6-2. 俺は君を愛す。何度でも。何があろうとも。
どうしてと、崩れ落ちそうだった。それでもラナが踏みとどまることができたのは、目の前のアランの様子があまりにも普通だったからだ。
彫り深い顔立ちに、炎が影を落とす。穏やかな笑みは、別れ際に夕焼けを望んだ時と何一つ変わらなかった。
それが、おかしくて、皮肉で。
けれど笑う気なんて、到底なれない。
「それで?」アランは天気でも尋ねるような気軽さで問うた。「どうやってここに辿り着いたのか、聞かせてもらってもいいかな、愛しの君。大方、そこの魔女が手引きをしたのだろうが」
「……共喰いを、治療したんだ」
ラナは掠れた声で応じた。
「その中から水晶が出てきた。中にいた男の人は戻ってこなかったのに」
「ほう?」
「共喰いは人間と悪魔を混ぜて創る。そして、本来は制御不可能であるはずの共喰いを――
「それから?」
「……天秤屋さんが、言ってたんだ。昔の魔術師は悪魔と契約して、使用者自身が代償を払って魔術を使った、って」
一度言葉を切り、ラナは目の前の男をじっと見つめた。
「ねぇ、アラン。あんたは一体何と引き換えに嗅覚と味覚を失ったの」
「あぁ」
彼は感嘆とも驚きともつかぬ声を上げて、天を振り仰いだ。周囲の火事も、共喰いの
「六十点だな」ややあって、アランはにこりと笑んだ。「だが、愛しい君に免じて百点をつけてあげようか」
「真面目に答えて」
「共喰いなどのために捧げたわけではない。どうにも君は、それを疑っているようだが」
アランはひらりと手を振った。
「サブリエの人間を材料にすれば、共喰いを創ることなど造作もないことだ。俺は、ちょっとした悪い夢が長く続くようにしてやっただけだとも」
「それが、この石ってこと」
「水晶というのは古来から夢を引き寄せるために使われる石なんだよ、ラトラナジュ。そういう意味では、君にだって共喰いを創ることはできる。正しい手順さえ踏めば、魔術は発動するのだから。忌々しいことに」
「っ、そんなことするわけないだろ! 共喰いを創るなんて、そんな……」
嫌悪感から震えた言葉は、最後まで音にならなかった。ラナは何度も頭を振る。
「分からない……分からないよ。共喰いがなくても、懐古症候群に対処できてたじゃないか。私の魔術を使えば治すことだってできるのに」
「心優しい、愛しの君。その方法は既に試した。だが上手くいかなかったんだ。ならば、別の手段を考えなければならないだろう?」
アランが一段声を低くした。
「
「――カディル伯爵を追いかけてきてみれば、随分と不穏なことを言ってくれるじゃないか。アラン・スミシー」
冷え切った声は、ラナの頭上から飛んできた。一拍遅れて響いた懐古症候群の悲鳴。そして、ラナとアランの間に割って入るように、エドが頭上から飛び降りてくる。
ラナがゆるゆると細く息を吐く中、
輝石の魔術師は大げさなまでに両眉を上げてみせた。
「随分と早い到着じゃないか、リンネウスの小僧。共喰いの相手はもういいのか?」
「答えろ。エメリ教授が行方不明なのも、お前が原因か」
「あぁ、まさか」アランは肩をすくめた。「直接手を下したわけじゃあないさ。成るべくして成った。そうでなければ、ラトラナジュが悲しむだろう?」
びりと空気が震えた。それが抑えようもない怒りなのだとラナが気づいた時には、エドは弾かれたように駆け出している。剥き出しの殺気にしかし、アランの余裕は崩れない。
そう、彼は少しだって焦る様子がないのだ。攻撃しようと思えばいくらでもできるはずなのに、自分と話すばかりで。ひどく嫌な予感に駆られて、ラナは思わず叫ぶ。
「っ、エド! 駄目だ! 戻って!」
『冠するは
詠唱を紡いだアランの指先で、漆黒の宝石が砕ける。眼前いっぱいに、果て知れぬ黒霧が広がった。その中では無数の刃の欠片が冷酷なまでに煌めく。
エドは避けることもせずに地面を蹴り上げた。
『
駆動音と共に仮面が組み変わり、
アランが薄い笑みを浮かべた。
『永久の炎は
『
仮面が組み変わるのを待たず、薄片を巻き上げながら業火が放たれた。勢いを殺しきれないエドの身体に直撃する。
アランが満足げに笑む。そこで燃え盛る炎が揺らめいた。
『
炎からエドが飛び出す。背から鱗のような物を落としながら、彼は間髪いれずにアランの背後をとった。
アランが目を
無限の痛みを与える刃が、アランの右手の甲を捉えた。鮮血が飛ぶ。ラナが息を飲む。エドが一瞬だけ手を緩める。
そして、アランはゆるりと口角を上げた。
「痛みはないと言っただろう?」
「っ!?」
アランは右手の甲を無造作に払った。刃が外れ、体勢が崩れたエドの脇腹を容赦なく蹴り飛ばす。
崩れかけた壁に背中を強かに打ったエドが、ずるりと地面に横たわった。亀裂の入った仮面が彼の顔から転がり落ち、ラナの顔から血の気が引く。
「エド……っ!?」
「君はこちらに。ラトラナジュ」
いっそ優雅とも言える動作でアランに引き寄せられる。目眩がするほど濃厚な香水と煙草の香りの中、ラナは必死にもがいた。
「っ、離して!」
「そういう訳にはいかない。ここは危険だからな」
ラナの視界の端で、地に伏していたエドナが金髪を揺らしながら頭を上げた。
『戦乙女の手枕 死神の鎌 祝福なき者を斬り伏せよ』
微かな詠唱と共に、エドナの握った小瓶が割れる。
漆黒のドレスをまとった骸骨が顕現した。甲高い笑い声を上げたそれは、最接近していた数匹の共喰いを大鎌で一閃する。
首を無くした共喰いの一部が、ラナ達の背後の壁へと叩きつけられた。ラナが振り仰いだ先、炎によって脆くなった壁が軋んだ音を立てて崩れる。輝石で防ごうにも間がない。
アランはしかし、それにほんの少し眉を潜めただけだった。
低く、何かを呟く。次の瞬間、無数の瓦礫がラナ達を不自然に避けて地面に注いだ。
ラナが顔を強張らせる中、アランが上機嫌に呟いた。
「まぁ、こんなものだろうな」
「……アラン。あんた今、何をしたの……?」
返事は、すぐにはなかった。アランはラナの方をじっと見つめ、しばしの後に喉を鳴らして笑う。
「これは困ったな。とうとう聴覚がイカれたらしい」
聴覚を代償に、彼は何かをしたのだ。恐ろしい事実に気づいて、ラナはぞっとした。
アランは左手でラナの頬を撫で、申し訳無さそうな顔をしてみせた。
「悲しまないでくれ、ラトラナジュ。どうせ次に持っていかれるのは耳だろうと思っていたさ。それに言葉ならば、唇の動きでいかようにでも理解できる」
「……どう、して」
「ラトラナジュ?」
「っ、どうして、そこまでするの……」
相変わらず、周囲ではエド達が共喰いの危機に晒されている。
そして、それをけしかけたアランでさえ、身を削って魔術を使う。
じゃあ、これは何のための戦いだ。一体何のための。
ラナは思わずアランに
「あんたの愛したラトラナジュは……あんたの愛した娘は、死んだんだよ。こんなことしたって、なんの意味も、」
「死んでる? そんな訳ないだろう。君は生きて、ここにいる」
困ったように首を傾げながら、アランはラナに指を絡めて引き寄せた。
「俺は別に、君を誰かの代わりとして見ているわけではない。君は君だ。だからこそ、俺は君を愛す。何度でも。何があろうとも」
ラナは言葉を失った。望んだはずの真摯な言葉はしかし、遠い。彼の手の甲を伝った血が、自分の指先をぬるりと濡らしている。
そうだ、血だ。ラナはぼんやりと思った。彼の、右手の傷。自分を
別れ際の夕焼けが刹那のうちに閃いた。水滴を弾いて輝く世界が。彼のぬくもりと共に眺めた煌めきが。
あぁ、でもそれは終わってしまったのだ。唐突に悟って、ラナの喉元に熱いものが競り上がる。
胸が、苦しい。ただただ、ひどく苦しく、悲しかった。
いつもと変わらぬ顔で愛を
愛しさと一滴の寂しさを混ぜて輝く金の目が。
「……わ、からない」ラナはゆるゆると何度も首を横に振った。「分からない……分からないよ。私には、あんたが……」
アランの金の目に、ぞくりとした光が落ちた。
「――あぁラトラナジュ。君は本当に美しく、いじらしい」
「っ……」
不意に、アランがラナを手放した。よろめきながら距離をとったラナは、己の手の中に覚えのない
「これを、お守りに」そう言って、アランが懐かしそうに目を細めた。「以前のように捨てないでくれると嬉しいが」
「どういう、ことだい」
「なに、少し時間をあげようと思ってね。今日は随分疲れたろうから」
大時計の鐘が響き始めた。アランが金の目を
「いくらでも考えるといい。そしてその上で、俺を選びなさい。敏い君のことだ。それが最善であると理解できるだろう?」
「っ、最善、なんて……」
「アラン、そろそろ時間だ」
しわがれた声と共に、炎を割って共喰いを従えた男が姿を現す。
禿頭の、ひどく老いた男だった。華美な刺繍の施された黒衣が、炎を弾いて下品に輝く。男は子供のようにはしゃいだ様子でアランに声をかけた。
「ふは。なかなかどうして、共喰いというのは素晴らしいものだがね! 楽しい時間はすぐに過ぎ去ってしまうというのが難点というもの」
アランはいっそ滑稽なまでに
「随分とお楽しみ頂けたようで、カディル伯爵」
「そうとも、聞いてくれ。エドナの奴、こんなところに
カディルが上機嫌に言いながら踵を返し、アランも当然のように彼の男に追従する。
「待って、アラン……っ!?」
ラナの制止の声は、周囲の共喰いにかき消された。男たちの姿はひしめく異形の獣の影に隠れて消え、あとにはラナ達だけが取り残される。
震える息を吐き出すラナに向かって、じりと共喰いが距離を詰めてくる。されど後に退くことさえできない。彼女の背後には、満身創痍のエド達がいる。
共喰いが地を蹴った。ラナはとっさに、アランから渡された輝石を指で弾く。
『冠するは不変 純潔の祈りにて一切の穢れを退けよ』
悲鳴のような詠唱に応じて、雪華煌めく破片が盾を結ぶ。それは背後のエド達をまるごと包むほどに大きかった。けれど共喰いが体当たりする度に軋んだ音を立てて亀裂が入る。
「っ、ラナ……!」切羽詰まったようなエドの声が飛ぶ。「駄目だ! 君だけでも逃げろ!」
「いやだ! そんなこと出来るわけ無いだろ!」
ラナは泣きわめく。さりとて、いくら考えても良案は浮かばない。輝石はある。懐古時計も。でも、十数はくだらない共喰い全てを相手取るのか。その間にエド達をどうやって守ればいい。
全てを治すことはできない。共喰いも、懐古症候群も。夕暮れ迫る屋上でアランが吐いた冷たい言葉を思い出して。
そこで業火燃える夜を裂き、
目の前に大挙していた共喰いが一匹残らず内側から爆ぜた。振動した空気はそのまま、燃え盛っていた炎をたちまちに消す。
「っ、な……」
「おや、おや、おや。妙な懐古症候群の反応を追いかけてみれば、大の大人が揃いも揃って間抜け面とは」
石畳を杖で叩きながら、初老の男が夜闇より現れた。整えられた白髪、銀縁眼鏡をのせた鷲鼻、背後に
そして
「ごきげんよう、紳士淑女の凡人ども」
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