# 月影


 月明かりが細く差し込む診療所の一室で、アイシャは震える息を吐き出した。


「どうして、なのですかにゃ」


 問いかけの向かう先に、ベッドに浅く腰掛けるヴィンスがいる。彼が傷だらけの手で携帯端末をいじるたび、青白い光が暗闇に弾けて黒髪を照らした。


 「神父様」と、アイシャは猫の人形の頭に口元をうずめて、なおも問うた。


「聞いてるんですかにゃ。端末ばかり気にしてる場合じゃないですにゃ。教会が燃えてしまったんですにゃ」

「そ、そうだな」

「そうだな、じゃないですにゃ……! ニャン太とアイシャはちゃんと気づいてますにゃ! 共喰いが来てるのに、神父様はちっとも戦おうとしてなかったですにゃ!」

「ぷ、プレアデスからの指示に変更はなかった」

「っ……こんな時まで、プレアデス、ですかにゃ……」


 アイシャが顔を歪めて呟けば、ヴィンスがつと顔を上げた。黒髪の隙間で深緑色モスグリーンの目が鋭く輝く。


「ぷ、プレアデスは唯一絶対の指針だ。な、ないがしろにすることなどありえない」

「だからカディル伯爵に従うんですかにゃ……!? それこそありえないですにゃ……! そのせいで皆、怪我をしてるんですにゃ! 神父様も! エドナも!」

「そ、それの何が問題か」ガーゼの当てられた頬を歪めて、ヴィンスは事も無げに笑った。「ね、願いを叶えるには対価が必要だ。ま、魔術の基本というものだろう」


 アイシャが絶句する。その時だった。


「あらあら。随分と盛り上がってるわねぇ」


 聞き慣れたピンヒールの音と共に、涼しい顔でエドナが部屋に現れた。黒のスーツに、髪留めでまとめ上げられた金髪。いつもとまるで変わらないという異常さに、アイシャは目を疑う。


「エドナ……なんでここにいるんですかにゃ……? 一週間は動けない怪我だって、ヒル先生が……」

「そんなもの、悪魔に願えばいくらでも叶えてくれるわよ」


 事も無げに返すエドナの袖口から、包帯の巻かれた痛々しい手首が覗いた。薄っすらと血の滲むそれにアイシャの顔が青ざめる中、エドナは甘えるようにヴィンスへ腕を絡める。


「ねーぇ、神父様。ここって、とっても退屈だわ。遊びに付き合ってくださらない?」

「き、君は相変わらず自分の好きなようにしか行動しないな。え、エドナ・マレフィカ」

「ふふ。それこそが、神父様が褒めてくださった私の取り柄ですもの。それに神父様も満更ではない、でしょう?」


 返事の代わりに、ヴィンスは面倒くさそうに腕をほどいてベッドに腰掛けた。エドナがうっとりと笑みを浮かべて、きっちりと着込まれたヴィンスの祭祀服カソックへ手をのばす。


 アイシャは戸惑いながら後ずさった。


「お、かしいですにゃ……そんな事してる場合じゃないですにゃ……」

「あらあら、アイシャ。あなたも混ざる?」

「っ、そういうことではなくてですにゃ……っ!」


 くつろげられた祭祀服の胸元に艷やかな唇を寄せながら、エドナが音もなく笑う。

 アイシャは顔を赤くして部屋を飛び出した。




 *****



「――魔術協会ソサリエは」


 画面の向こうの人工知能は、青白い光と共に、その一言から話を切り出した。


「魔術協会の損傷は軽微である。拠点は焼失したが、構成員に欠損なし。引き続きカディル伯爵の指示に従うが妥当と判断。共喰いは懐古症候群トロイメライの討伐に有用であると提案する」

学術機関アカデミアの機能は著しく低下する。懐古症候群討伐への貢献は認められず、三機関会議からの除外も検討すべきである」

「ラトラナジュ・ルーウィの監視を継続。西暦2153年8月18日04時53分現在、時間進行は正常である。指示の継続を守り人に通達――」


 無機質な声が、定められたとおりの言葉を吐き出す。代わり映えしないそれに耳を傾けながら、守り人たる人影は口の中だけで言葉を転がした。


 正常。正しきこと。間違いのないこと。

 ならばそれは、誰にとっての正しさか。この歪んだ世界において。


「……なんてな」


 言葉なき問いかけに皮肉めいた笑みを浮かべて、守り人は巨大な歯車の映されたパソコンの画面に手を伸ばす。


 それが閉じられる直前、刹那に漏れ出た青白い光が守り人の黒髪を照らして、消えた。

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