7-2. 懇願じゃない、取引だよ

 ラナの持ちかけた取引を、エメリは鼻先で笑い飛ばした。


「断る」

「まだ何も言ってない」

「聞くまでもないということだ、小娘」

懐古症候群トロイメライの治療法を確立したいんだろ」


 デスクトップの画面モニタを見つめたまま、エメリが僅かに眉を動かした。肯定か、否定か。皮膚の下で、緊張と不安がぴりぴりとラナを刺す。けれどそれをおくびにも出さず、彼女はゆっくりと歩を進めながら、努めて軽い口調で問いかけた。


「どうして私がそんなことを知ってるのか、気になるんじゃないかい?」

「はて。どこぞの陳腐な情報誌でも読んだんじゃないのかね」

「ふうん、エメリ・ヴィンチはそういう陳腐な雑誌の取材にも浮かれて応じてしまうような人なんだね」


 書斎机の縁に止まるカラスが不愉快そうに鳴いた。紅の目を一瞥いちべつして、ラナはパソコンの画面に寄りかかる。

 画面が微かに揺れた。エメリの手は未だキーボードを叩いている。

 ラナは静かに切り出した。


「アランを止めるための、手助けをしてほしい。その代わりに、私はあんたに懐古症候群の治療に役立ちそうな情報を渡す。これが取引だ」

「考慮に値しないな。貴様の助けなど無くとも、私は真理に辿り着くだろう」

「そうかもね。でも、それがいつになるかは分からない。時間を無限にかけたいって言うなら、止めはしないけどさ」


 ラナはおもむろに懐古時計を外した。机の上に時計を置く。それを追うように細い鎖を指先から零す。

 何かを誘うように鎖があやしく音を立て、照明を弾いた。鈍い輝きが落とす光と影、その狭間でラナはあでやかにささやく。


「私は、この時計を使って懐古時計を治すことができる。あんたが必要なら、いくらでも研究してもらっても構わないよ。この時計のことも、私のことも。気の済むように暴けばいい」

「その代わりに、貴様に従えと? 無闇な殺生も実験もやめて? 実にくだらん懇願だな。試作なき研究などありえない。それを辞めろなどというのは、結果ばかりを求める愚者にありがちな発想だ」

「懇願じゃない、取引だよ。エメリ・ヴィンチ」


 鎖を落としきり、ラナはゆるりと目を細めた。


「勘違いしないで。あんたは結果を手に入れるために実験をするんだ。その結果を、私が渡そうと言っているだけ」

「断る」

「じゃあ、アランに大人しく従おうかな」ラナはにこりと笑んだ。「そうして、彼の望むように事が進むわけだ。そしてあんたは、絶対に懐古症候群の治療法を確立できない」

「見え透いた虚勢だ。あの男に協力するなど」

「ないとは言い切れない。私はあの人のことを憎からず思っているもの」

「だとすれば尚のことだろうな」

「それでもあんたは、万が一の可能性を考えることやめられない。そうだろう? エメリ教授ドクター エメリ


 エメリの手がキーボードの上で止まる。

 沈黙は刹那。そして机に置かれた懐古時計を、エメリの手が無造作に掴んだ。


「この私に助けを求めようというのだ」エメリはラナを見やり、猛禽のごとく青鈍色アイアンブルーの目を光らせた。「それ相応のデータを提供する覚悟はあるのだろうな? ラトラナジュ・ルーウィ」

「もちろんさ。でも、あんたも忘れないでよ。その時計を手にしたからには、最後まで私に付き合ってもらう」


 エメリが鼻を鳴らす。それを合図に、ラナはこれまでの経緯を話し始めた。


 *****


 ラナの目は、自棄になった者のそれではない。そうと分かっていても、エドの心配は少しも軽くならなかった。


『安静ヲ提案、安静ヲ提案』

「――分かってるから、少し黙っててくれ」


 エドは枕元で鳴く鴉を片手で払って、溜息をついた。


 彼がヒルに見つかったのは、ちょうどエメリの書斎から追い出された時だった。自分より少し年上に過ぎない若医者は、普段は気弱なくせに患者の前では一歩も引かない。エドはあっけなくヒルに病室へ連れ戻され、ご丁寧に鴉まで見張りに付けられた。


 そして厄介なことに、この鴉は憎たらしいほどヒルの言いつけに忠実なのだ。恨みをこめて、エドは指先で鴉の小さな頭をつつく。鴉が紅の目を瞬かせ、ついで飛び立った。


 部屋の外から足音と声が響く。奇妙な騒がしさに、エドは内心で首を傾げた。年重の女の声が一つ、やけに楽しげな男の声が一つ、皮肉交じりの初老の男の声が一つ。およそ友好的とは言えない会話のまま、三人は揃ってエドの病室に姿を現した。


「起きたまえ、エドワード・リンネウス」エメリは無遠慮に部屋へ入るなり、杖で床をこつこつと叩いた。「二分後に私の部屋へ来い。一刻も無駄にする時間はないぞ。きりきりと情報を吐いてもらわねばな」

「いいえ、いいえ、そういうわけにはいきませんよ!」


 きりりと両眉を上げてエメリに詰め寄ったのは、この診療所の手伝いをしているタチアナだった。普段のおっとりとした様子はどこへやら、灰色のワンピースを揺らして、エメリを糾弾する。


「エドワード君は大怪我をしているんです! 動くなんてとんでもない! ヒル先生からも止められてるんですよ!」

「その割には、私の部屋で五月蝿うるさく騒いでいたがな」

「あれは無茶をしていたんです! だからこうやって、鴉ちゃんがエドワード君を見張ってるんでしょう!」タチアナは眉間の皺を一本増やした。「そもそも、私はまだ納得いってないんですよ。なんですか、ヒル先生が十年も匿ってた教授ですって? 堂々と姿を見せて挨拶なさらない殿方ほど、信用できないものはありません!」


 一方的にまくしたてるタチアナに、エメリが鬱陶しそうに目を細める。呆気にとられるエドの腕を突いたのは、可笑しそうな顔をする天秤屋の店主だった。


「エド君ってば、モテモテじゃあないかっ!」

「……なんなんですか、これ」

「さぁ、僕にもさっぱりだねっ! あ、これお見舞いだよっ、ハミンスのケーキだからねっ。ラナちゃんと二人で食べてねっ」

「はぁ」


 ところどころに機械油のついた白の小箱を受け取り、エドが曖昧にお礼を述べる。

 エメリがうんざりしたように杖でこつこつと床を叩いた。


「コーヒーだ。ブラックで豆からいたものを用意しろ」

「それが人に物を頼む態度ですか」

「そこの天秤屋の店主はまがりなりにも客人だろう。もてなさない方が無礼だとは思わないのかね」


 先に言葉に詰まったのはタチアナの方だった。彼女は憤懣ふんまんやる方ないといわんばかりに大きく息を吐き出し、足音高く部屋を後にする。

 エメリがすかさず鴉に指示を出した。自分が許可を出すまで、何人たりとも部屋にいれないこと。


 鴉が羽を広げて飛び立つ中、天秤屋の主人がにやにやと笑った。


「やぁやぁ、勝負あった、って感じだねっ」

「勝負ですらあるまい」エメリは天秤屋の座る椅子を杖で叩いて催促しながら、鼻を鳴らした。「それで? ケーキの種類はなんだね」

「ショートケーキとチョコレートケーキだよっ! ハミンスの一番人気だねっ!」

「ナンセンスな。次からはエクレアにしたまえ。手が汚れないようにナプキンをつけるのも忘れないように」

「やだなーっ! 僕は君のためにケーキを用意したんじゃあないよっ!」


 からからと笑いながら天秤屋の店主がエメリに椅子を譲る。随分と気さくなやりとりにエドが視線だけで問いかければ、店主はくるりと機械油で汚れた指を振った。


「エメリ教授はねっ、うちのお得意様の一人なのさっ。この前も超小型の機械部品を買いに来てねっ」

「無駄話は結構」エメリは店主へ向かって顎をしゃくった。「それより、廊下でコーヒーを待っていたまえ。あの女から受け取り次第、ここに運んでくること」

「えーっ! 僕は君の小間使いじゃないんだけどねっ」

「殊勝な客人なら、家主を気遣って自分から行動すべきだろう?」


 取り付く島もないエメリの態度に、店主がやれやれと肩をすくめて部屋を後にした。

 病室の扉が閉まり、部屋が静かになる。エドは皮肉っぽく笑った。


「一体、こんなところまで何をしに来られたんですか。エメリ教授。まさか、見舞いとか?」

「馬鹿な。そんな一文の価値もないことを何故せねばならない?」

「なら、何故」

「情報だ」エメリは椅子を軋ませ、足を組んだ。「時間が巻き戻る前の世界についての情報だよ。エドワード」


 エドは顔を強張らせた。何かを聞かれるだろうと覚悟はしていたが、これは予想外だった。同時に脳裏をよぎるのは、エメリの書斎に残ったラナだ。話を聞いたとするならば、彼女から情報を得たとしか思えない。

 では、どうして彼女の姿がここにないのか。エドの視線が自然と鋭くなる。


「ラナに……何かしたんですか」

「何かとは失礼な。ラトラナジュは私と取引しただけのことだ。私はあれに手を貸す。あれは私に知りうる限りの情報を与える。無論、そこには貴様の持つ情報も含まれる」

「ラナがあなたに協力を依頼するはずがない」

「後生大事に守ってやらねばならんほど、あれが可愛げのある女かね」

「あなたが何を知っていると言うんだ」

「お前は以前の世界でラトラナジュに敵対していたそうじゃないか」


 エドは押し黙った。エメリが杖頭でばらりと指を動かす。


「ラトラナジュから聞いたぞ。お前はかつて私の研究室に所属していた。懐古症候群を制御するための研究に携わり、その果てで懐古症候群に堕ちた。ラトラナジュに救われ、だが目の前で彼女を失い、巻き戻った世界で唯一記憶を保持した」

「そこまで聞いたのなら、十分でしょう」エドはぶっきらぼうに返した。「第一、懐古症候群の研究については、ほとんど知りません。俺の教授は理論が確立されるまで人には打ち明けない主義でしたから」

「研究についてはどうでもいいのだよ。一度辿り着いた仮説であるならば、さして時間をかけずに辿り着く」


 エドの皮肉に事も無げに返し、エメリは目を細めた。


「私が疑問に思ったのは、貴様が懐古症候群を患いながら生還したこと。そして巻き戻った世界で記憶を保持していたことだ」

「そんなこと、俺に分かるわけがない」

「そう。貴様には何も分かるまいよ」


 不意にエメリが杖先をエドの喉元に突きつけた。たじろぐエドを、かつての教授は目だけで嘲笑する。


「だが、私が貴様の話を仔細しさいに聞けば問題は解決する」

「大した自信だ」

「懐古症候群を発症した患者は、 何かにかれたように異常な言動を繰り返す。まるで無くしてしまった何かを、戻らぬ過去を嘆くように」


 詩でも吟ずるようにエメリは口を動かし、鎌首をもたげるように首を傾けた。


「さぁ、それではここで質問だ。彼らは一体、どの過去を嘆いているのだと思う? 彼らにとっての戻らぬ過去とは何なのか? 彼らが無くしてしまった何かは、一体どこに存在したのか?」


 突然何を言い出すかと思えば。そう笑い飛ばそうとしたところで、エドはある可能性に思い至って顔を強張らせる。


「……まさか……巻き戻る前の世界ですか」


 エドが呆然と呟く。老いた教授は音もなく口角を釣り上げ、眼鏡の奥で青鈍色の目を光らせた。


「それでは、仮説の検証を始めるとしようか。エドワード」


 戻された杖が、地面を叩く。何かを待っていたように時計台の鐘の音が響き始めた。

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