6-3. これは罰なのかな。私と、彼の。
ラトラナジュ。優しく名前を呼ばれた気がして、ラナはゆっくりと瞼を上げた。
黄昏に染まるアランの部屋だった。窓から吹き込んだ夏の涼しい風が、レースのカーテンを揺らしている。
その窓際に、アランの姿があった。ラナに気づいた様子もなく、煙草をくゆらせながら外を眺めている。薄金色の髪が西日に染まって輝く。耳元で微かに揺れる耳飾りは、時折光を弾いて宵闇の濃くなる部屋に星を落とした。
ラナはベッドから半身を起こした。彼女の褐色の肌の上を、するりと彼の香りのする毛布が流れていく。煙草と香水の香り。そして目の前には誰よりも美しい人。
幸せだと思った。そう、これは幸いだ。この上ない喜び。ラナは指を伸ばす。煌めく世界に彼がいる。どうかこのまま。ほんの少しだけ祈って、けれどふと怖くなった。
この幸せは、一体いつまで続くんだろう。
ちりと、耳元で空気が燃える音がする。空気がひどく熱くなった気がして、ラナは息苦しさに身を折った。
彼が、いないのは苦しい。こうして一人
未来なんて何が起きるか分からない。その先で彼を失ったら?
なら、どうか、いっそ。
「いっそ、このまま全てが止まってしまえばいいのに」
暗い声がする。ラナが顔を跳ね上げると同時に、世界は一変した。燃え盛る教会、黒く灰になって朽ちかけた壁、周囲を取り巻く無数の異形の影。
その中で、火の粉舞う風に吹かれて佇む自分が口を開く。
「そう、願うだろ。あんたが私であると言うなら」
「そ、れは……」
「願ってもいいんだよ」彼女はそっと嘆息した。「だって、ねぇ、願うことしかできないじゃないか。私は。彼みたいに強くない。エドみたいに戦えるわけじゃない。アイシャみたいに、シェリルみたいに。たくさんたくさん、望んだよ。でもやっぱり、どうしたって私なんだ。結局は願って祈ることしかできない。このまま全部、止まってしまえばいいのにって」
淡々と響く声は乾いていて、けれどひどく嘆いているようでもあった。怖い。怖いの。先に進むのが。だから、だから。
「……だから、って」
ラナはぽつと呟いた。炎にあぶられた頬を涙が伝っていく。声なき嘆きが突き刺さって、息なんてできなくなる。それでも、炎を背負って立つ自分を見つめる。
「だからって、私はあんたみたいに死なんか選べないよ」
もう一人の自分が、ぴたりと言葉を止めた。冷ややかに目を細める。
「
「そうだよ、我儘だ。でも、あんたは知らないでしょう。あんたの死んだ後の世界を。ねぇ、たしかにあんたにとっては幸せな終わり方なのかもしれないよ。でも、彼は全然幸せそうじゃない」
「そんなことないさ。彼は笑っていただろ」
「そうだけど……そうだけど……っ! あんな顔が、本当に見たかったのかい!?」
ラナは顔を歪めた。
「ねぇ、だって彼はもう、匂いも味も感じられないんだよ! ううん、きっと、失ったのはそれだけじゃない! 痛みだって感じてるか怪しいじゃないか! エドに、あんなに、切られたのに……っ」
「…………」
「それに、彼は、だって……耳も、聞こえなくなったって……」
「…………」
「……ねぇ、それでも、やっぱり彼は幸せなのかい……? これが、あんたの望んだ結末だった……?」
「そうだよ」
迷いなく頷いた彼女の背後で炎がゆらりと揺らめいた。立ち尽くした自分はじっとラナを見つめ、やがてほんの少しだけ目を伏せる。
「それが私の選択なんだ。そして、彼は笑ってくれた。ちゃんと生きてくれた。なら、もうこれ以上望むことはない。あんたに否定される
「っ……」
「そう。これが、望んだ、幸せの結末だもの」そこまで呟いて、彼女は小さく付け足した。「でも、そう。そうなんだね……耳が聞こえないなら、私の歌は、もう二度と彼には届かない」
これは罰なのかな。私と、彼の。ほんの少しだけ笑った黒灰色の目が、微かに揺れる。そこに宿るのは、彼の金の目と寸分たがわず同じ感情だった。愛しさと、ほんの少しの寂しさと。それがひどく悲しくて、ラナは顔を歪める。
同じじゃないか。誰も、彼も。ねぇ、だというのにこれじゃあ、誰も幸せになれない。これが幸せの結末だなんて、そんなはずない。だって、罰なんて。じゃあ罪は何だ。
自分が犯した罪は? 彼が犯した罪は? 間違いは?
目の前の自分が、再び顔を上げた。火の粉にまかれた彼女の顔は青白い。その胸元に懐古時計はない。彼女は二度と、彼には会えない。だって、彼女と彼の世界は終わってしまった。そのことに気づいて、ラナの目からまた涙が
ほんの少しだけ、向こう側の彼女が困ったように笑う。
「優しい私。誰よりも弱い私。泣き虫の私。その時が来たら、あんたは何を選ぶんだろうね」
不意に世界が遠ざかった。次にラナが気づいた時には、辺りは暗闇だけだった。それが夜の闇で、自分が夢を見ていたのだと気づくのに少しだけ時間がかかる。
ソファを軋ませ身体を起こした。窓際にアランの姿は勿論ない。そしてきっと、これが現実だ。夏の、熱のこもった空気。一人ぼっちの現実。孤独な彼の目。寂しげに笑う彼女の目。
ラナは鼻をすすり、抱えた膝に顔を埋める。悲しくて、苦しかった。それは結局、目が覚めても同じことだった。涙がじわりとこみ上げる。
そして頭を、乱暴に小突かれた。鈍い痛みに呻いて首をひねった彼女は、ぽかんと口を開ける。
「
『覚醒ヲ確認、覚醒ヲ確認』
「え、しゃべっ……っきゃ!?」
微かな機械の駆動音とともに、ばさと鴉が黒翼を広げて飛び立った。小さな体は開け放たれた扉をくぐって廊下に消える。次いで、部屋の奥から物音がした。そこでようやく、ラナは自分以外に人がいることに気づく。
狭い部屋のあちこちに、大小様々な機械が整然と――けれど隙間なく――置かれていた。中心を占拠するのは巨大な書斎机だ。その上にも機械部品が並べられ、卓上照明に照らされている。
それらに囲まれ、デスクトップの
「目覚めたのならば、即刻出ていってくれたまえ」
「エメリ・ヴィンチ……」
かつての
日記に記されたエメリの所業を思い出してラナは身を固くするものの、当の本人は用は済んだと言わんばかりにキーボードを叩くだけだった。
「あの……」ラナは慎重に口火を切った。「ここはどこなんだい?」
「診療所だな」
「……助けてくれたってことかい?」
「助ける? 何を馬鹿な」エメリは半透明の容器を投げてよこした。「私が欲しかったのは、これだとも」
「なに、これ」
「懐古症候群の肉片」
ラナは悲鳴を上げて容器を放り投げた。近くの棚に止まっていた鴉が飛び立ち、容器を器用に
エメリは無造作にそれを受け取った。
「まったく、丁寧に扱ってくれたまえ。貴重な懐古症候群の亜種の新鮮サンプルだぞ」
「なんてものを持ってるんだい……!? それって、さっきの共喰いのだろ……!? そもそも、彼らだって人間で、」
「共喰いなどとは、いかにも凡庸な名付け方だが」エメリは振り返りもしないまま、鼻を鳴らした。「思考法も愚かだな。これは既に死んだ。ならば死体を有効に活用してやることが、最大限の敬意の表し方というものだろう?」
「殺したのは、あんたじゃないか」
「そのとおり。私にとって価値があるのは懐古症候群の死体であって、君たちの死体ではない。そして結果として、君たちは命を救われたというわけだ」
ラナは言葉に詰まった。エメリが馬鹿にしたように口元を歪める。
「批判だけは勇ましく、行動は欠片も伴わない。小娘、お前はいかにも典型的な愚か者だな」
――あんたに否定される謂れだって無い。選べないあんたなんかに。
エメリの言葉が、先程見たばかりの夢と重なって、ラナは顔をうつむける。情けなさがこみ上げた。だというのに、自分がどうすべきなのかという、肝心の答えを見つけることはできない。
「あんまりラナちゃんを苛めないでください。エメリ教授」
控えめな男の声と共に、肩を叩かれた。顔を上げたラナは、目を瞬かせる。
くたびれた白衣をまとった赤毛の青年だった。頬にそばかす。ずり落ちた丸眼鏡を押し上げた彼に、エメリがぞんざいに返事をする。
「遅いぞ、ヒル・バートン。あと1分43秒早く来ることが出来たはずだろう」
「あのですね、エメリ教授」ヒルはこめかみを押さえながら溜息をついた。「他の患者さんの治療もあるんですよ? 鴉くんが呼びに来てくれたからって、すぐに行けるわけじゃなくて」
「言い訳は結構。早くそこの小娘をつまみ出せ。
「……はいはい……一応、ここ、僕の診療所のはずなんだけどなぁ……」
諦めたように呟くヒルに促されるまま、ラナはエメリの部屋を後にした。
暗い廊下を通って、何度か訪れたことのある小さな待合室に通される。ラナへとソファを勧めながら、ヒルは古びた丸椅子に腰掛けた。
怪我を負ったエド達の手当が終わったこと――その中には、アイシャとヴィンスも入っていた――を告げてから、彼は申し訳無さそうに頬を掻く。
「本当はベッドに寝かせてあげたかったんだけど……ごめんね、ラナちゃん。他の子が重傷で、さっきまで手が空かなくて」
「あの……なんでヒル先生が……?」
「うーん……そうだな。ラナちゃんはどこまで覚えてる?」
「……エメリ・ヴィンチに会ったところまで、でしょうか」
「うん。随分と疲れてたみたいだし、きっとそこで緊張の糸が切れちゃったんだろうね」
ヒルは椅子に座り直し、小さく咳払いをした。
「ええと、そうだな。僕は体よく言えば送迎係なんです」
「送迎係、ですか」
「そう。エメリ教授は足が悪いからね。で、その先で君たちを見つけた」
「あの……ヒル先生は、エメリをご存知なんですか?」
「ご存知っていうか……うーん…… いやー……その、なんというか……エメリ教授には毎回厄介事を頼まれ……じゃなかった、大変お世話になってて……」
ヒルはしばし視線を泳がせた。けれど結局良い言葉が思い浮かばなかったらしく、何度か首を振る。
「まぁ、うん。付き合いは長いってことだね。タチアナさんの手術の時もお世話になったんだ。あの人は生体に使う機械の製作に関しては一流だから」
「でも、その……エメリは学術機関を十年前に追われて行方不明だって聞いてたんですけど……」
「十年。はは……そうかぁ……あの人の無茶振りにつきあわされてから、もうそんなになるのか……」
「あの……ヒル先生? 大丈夫ですか?」
ラナがおずおずと声をかければ、どこか遠い目をしたままヒルは何度か頷いた。まぁ、うん、めげないのが僕の取り柄だからね。ヒルが頼りなく呟いたところで、彼の胸元で携帯端末のタイマーが鳴る。
ヒルは立ち上がって伸びをした。
「とにかく、だ。とりあえず、今晩はここを使ってくれるかい? ベッドじゃなくて申し訳ないけど、少なくともエメリ教授の目はないからね」
「でも、皆が怪我してるなら、手伝いとか……」
「大丈夫」ヒルは優しく、けれどきっぱりと首を横に振った。「これが僕に出来る唯一のことだから」
そう言い置いて、ヒルは電気を消し、部屋を後にした。
ラナは再びソファに身を沈める。ヒルの言うとおり、少しでも眠って体力を回復すべきだ。無理矢理に言い聞かせて目を閉じる。体をぎゅっと縮こまらせれば、指先が懐古時計に当たった。鼓動のように時を刻むそれを、縋るように両手で包む。
眠りは浅く、夢を再び見ることはない。
遠くから響く物寂しげな鐘の音が、何もかもが変わってしまった夜の始まりを告げている。
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