5-1. 恋人という関係を、君は望むのか?


 紙のこすれる音が、雨に混じって響く。


 ラナは日記の最後のページをめくり終えた。擦り切れた革表紙を閉じ、椅子を軋ませ背もたれに寄りかかる。机の上の懐古時計に手を伸ばした。ぽつんと灯した照明の下で、針が午前零時を指そうとしている。


 規則正しく伝わる歯車の音を感じながら時計の蓋を閉じ、目を閉じた。


 日記を読んでいた時間など、数時間に満たない。それでも一生分を経験したような疲労感があった。それは懐古症候群トロイメライにまつわる事件のせいでもあったが、綴られた感情のせいでもある。


 自分は、アランに恋をしていた。けれどそれは、親子という関係ではあってはならない感情だった。

 自分は、エドを親友のように思っていた。けれどそれは、幼き日に彼を見捨てて故郷を逃げ出したことで破綻はたんした。


 日記には、誰かを守りたいという強い願いが綴られていた。けれどそれは、自分がいれば誰かを傷つけるという悲しみの裏返しだった。あるいは、自分さえいなくなれば全てが上手くいくのだろうという想いゆえでもあった。


 だから自分は、自分の存在を消してしまいたかった。アランのことも、エドのことも、大切だったから。


 ラナはゆっくりとまぶたを上げる。ぼんやりと滲む照明を見ながら、日記の最終ページを指先で撫でた。


 掠れたインクで綴られているのは、たった一文――『誰かを、信じるということ』。

 それは、そうありたいという願望だったのか。そうはなれなかったという絶望だったのか。


 控えめに扉を叩く音がした。両手にマグカップを持ったエドが顔をのぞかせる。


「疲れてないか?」

「ん、大丈夫」ラナはへにゃりと笑った。「私の方こそ、ごめんね。心配して起きててくれたんだろ?」

「俺も眠れなかっただけだから。中に入っても?」


 ラナが頷けば、エドは部屋へ足を踏み入れた。彼から手渡されたマグカップには、甘い香りのココアがたっぷりと注がれている。


「ありがと、エド」

「君は甘いものが好きだろ。昔から」

「うん」素っ気ないエドの返事に、ラナは小さく笑ってマグカップを両手で包んだ。「そう。そうだね」


 窓辺に腰掛けたエドが、ほんの少し目を細める。けれど何かを言うことはなかった。


 互いにココアを飲む。窓の外から鐘の音が響いた。

 ラナは日記に目を落とす。


「……日記、読んだよ。渡してくれて、本当にありがとう」

「知りたいことは、書いてあった?」

「そうだね。細かいところは、ちゃんと読まなきゃいけないけど……少なくとも、アランのことはたくさん書いてあったかな。だから、彼が共喰いに関わっているかどうかは、ちゃんと確かめられそう」


 ラナは小さく笑い、息をついた。机の上で懐古時計がカチリと音を立てる。


「ねぇ、エド」ゆっくりとラナは切り出した。「この日記の続きを、教えてくれるかい?」


 窓辺に腰掛けたエドは、マグカップに口をつけて唇を湿らせた。何度か目を瞬かせ、やがて意を決したように口を開く。


「日記を渡す時に言ったけど……この世界は、巻き戻っている。そこに書かれているのは、巻き戻る前の世界の話だ」

「うん」

「前の世界で、君は君自身の手で命を絶とうとした。それを俺とアランが見届けて、そこで時間が巻き戻ったんだ」

「……そう」


 ラナは両手で抱えたマグカップの水面を見つめた。覚悟はしていた。それでも、やはり告げられた事実は重い。


 視界の端で、エドがゆるりと首を横に振った。自分と同じ黒灰色の目は、気にやまないようにと告げている。


 寄り添うような沈黙に、ラナは表情を緩めた。気を紛らわせるように疑問を口にする。


「時間が巻き戻るって、どんな感じだったの」

「本当に、急にって感じだったよ」エドはため息をついた。「目の前の景色が一瞬で変わった。気付けば教会にいたのは俺だけで、一緒にいたはずの君も、アランも、ヴィンスの姿もなかった。それで、慌てて携帯端末を確認したら時間が巻き戻ってたんだ。ちょうど、十年分ね」

「それで、エドは私を引き取ってくれた」

「そう。俺は故郷に――クラシオンに戻って、君を見つけた。運良く、というべきだろうね。理由は分からないけど、父上は死んでて、俺の家は断絶してたから。妙なしがらみもなかったし」


 さらりと言うエドの横顔にはなんの感慨もない。ラナは目を伏せた。


 彼の家のことは日記にも書いてあった。彼の生い立ちが異常だということも分かっている。おそらく、家に良い思い出がないのだろうということも。それでも居たたまれない気持ちになって、ラナは思わずぽつと呟く。


「そんなに、寂しいこと言わないでよ」


 エドが驚いたように目を丸くして、そっと目元を緩めた。


「気にしないでくれ、ラナ」

「でも……」

「君は俺の家族同然なんだ。だから寂しいなんて、感じる暇もなかったよ」エドがいたずらっぽく目を光らせた。「特に、小さい頃の君はいっときだって目を離せなかったからね」


 ラナはバツが悪くなって唇を尖らせた。


「そりゃあ、子供だもの」

「そう。君は子供だった。少し目を離しただけで、あちこちに歩いていってしまうし、雷が鳴り出すと泣き始めるし、初めて作ってくれた料理はすごくしょっぱくて、食べられたものじゃなかった」

「え。あの時は美味しいって言ってくれてたじゃないか」

「だって、そうでもしなきゃ君は泣くだろ」


 おかしそうに笑うエドに、ラナは咳払いした。彼には面倒を見てもらった恩がある。けれどやっぱり、昔のことを掘り返されるのは居心地が悪くてしょうがない。


 ラナは無理矢理に別の話題を切り出した。


「それにしても時間が巻き戻るなんて、変な感じだよね。何がどうなったら、そんなことができるんだか……」


 エドがぴたりと笑いを止めた。ラナが首を傾げれば、彼は気まずそうに目をそらす。

 ラナは眉を潜めた。


「え、なに。もしかして、どうやったら時間が戻るか、知ってるのかい?」

「……いや、それは分からないけど」

「?」

「きっかけ、みたいなものは分かるというか」


 歯切れの悪い返事にラナが首をかしげれば、エドは何故か不愉快そうに眉間に皺を寄せる。


「キスをしたんだ」

「……は?」

「アランが、君に口づけをした。その瞬間に時間が巻き戻ったんだ」


 *****


 アランと、口づけをした。それは、時間が巻き戻っているという事実に比べれば随分と些細なことだった。

 それでもラナの心をざわつかせるのには十分だ。特にこうして、アランの家で家事をしている時は。


 ラナは廊下の床を拭きながら、そろりと居間を見やった。ソファで長い足を組んだ彼は、煙草をくゆらせながら本を読んでいる。

 外から差し込む弱い光に薄金色の髪がきらめく。一方で、光は彼の彫りの深い顔立ちに影を落としていた。光と影のあわいに立つ男の色香に惹かれるまま、ラナの視線が自然と彼の口元に向かう。


 紫煙を吐き出した、薄い唇。あの唇が自分に触れたのだという。ラナはそろりと自分の唇に指を這わせた。鍵を渡された時の体温を思い出した。あの時だって、今にも触れそうな距離だった。触れられるかとも思った。音も、香りも、吐息も、何もかも近くて。


 馬鹿らしい。口づけをしたのは、前の世界の自分と彼じゃないか。目尻を釣り上げた理性がバケツいっぱいの冷水を浴びせてくる。ラナはぶるりと首を振り、ため息をついた。そうだ、そのとおり。この世界で、口づけなんて一度もしてない。彼は前の世界の彼とは違うのだから。鍵を渡してくれた時の近さだって、自分をからかってのことだろう。


 しっかりしろと言い聞かせて、掃除用具を廊下の戸棚にしまった。少なくとも、日記を読んだ限りではアランと共喰いの繋がりを示唆する記述は見つけられなかった。それは喜ばしいことでもあるが、共喰いの犯人が別に存在するということでもある。ここでの仕事が終わり次第、エドと一緒に魔術協会ソサリエへ話を聞きに行くことになっていた。ぼんやりと考え事をしている時間はないのだ。


 そこで、ラナのポケットから着信を告げる軽やかな音楽が流れ始めた。うっかり電源を切り忘れていた自分を呪いながら、ラナは慌てて端末を取り出す。気づいた様子のないアランに安堵して、彼女は逃げるように洗面所へ転がり込んだ。


「ちょっとシェリル」通話ボタンを押すなり、ラナは声をひそめて友人を諌める。「今、仕事中なんだけど」

「仕事中って、今日は休日じゃないの」

「飛び入りで頼まれたの」

「飛び入りで、ねぇ……」


 含みのあるシェリルの声に、ラナは顔をしかめた。


「ねぇ。特に用事がないのなら、電話切るよ?」

「失礼ね」端末の向こうで、シェリルがテーブルをこつと叩いた。「一昨日のあんたが、随分と元気なさそうだったから電話してあげたのに。ほら、あの男にさらわれちゃったでしょ」


 シェリルの冗談めかした物言いに、ラナは思わず吹き出した。電話の向こうで、シェリルの空気も少しだけ柔らかくなる。


「まぁ、その様子なら少しは元気になったって感じかしら」

「うん。ごめん、心配させて」

「いいのよ、友達でしょ。あ。でも一体どうやってあの男に慰められたのかは教えてほしいところね。次に会うときにでも」

「慰められる、とかじゃないよ」ラナは苦笑いした。「むしろ、色んな人に相談にのってもらった……って感じかも」

「ふうん? それはそれで、あの男が間抜けね」

「……そんな言い方しなくてもいいんじゃないかい?」


 ラナが思わず援護に回れば、シェリルが鼻を鳴らした。


「女の子を励ましも出来ない男なんて間抜け以外の何物でもないでしょ。まぁ、いいわ。あの男、なんだか気障きざったらしくて好かないもの。それにちょっと怪しいし」

「怪しい?」

「その様子だと、やっぱり気づいてなかったのね」シェリルが声を一段落とした。「あの男、香水の香りをいでたでしょ。うちの店で。あの時、あんたはオレンジの香りの香水だって言って、あの男に香水瓶を渡してた」

「それがどうかしたのかい?」

「あの瓶ね、柑橘系じゃなくて、花の香りの方の香水瓶だったのよ。あんたが間違えて渡してたの。だから柑橘の香りがするはずない。なのにあの男は、香水を嗅いで、柑橘の匂いがするって言ってた」


 ラナは頬を掻いた。


「彼だって、間違えることはあると思うけど……」

「ねぇ、ラナ。考えても見なさいよ。あんなの、歩く自尊心の塊みたいな男じゃない。間違えるわけがないわ。もちろん、あんたに気を使ったっていう説も捨てきれないけど」


 シェリルは一旦言葉を切った。彼女の指が、再びテーブルを叩く。


「彼、ちゃんと香りそのものを嗅ぎ分けられているのかしら」


 そんな、大げさな。そう言いかけて、ラナは言葉に迷った。同じような疑問をどこかで感じた気がしたからだった。けれど、それはいつのことだったか。


 シェリルとの会話もそこそこに電話を切る。アランが怪しい。そう主張するシェリルの発言は大げさだと思う。けれど、彼が明け透けな人間ではないということも確かだった。


 洗面所を出たラナは、廊下に並ぶ扉の一つの前で足を止めた。例えばそう。この部屋も彼の秘密の一つだ。決して立ち入らぬよう、初日に言い含められた部屋。おそらくはアランと、彼にとっての大切な誰かが使っていたであろう場所。


 つき、と胸が痛んだ。その痛みの正体を見つけられぬまま、ラナはゆっくりとドアノブに手をかける。開くのか、開かないのか。期待の狭間のまま、ひやりとしたドアノブを回す。


「その部屋に入っては駄目だよ、ラトラナジュ」


 あでやかな声とともに影が落ちて、ラナは飛び上がった。慌てて振り返れば、アランが流れるような動作でラナの手首を掴んでドアノブから引き離す。

 彼は左手の人差し指を唇に当てた。


「雇い主の秘密はのぞかない。そういう契約だったろう?」


 注がれる眼差しは柔らかく、けれど断固とした拒否もにじませている。彼にしては珍しく。


 そんなにも隠したい秘密なのだ。そう思えば胸の痛みが少しだけ増した。それはけれど、随分と身勝手な痛みのような気もして、ラナは逃げるように目をそらす。


「ご、めん。ちょっとだけ気になったんだ」

「素直なのは、君の数ある美徳のうちの一つだ」アランは目を細めた。「だが、好奇心は猫をも殺す。そこをきちんと覚えていてもらわなくてはな」

「……私は猫じゃない」

「勿論だとも。あぁだが、安心しなさい。たとえ君が猫だとしても、俺が君を愛することに変わりはない。お仕置きの方法だけ考えなければならないだろうが」


 上機嫌に言いながら、アランがラナの手に指を絡めた。装飾腕輪レースブレスレットがしゃらりと鳴る。彼女の手首を引き寄せたアランは、ついばむように口づけを落としていった。


 肌の上を彼の唇がなぞっていく。ラナはぎゅっと目をつぶった。言いしれぬ熱を逃すように首をすくめて浅く息を吐く。


「ね、ぇ。アラン。これは」

「なに、それこそ、ちょっとしたお仕置きというものさ」ラナの腕の内側を唇でなぞりながら、アランが音もなく笑む。「君を傷つけるわけにはいかないだろう?」

「ん、や、それは」

「それとも君は、痛い方が好きか?」

「っっ!?」


 腕の内側を甘噛みされ、ラナは小さく悲鳴を上げた。信じられない思いで顔を上げれば、アランの金の目が熾火おきびのように揺らめいている。


「やっと、こちらを向いてくれたな」


 嬉しげに呟いたアランが顔を寄せる。ラナは思わず息を止めた。痛みも違和感も、全てどこかへ持っていかれる。目と鼻の先にあるのは壮絶なまでの色香だ。

 ラナは息も絶え絶えに呟いた。


「駄目、だよ。こういうのは、よくない」

「もちろんだとも、愛しの君」アランは喉奥でくつくつと笑った。「お仕置きなのだから、良いことのはずがない」

「っ、そういう、ことじゃなくて……っ! こんなの、恋人同士がすることで……っ」

「おや。恋人という関係を、君は望むのか?」


 甘さをはらんだ言葉に、ラナは困惑した。恋人。彼と愛し合うということ。自分は彼と、そういう関係になるのを望んでいる?


「あぁ、ラトラナジュ」アランはラナの輪郭に指を這わせ、うっとりと笑んだ。「戸惑っている君も美しいな。やはり俺を飽きさせない。その秘密がどこにあるのか、時々すべてを暴いてしまいたくなる」

「っ、ア、ラン」

「可愛らしい顔だ」


 もう少しだけ、よく見せなさい。低い声に命じられるままラナが思わず顎を上げれば、アランが金の目をきらめかせて。


 そこで、ラナの手の中で再び携帯端末が鳴動した。ラナが我に返る中、ぴたりと動きを止めたアランが剣呑な眼差しを端末へと注ぐ。


 視線の先の画面には、エドからの着信を告げるメッセージが表示されていた。

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