き始めた。


「あの」ラナはそろそろと声を上げる。「手、は繋がなくていいんだけど」

「ほう? 不安定な記録の海に放り出されて沈みたいか?」

「……それは、遠慮します……」


 ラナが諦めて肩を落とせば、悪魔は握る手に力を込めた。体温は暖かく、柔らかな感触が確かにそこにある。


 二人は次々と記録を渡り歩いた。


 次の記録では、アランが少女に契約を迫っているところだった。悪魔は契約者の願いを喰らって生きる。それがために、アランは少女を獲物と定めたらしかった。

 だが、その迫り方は随分と下手くそだ。言葉は良いが、傲慢が透ける。案の定、少女にすげなくあしらわれ、挙句、アランは少女の名前を答えられなかった。どこか滑稽なやりとりは不格好で、未熟で、幼くて、けれど愛おしい。ラナが思わず吹き出せば、水先案内人の悪魔は「見るに耐えぬ」と一蹴した。


 三番目の記録では、アランは少女と共に夕焼けを眺めていた。鉄くずの山の上から見下ろす世界は、触れれば壊れそうなほどに荒廃する。朽ち果てたビル。ひび割れたアスファルト。打ち捨てられた車両。それでも世界を染める黄昏色は、ラナの知る今とさして変わらない。

 少女の握るガラス玉が光を弾き、流星のように輝いた。過去のアランが黒灰色の目を細めている。それを眺めながら、ラナはふと、屋上で夕焼けを眺めた時を思い出した。心臓にじわりと寂しさが染みる。顔を俯けるラナに、傍らの悪魔は何も言わなかった。ただそっと指先を撫でる。


 四番目の記録は、少女の歌から始まった。再びの彼女の家だ。アランが契約を迫り、少女があしらう。言い合うような関係は変わらないが、双方の態度に角はない。じゃれあうような、大切な何かにそっと触れるような、陽だまりのようなぬくもりがそこにある。


 口づけで世界は救われるのだと少女は語り、アランはそれを呆れたように見つめていた。

 望むならば養父も恋人もかたってみせようとアランは豪語し、少女は目に見えて機嫌を損ねた。

 それでも最後には二人の顔に笑みが戻り、待ち合わせの約束をして。



 ――そして五番目の記録で、雨が降り始める。



「泣かないのか」


 途中からずっと黙りこくっていた水先案内人が口を開いたのは、全ての記録が終わった後だった。


 アランと少女は約束をした。けれどそれは果たされず、世界を救うと言って少女は死んだ。暗闇の中で。星のように電子基板を煌めかせた巨大な機械の前で。他ならぬ少女のために契約を望んだアランの前で。


 記録の途切れた暗い世界で、ラナは何度か震える息を吐き出し、青白い唇を動かした。


「泣いているように、見えるかい?」

「否。だからこそ尋ねている」

「そう。ならよかった」


 少女も、アランもいなくなった世界で、彼によく似た顔をした金色の悪魔は、ラナを覗き込むように首を傾けた。


「奇妙なものだ。悲しみがある。苛立ちがある。憤りがある。不安がある。なれど、お前の顔は一つも変わらない」


 不思議そうな顔をする悪魔は、図らずもラナが出会ったばかりのアランに似ている。どうすれば君を喜ばせられるのかと、戸惑っていた彼と。

 ラナは苦笑いした。


「そういうことは、あんまり女の子の前では言わない方がいいよ」

「そうなのか」

「その代わり、何も言わずに抱きしめて上げた方がいいかな」

「何故」

「ぬくもりは、寂しさの特効薬だもの」


 特効薬。そう呟いて、悪魔は一つ目を瞬かせた。あぁそんな仕草も彼にそっくりだなぁなんて、寂しさめいた懐かしさに浸っていたラナへ、不意に悪魔が両手を伸ばす。


 するりと背中に両手を回され、抱きしめられた。ラナは身を固くした。喉元まで競り上がる何かがある。それもしかし、「あまり良い薬とは思えない」とぼやく悪魔の声で、ゆっくりと溶けて消えていく。


 ラナは突っかえたような笑い声を上げた。悪魔の憮然ぶぜんとした声が降ってくる。


「笑うことはあるまい。全ては貴様の定義不足によるものだろう」

「馬鹿にしてるわけじゃないよ」

「そうとは思えないが」

「本当さ」ラナは笑みを収め、今度は自分から悪魔の身体に腕を回した。「本当に、本当だよ。私が願ったから、叶えてくれたんだね」

「それがお前の望むアラン・スミシーというものだろう」


 そうだね、とラナは目を伏せた。同時に強く思う。


 目の前の彼は暖かい。狂気めいたものも感じない。自分の望む言葉をかけ、傍に寄り添っていてくれる。薄金色の髪を持つ不器用な人。金の目を持つ美しい人。


 それでもこれは、ラナの理想を押し付けただけの幻で、彼女の求めるアラン・スミシーではないのだ。


「ねぇ」なんの香りもまとわない男の身体に顔をうずめたまま、ラナは問いかけた。「アランは、一体何を想ったんだろうね。最初の私と出会った時。夕焼けを一緒に眺めてくれた時。なんにでもなろうと言ってくれた時。死にゆく私の、名前を読んでくれた時」

「分かるはずもない。我は記録者。書き留められるのは事実のみだ」

「そっか。そうだよね」


 ラナは両手で悪魔の体を押し、顔を上げる。違うと分かっていても、やはり目の前の想い人によく似た男は美しかった。彼を彩る金色は、夜天に輝く星の煌めきだ。あるいは陽が落ちる寸前の最後の残照だ。


 鮮烈で寂しくて遠い。だからこそ、本物の彼に会いたくなる。


 悪魔は目を細め、ラナの顎を掴んだ。


「お前のその目は、鮮やかな色を映す」

「だって、貴方は……ううん、私の中のアランは、美しいもの」

「そうではない。お前が世界の色を美しく切り取って、我々にせてくれるのだろうよ」


 整った顔立ちが近づいた。ラナがそっと目を閉じれば、眼球をむように口づけを落とされる。


 代償は確かに頂いた。そんな声を最後に、するりとラナの意識は闇に落ちた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る