4-3. それでもやっぱり、私は信じたいよ
コーヒーに落とした二個目の角砂糖が、白を散らして溶けていく。
ラナは静かにそれを見つめていた。頭の中でずっと響くのは、午前中に聞いたマリィの言葉だ。それは、アランの家で家事をこなしている間もずっと離れなかった。
マリィが自分の頭を撫でてくれた、その優しい重みと共に。
時計台が午後三時を告げる鐘を打ち鳴らす。細雨の音は柔らかい。アランの家は、何もかもから、ほんの少し遠くて。だからこそ、自分はここへ逃げ込みたいと思って。
――私が相手のことを好きだって思うのは、私の自由ってこと。相手が私のことを嫌いって思うのと同じくらいに。
眩しくて、鋭くて、それでも確かな暖かさを持ったマリィの言葉を思い出す。ラナはゆっくりと息を吐き、目を開いた。
右のカップを取り上げて、ほんの少し口づける。砂糖の入っていないコーヒーはひどく苦い。けれど。
「依頼人より先にコーヒーを飲むとは、いけないお手伝いさんだな」
からかうような声と共に、テーブルに残されたカップが取り上げられた。
アランだった。麻のシャツを無造作に着た彼はコーヒーを一口飲み、ラナに向かって面白がるように片目を閉じる。
「だが、コーヒーの味は絶品だ。さて困ったな。俺は君にお仕置きでもすべきか、褒めてあげるべきか」
「なんだい、それ」ラナは小さく笑った後、真面目な顔を取り
「君は仕事人の鏡のような女性だな。そうやって、依頼人にきちんと報酬を要求してくるところも含めて」
「仕事ですから」
「ならば、とびきり甘いご褒美をあげなくては」アランはにこりと笑んだ。「居間においで。菓子を用意しておいたから、一緒に食べよう」
ラナの手からコーヒーカップを取り上げて、アランが歩き始める。ラナは、彼の背をほんの少しの間だけ見つめた。ぴんと伸びた大きな背。さらりと揺れる薄金色の髪。左手に
煙草と香水の香りを胸いっぱいに吸い込んで、彼女はアランを追いかける。
「アラン」
「…………」
「ねぇ、アランってば」
ラナは先を行くアランのシャツの裾を引っ張った。居間に片足を踏み入れた彼は驚いたように振り返り、一瞬の間に笑みを浮かべる。
「どうかしたか、ラトラナジュ」
「あっ……えっと、もしかして今、何か考え事してた……?」
「君以上に大切な考え事などないさ。愛しの君」
おどけたように言ったアランは、手近な棚にコーヒーカップを置いた。ラナの頬にかかった黒灰色の髪を右手の指先ですくいあげ、困ったように首をかしげる。
「何か、俺に言いたいことがあるんだろう?」
ラナは苦笑いした。
「アランは何でもお見通しだよね」
「他ならぬ君のことだからな。なにより、昨日の今日だ。顔色こそマシに見えるが……何か辛いことがあったか?」
「やっぱり、そう見える?」
「見えるとも」アランは声音に憂いの色をにじませた。「だからこそ俺は、君に鍵を渡したのさ。少しでも君の力になれればと思ってね」
気遣わしげな金の目が、ラナのすぐ近くにあった。その色は変わらず濃く深く、うっかり落ちてしまってもきっと受け止めてくれるのだろうと思った。
壊れ物でも扱うように、アランが親指の腹で頬を撫でる。その心地よさにほんの少し目を閉じて――やがて、ラナはそっと右手で押し留めた。
耳飾りを揺らし、アランが首をかしげる。
「ラトラナジュ?」
「……私ね、昨日エドと喧嘩したの」
目を伏せ、ラナはゆっくりと切り出した。
「それでね、ちょっとだけ悩んでて。逃げたいとも、思ってて。そんな時に、アランの渡してくれた鍵が、本当に嬉しくて。でも、」アランの指先をぎゅっと握って、ラナは顔を上げて微笑んだ。「でも、今日、マリィさんに相談にのってもらってね。やっぱり頑張ってみようって思ったんだ。弱くて、頼りないけど、それでも」
ラナはズボンのポケットから鍵を取り出した。一度だけ鍵をぎゅっと握ってから、アランの右手にそれを渡す。
「だから、この鍵は返すよ。私がアランに甘えすぎないように」
アランが目を見張った。
「……いいのか?」
「うん、いいよ。だって鍵は、こういうことに使っちゃ駄目だもの。もっと大事な時に渡さなくちゃ」
「大事な時、など」アランの金の目が
「ううん、今は違う。違うんだ。少なくとも私にとっては」
ラナはきっぱりと首を振った。アランの目に困惑の色が滲む。それは、贈り物を断った時と同じ顔だった。きっと彼にはラナの考えなんか理解できないのだろう。そう思った。けれどそれは不快ではなくて、ふわりとラナの胸を暖かくする。
ラナはほんの少し笑って、アランの骨ばった指をそっと撫でた。
「私ね、頑張るよ。エドとの仲直りもそうだけど、それ以外のことも。もう少しだけ、逃げずにやってみる。時間はかかるかもしれないけど」
「…………」
「それでね。それでも、あんたが私を待っていてくれるっていうなら……どうか鍵は、今は預かってて」
「預かる」
「うん」
ラナはアランの目を真っ直ぐに見つめて頷く。
「私がちゃんとアランの隣に立てるようになったら、受け取りに来るから」
アランは眩しいものでも見るかのように目を細めた。ややあって穏やかに目を閉じ、「そうか」と呟く。
「君がそういうのならば、俺には止めようもないことだ。愛しの君」
*****
アランの家から帰宅したラナは、夕闇迫る玄関に買い物袋を置いた。
「……よし」
一つ気合をいれて、炊事場に向かう。手早く身支度を済ませ、買ったばかりの野菜を刻みにかかった。
とんとんと、包丁が小気味良くまな板を叩く。外からは帰宅を急ぐ車の音が聞こえた。雨は降り止んでいて、開いた窓から涼やかな風が吹き込む。
鍋を熱し、油を薄く引いたあとで刻んだ野菜をいれる。そこで玄関の扉が開く音がした。遠慮がちな足音に振り返る。
くたびれた様子のエドと、目があった。沈黙はほんの少しだけ気まずい。それでも、野菜が焦げる音に
「おかえり、エド。ごめん、ご飯は今作ってるところだから」
「手伝うよ」
意外な返答に、ラナは目を瞬かせた。
「いいの?」
「いつものスープだろ?」エドはぎこちなく笑って、机の上の買い物袋を見やった。「野菜を切るくらいなら俺にも出来るし。待ってて、手を洗ってくるから」
エドの声音は思った以上に穏やかだった。彼の方でも何かあったのだろうか。あれこれと考えそうになって、ラナはゆるく首を振った。彼がどうであれ、自分がやることは一つだって変わらない。
木べらを握って、野菜を炒める。程なくして戻ってきたエドが、不器用な手つきで野菜を切り始めた。
不規則な包丁の音、香辛料の香り、水を注いだ鍋から立ち上る湯気のぬくもり。
エドがゆったりと口を開く。
「ラナは、今日も仕事に行ってたのか?」
「午後からね。午前中はマリィさんが来てて……そうそう、エドのことを探してるみたいだったけど」
「なんだよ、テオさん。ちゃんと事情は説明してあるって言ってたのに、全然駄目じゃないか」
「テオさんっていうと、マリィさんと一緒に共喰いを追いかけてる男の人?」
「うん、そう。あの二人は昔から仲が良いんだ」
「あぁ、なんだか分かるかも。マリィさんの話を聞いてても、そんな感じがしたもの」
「あの人は良い人だから」
「テオさんは?」
「……良い人と、言えなくもない」
ラナが思わず吹き出せば、
再びの沈黙はふわりと優しい。ラナはボウルに入った不揃いの野菜を鍋にいれた。琥珀色のスープを木べらでゆっくりとかき混ぜる。
そしてラナは口火を切った。
「昨日は、ごめんなさい」
傍らでエドが身を固くするのが分かった。けれどそれに気づかぬふりをして、ラナはとつとつと言葉を続ける。
「エドの、言ったことは正しいよ。信じるのは怖い。裏切られるのも怖い。私は……エド、あんたでさえも私にとっては怖くて、信用できるって、言い切れるわけじゃない」
「……そう」
「でもね、マリィさんと話してて思ったんだ。信じるのは怖い。それでもやっぱり、私は信じたいよ。信じるために、本当のことを知りたいの。エドのことも。アランのことも。皆のことも」
スープをかき混ぜる手を止めて、ラナは顔を上げた。
この決意は矛盾している。そんなことは分かっている。信用だってされないかもしれない。そんなことさえも分かっている。
分かっているからこそ怖くて、逃げ出したい。
それでもラナは、自分と同じ黒灰色の目を
「だから、お願い。日記を読ませて。本当のことを教えて」
しばらくの間、エドは何も言わなかった。じっとラナの方を見つめる。大した時間ではなかったはずだ。それでもラナにとっては永遠にも思えるような時間が流れて。
やがてエドが苦笑いを浮かべた。
「そう、だね……君は、君だ。何があったって」
「エド?」
「……だからこそ、俺は……」
ラナが首をかしげれば、彼は途中で言葉を切った。何度か目を瞬かせ、やがてゆるりと首を振る。
エドは炊事場を足早に後にした。ほどなくして戻ってきた彼は、一冊の本と懐古時計をラナへ差し出す。
「これ、返すよ。好きなように読めばいい。時計のことも書いてある。その上で、捨ててしまいたいなら、そうしてもらっても構わない……でも、」
エドはそこで一旦言葉を切り、決意を込めた眼差しでうなずいた。
「もし、もっと知りたいと思ったなら、いつでも聞いて。君には、真実を知る権利がある」
ラナは震える手で日記と時計を受け取った。一冊の本は重く、その上でかちりと懐古時計が音を鳴らす。たったそれだけのことだ。
けれど気付けば胸がいっぱいになって、ラナの目から涙が
「ちょ、ラナ……!?」慌てたようにエドが顔を覗き込んだ。「ご、ごめん。何か嫌なことを、」
「ううん、違う。違うよ」
ラナは泣き笑いしながら首を横に振った。
「思った以上にほっとしただけ。エドに嫌われなくてよかった、って思ったの。それがすごく嬉しかったんだ」
エドがほんの少しばかり目を丸くして、やがて照れくさそうに視線を逸らす。十近く歳が離れているのに、このときばかりは同い年のように感じた。それがむず痒くて、暖かくて。
両腕で日記を抱きしめて、ラナは微笑む。その手の中で、懐古時計が穏やかに時を刻んだ。
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