5-2. くだらない啓示で人が死んで良いわけない
この世はかつて救われた。奇跡の悪魔と輝石の魔女によって。
朗々とした声が礼拝堂に響き渡る。小雨に濡れる天窓から差し込んだ弱い光が、
本来あるべきは、
整然と並んだ長椅子に腰掛け、ラナは首をすくめるようにして両側を見やった。教会の壁側で長い足を組み、ラナへと微笑を浮かべているのはアランだ。そして通路側では、エドが不機嫌さを隠しもせずにアランを睨んでいる。
ラナは小さく身じろぎした。
「あの……」
「なに、ラナ」
「どうしたのかな、ラトラナジュ」
一つは笑みを含めて。一つは刺々しく。ラナは両隣の圧力に負けないように、ズボンの布を皺になるまで握った。
「今って礼拝中だよね」
「そうだよ」エドがぶっきらぼうに答えた。「
「随分と生意気な口を利くじゃないか」
アランは薄い笑みを貼り付けたまま、冷ややかな視線を投げつけた。
「邪魔者がどちらなのか、もう一度頭で考えてみることをおすすめしよう。エドワード・リンネウス」
「どう考えてもお前の方だろ。俺とラナは元々約束してた」
「都合よく事実を改変するのは頂けない。この時間はまだ、ラトラナジュは俺のところで仕事をしていたはずだ」
「お前が強引に押しつけた仕事を、だろ」
「ねぇ、二人とも」ラナは苛々と声を上げた。「だから礼拝中なんだってば!」
「そ、そのとおり」
降ってきた低い声に、ラナは首をすくめた。中央の通路をたどりながら、祭祀服の青年が迷惑そうに呻く。
「い、一体なんの用だ。ひ、冷やかしならば不要だが」
「すみません、ヴィンスさん」
「……俺たち以外に人はいないんだから、いいだろ」
ぼそと呟いたエドの足を踏んで、ラナは頭を下げた。エドが小さく呻く。それを鼻先で笑いながら、アランは懐から煙草を取り出した。
ちょっと。どうしてこのタイミングで煙草を吸おうって気になるんだ。ラナが内心で慌てる中、ヴィンスが一つ咳払いした。
「こ、ここは禁煙だが」
火のついた煙草が白煙を上げる。その向こうで、愛想笑いと共にアランがヴィンスを見上げた。
「君が許してくれれば済む話だろう? 罪あるものへの許しは君の得意とするところじゃないか、
「み、見も知らぬ男に許しを与えるほど、俺は暇ではない」
「これは随分と狭量なことだ」
アランが喉奥で笑いながら煙草に口をつける。ヴィンスは苛立ったように祭祀服を揺らした。ラナの方をちらと見やる。
「だ、誰なんだ。こ、この男は」
「誰って……その、私の仕事の雇い主、です」
「な、何故そんな男がここにいる?」
「ええ……」
それは、ちょうどアランと一緒にいたところにエドから電話がかかってきて、何故かアランの気まぐれでついてこられたからで。ついでに言えば迷惑もしていて。
喉元まで出かかった愚痴をなんとかラナが飲み込んだところで、他ならぬアランがラナの手をとり、さも当然というように口を動かした。
「俺と彼女は恋仲なんだ。なら、いっときも離れたくないと思うのは当然だろう?」
「っな……!?」
ラナの声が裏返った。待って、恋仲なんて。そんなこと一言も言ってない。赤くなる顔でアランを睨んで手を振りほどく。いけしゃあしゃあと意外そうな顔をする男に、ラナは文句の一つでも言いかけて。
白煙揺れる空気を、ラナの横合いから飛んできた何かが裂いた。煙草の先端がぼとりと地に落ち、短剣が教会の壁に突き立つ。
「手が滑った」
ぞっとするほど冷たい声で、エドが沈黙を破る。ラナがぎこちなく顔を向ければ、予想に反してエドは笑みを浮かべていた。目に殺意を浮かべて。
ラナは慌ててアランの方を向き直った。腰を浮かせた彼の腕を、ラナは強く引っ張る。
「アラン、黙って」
「――あぁラトラナジュ、愛しの君」好戦的に目を光らせたまま、アランは器用に懇願してみせた。「どうか止めないでくれ。これはひいては君のためでもある。野蛮な男は今すぐにでも潰すべきで、」
「いいから、黙って! 良いって言うまで喋らないでったら!」
半ばやけくそで叫べば、アランは何度か目を瞬かせた。それでも従う気にはなったらしく、再び長椅子に腰掛ける。
何事もなかったように煙草をふかしはじめる男を一瞥して、ラナはどっと疲れを覚えた。まったく、なんでこんなことをしなきゃいけないんだ。文句を込めてエドを一睨みした後、ラナはヴィンスへと切り出した。
「礼拝の邪魔をしたことは謝るよ。でも、私達は
「と、懐古症候群の話など、真新しいものではあるまい」
「ただの懐古症候群じゃないんだってば。あのね、私達は共喰いについて調べてるんだ。共喰いっていうのは、」
「と、懐古症候群を狩る懐古症候群だろう」
事も無げに言われ、ラナは目を丸くした。ヴィンスは面倒くさそうに息を吐き、長椅子の間を滑るように歩き始める。
「わ、我々が知らないとでも思ったか? そ、魔術協会は懐古症候群を狩るための組織だ。そ、その手の情報は仕入れていて然るべきだろう」
「なら、話は早い」
ラナは明るい声で立ち上がった。傍らでエドが眉をひそめるのも構わず、ヴィンスを追いかける。
「私達は共喰いを創ってる人間を探してるんだ。普通の人間を無理矢理に懐古症候群にするなんて、おかしいだろ? それを止めたくて」
「な、何故?」
「え」
ラナは思わず足を止めた。ヴィンスが礼拝堂の扉の前で振り返る。若き神父はつまらなさそうな表情を隠しもしなかった。
「な、何故、共喰いを止める必要がある? と、共喰いは懐古症候群を狩るんだろう。な、ならば、これに反対する理由などない」
「そんなの、おかしい」ラナは声を少し大きくした。「共喰いは元々人間なんだよ? 懐古症候群が減れば、何をやってもいいってわけじゃない」
「と、懐古症候群も元は人間だろう」
言葉に詰まったラナを見て、ヴィンスは呆れたように息をついた。わざとらしく憂いを声音に乗せてみせる。
「わ、我々だって心を痛めているとも。だ、だが懐古症候群に治療法はない。そ、そして、我々と無能な警察だけで懐古症候群の全てが制御できようはずもない。な、ならば、被害を最小限に食い止めるための方法が必要というものだろう?」
「そんな……」
「な、納得がいかないか? そ、そうだろうな、無力な女よ。だ、だが、この時間でさえ共喰いの恩恵ゆえに得られたものだ」
「は?」
「と、懐古症候群と共喰いがちょうど戦っている頃合いだろうよ」
事も無げなヴィンスの言葉に、ラナは凍りついた。
「待って……ヴィンスさん。本気で言ってるの」ややあって、ラナは声を震わせた。「あんた、懐古症候群がいるって分かってたのに、放っておいてるのかい……!?」
「ほ、放ってなどいないだろう。か、カディル伯爵が共喰いの力を試したいと言った。わ、我々はこれに協力し、あえて手を出さないでいるだけだ」
「っ、そんなの体の良い見殺しじゃないか! 共喰いは人に悪魔を混ぜて創るんだよ!? そんな……そんな人間をモノみたいに扱うことが許されるわけない!」
怒りに震えるラナの肩がそっと叩かれた。震える息を吐き出しながら見上げれば、アランとエドの姿がある。
ゆるりと首を横に振ったアランは、ラナの右肩から手を離して髪を一房すくった。
「あまり心を乱してはいけない、ラトラナジュ。分かりあえない価値観は古の時代から存在するものさ」
「……ご、めん」
「ラナ、君が謝らなくてもいい」
そう言って、エドがラナの左肩を掴む手にやや力を込める。
ヴィンスは皮肉っぽく笑った。
「ず、随分と頼もしいことじゃないか。む、無力な姫に、盲目の騎士が二人といったところか?」
「盲目なのは、お前の方だろう」エドが厳しい表情でヴィンスに応じた。「随分と大層な御高説を垂れてくれたが、どうせそれもお前の信じる神の啓示とやらなんだろう?」
ヴィンスは鼻を鳴らした。その前髪が僅かに揺れ、
「と、当然だ。す、全ての啓示は守られてこそのものなのだから」
礼拝堂に厳粛で虚ろな声が響く。張り詰めた空気に薬草が香る。どこまでも清純な空気にラナはひやりとした恐怖を感じた。目の前にいる若き神父は、彼女の知らない類の人間だった。その意志は固く、信じているものは決して自分の考えとは相容れない。
一人ならば、きっと逃げ出していた。
けれど。
「そんな……そんな、くだらない啓示で人が死んで良いわけない」
ラナはゆっくりと言葉を紡ぐ。胸元の懐古時計を握りしめ、ヴィンスの視線をまっすぐに受け止めた。
両肩の重みが、たしかに彼女を支えている。
*****
ラナ達が礼拝堂を飛び出していった。それを、薄暗い階段の踊り場でアイシャは立ち尽くしたまま見守る。
共喰い。懐古症候群を狩るために創られた、人間に悪魔を混ぜた化物。そしてそれを魔術協会は容認している。
礼拝堂の扉一枚を通して聞こえたのは、初めての話ばかりだった。アイシャは胸元の猫の人形をぎゅっと抱きしめる。相棒であるはずのニャン太は何も言わない。当然のことなのに、それがひどく不安でたまらない。
「き、聞いていたのか」
階下から響いたヴィンスの声に、アイシャはびくと体を震わせた。礼拝堂から出てきた魔術協会の長は、冷ややかな表情で吐き捨てる。
「た、立ち聞きとは、相変わらず礼儀のなってない小娘だな」
「さっきの話は本当なのですかにゃ……」
「そ、そうであったとして、なんの問題が?」
「問題だらけですにゃ……」アイシャは震えそうになる足に力を込めて、口を動かした。「共喰いなんて、そんな……」
「ひ、非人道的だとでも?」ヴィンスは鼻で笑った。「き、綺麗事を。い、いずれにせよ懐古症候群を狩る時点で人殺しも同然だ。い、今さら共喰いに情けをかけたところで何になる?」
「っ、それはそうかもしれないですけどにゃ……!」
「おだまりなさい、アイシャ」
有無を言わさぬ声に、アイシャは顔を上げた。僅か数段登った先に、エドナの姿がある。髪留めでまとめられた金髪も、きっちりと着込まれたスーツにも隙はない。そうしてアイシャの師匠は、
「これは神父様の決定よ。ならば、私達はそれを尊重するだけだわ」
「っ、エドナは、それでいいのですかにゃ……」
エドナが整った両眉を上げた。細めた瞳によぎった感情。それをアイシャが見極める前に、ヴィンスが厳かに口を開く。
「え、エドナ。ら、ラトラナジュ達を追え。か、カディル伯爵の計画の支持がプレアデス機関の意思だ。そ、それを損なう訳にはいかない」
「えぇ」エドナはアイシャから目を離し、にこりと微笑んだ。「承知しましたわ、神父様」
*****
「あぁラトラナジュ! 君は本当にお人好しだな!」
「もう! 無駄口はいいから黙っててよ、アラン!」
「それを言うなら、ラナ。君もだ」
廃ビルの立ち並ぶ狭い路地で、すぐ後ろを走るエドがぶっきらぼうに諌めてくる。それにラナが反論しかけたところで、金属をこすり合わせたような不協和音が響いた。
ラナは顔を上げ、息を飲む。細長く切り取られた空は曇天。そこから雨の代わりに無数の
隣を走っていたアランが、ラナの腕を強く引いた。彼女がたたらを踏んで倒れ込む。それと入れ替わるように、アランは輝石の一つに口づける。
『冠するは不変 純潔の祈りにて一切の穢れを退けよ』
指先で砕けた輝石が雪華煌めく盾を結ぶ。ラナが首をすくめる中、礫の全てが弾かれた。刹那の間をおいて、彼女の耳に機械の駆動音が届く。
『
消える直前の盾を踏み台にして、仮面をつけたエドが跳躍した。振るった短剣が、廃ビルに張り付いていた巨大な蜥蜴の尾を落とす。どす黒い血と絶叫を振りまきながら、蜥蜴が隣のビルへと飛び移った。
黒い血がぼたぼたと地に落ちる。ラナを抱えたまま何歩か後ずさったアランは、降り立ったエドに向かって鼻を鳴らした。
「ずいぶんと品のない攻撃だ。もう少し配慮というものを持つべきだな」
「それを言うなら」エドが短剣についた血糊を払って応じた。「お前こそ、もう少し広範囲に盾を出すことはできなかったのか? 危うく礫が当たるところだった」
「これはすまない。うっかり手が滑ってね」
「……よく言う」
アランの清々しいまでの笑みに、エドが口元を引きつらせる。
ラナはアランの胸元を押して立ち上がった。二人に対する気後れを懐古時計を握ることで追い払う。
「さっきのは、懐古症候群だった?」
ラナの問いかけに、エドは首肯した。
「間違いないと思う。共喰いなら懐古症候群を狙うはずだ。でもさっきの奴は俺たちを狙ってきた」
「なら、私が治せるってことだよね」
エドが僅かに目を見張った。それでも、日記を知っている彼ならばラナが言わんとしていることは分かるはずだ。
視線を動かし、ラナはアランを見上げる。
「多分、私は懐古症候群を治せると思う。でも、それにはあんたとエドの協力が必要なんだ」
「懐古症候群の治療、か」
「うん」ラナは少しだけ眉尻を下げた。「ごめん。こんなの、急に言われても信じられないと思うけど……」
「いいや」
アランはゆるりと首を横に振った。ちらと懐古時計へ目をやってから微笑する。
「君がそうしたいと願うのならば、俺はそれを叶えるだけのことだ。ラトラナジュ」
「……ありがと。あとでちゃんと事情は説明するから」
「それは素晴らしい。その時は是非、美味しいお茶でも飲みながらゆっくり語り合うとしよう」
アランが満面の笑みでラナに手を伸ばす。それをエドが咳払いで阻んだ。
「俺とアランで懐古症候群を引きずり出す。それでいいね? ラナ」
「うん」
一つ頷く。それを合図に、アランとエドが廃ビルに向かって歩き出した。
廃ビルに二人の姿が消える。戦いが再開されるのにさして時間はかからない。
「ずいぶんと男の扱いが上手なこと」
頭上から降り掛かってきた女の声に、ラナは顔をこわばらせた。振り返った先に、黒スーツの女が一人。
身構えるラナを見て、エドナは榛色の目を細めた。
「あらやだ。まるで子猫が毛を逆立てるみたいな警戒の仕方ね」
「何を、しに来たんだい」
「神父様は貴女達の邪魔が気に入らないようなの」
「あんたは共喰いに同情してたじゃないか」ラナは奥歯を噛んだ。「だったら、共喰いを使うような計画に従うべきじゃない」
「とっても眩しい正論ねぇ。愚かな私の弟子にそっくりだこと」
「っ、ふざけてないで、真面目に話を聞きなよ!」
「貴女、私の提案を覚えているかしら?」
だしぬけに問われ、ラナは顔をしかめた。提案と言われれば一つしかない。雨の日のエドナの言葉だ。
「日記には何も書かれてなかったよ。共喰いのことも、それを匂わせるような記述も、なにもなかった。だからアランは白だ」
ラナはきっぱりと答えた。懐古時計を握りしめ、エドナを睨む。
「むしろ、私からすればあんたの方が疑わしい。あんたは日記の存在を知ってた。やたらとアランに罪を被せようともしてる。何よりも悪魔を従えてるんだから」
「…………」
「あの雨の日、あんたは言ったよね。私からの質問に何でも答えるって。なら答えて。あんたは共喰いに関わってるのかい?」
返答には一瞬の沈黙があった。エドナはゆっくりと目を瞬かせ、やがて声を立てて笑う。
ラナは視線をきつくした。
「何がおかしいんだい」
「いいえ、いいえ」エドナは笑みを収めながら、目元の涙を拭った。「そうよねぇ、世界は変わるんだわ。当然のことよね」
「……あんた、やっぱり前の世界を知ってるんだね」
ゆっくりとラナが問いかければ、エドナは肩をすくめた。
「悪魔は時間に囚われない。ならば、いくらでも話が聞けるというものよ」
エドナは懐に手を伸ばし、一台の携帯端末をラナへと投げてよこした。取り落とす寸前でラナが受け取ると同時に、エドナが踵を返す。
「気が変わったわ。この場は見逃してあげましょう」
「は……? ちょっと……!」
「せいぜい、その端末を上手に使うことね」エドナが少しばかり振り返って微笑した。「願望と成すべきことが一致しているのは、とても幸運なことなのだから」
硝子の破片を擦ったような音が響いた。同時にエドナの足元の影が
ラナはゆるりと息を吐いた。一体どういうことなのか。悪魔を従えた魔女の言葉と、手の中の携帯端末。胸をかきたてるような不安は消えない。
廃ビルの方から、一際大きな咆哮が聞こえた。ラナは我に返って首を振る。今は集中することだ。目の前の戦いに。
端末をしまって振り返る。エドが地面に懐古症候群を叩きつけるのが見えた。次いで、アランの放った魔術が懐古症候群を地面に縫い止めるのも。
それに向かって駆け出しながら、ラナは胸元で踊る懐古時計を掴む。息を吸って言葉を紡いだ。
『冠するは時――!』
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