4-2. 私も、そんな風に思えるでしょうか
かちかちと音を立てて、ラナはラジオのつまみを回した。
長雨を告げるアナウンサーの単調な声。時計台の開館百周年記念式典の予定について楽しげに話す二人のパーソナリティ。哀愁漂う旋律と共に紡がれるメロウな歌声。
君は、誰も信じてないんだろう。エドの声が蘇り、ラナはきゅっと唇を噛んだ。
ラジオの横に置かれた鍵を掴む。一夜明けても、アランの家の鍵は恐ろしいほどの魅力を持っていた。目を逸らして、逃げ出してしまいたい。そんなラナの身勝手な願いさえ、アランはきっと受け入れてくれるに違いない。
でも、それは本当に正しいことだろうか。
「……っ」
ことりと音を立てて鍵がテーブルに落ちた。ラナは力なくベッドに身を沈める。こんな状況になっても決めきれない自分が情けなかった。弱い。弱いんだ、自分は、本当に。
玄関で呼び鈴が鳴った。ラナは鼻をすすりながら玄関へ向かう。目を乱暴にこすって扉を開けた。
そして目を丸くする。
「マリィ、さん……」
「おはよう、ラナちゃん」
額の汗をぬぐいながら、にこりとマリィが微笑む。今日も今日とて、胸元のさらしを惜しげもなくさらし、白のコートを羽織っていた。腰元には剣だ。
まさかこれをつけて街中を歩き回っていたのだろうか。ラナが眉をひそめる中、マリィは雨に濡れた傘を地面につきながら家の中を覗き込んだ。
「なぁ、エド達はここにいるか?」
「エドなら、朝早くに出ていきましたけど」
「んー? そっか……テオもいねぇし、てっきりここにいると思ったんだけどな……」
「あの」ラナはじろと睨んだ。「どうして家を知ってるんですか?」
「なんでって、そりゃあエドが教えてくれたから」
「……会って三日しか経ってないのに?」
呟いた声は、自分のものとは思えないほどに硬い。一拍置いてラナは我に返った。八つ当たりなんて、すべきじゃない。
なんとか笑顔を取り繕って、マリィの方を見やる。
「すみません、マリィさん。何か伝言とかあったら伝えておきますよ」
「…………」
返事がない。不審に思ってマリィをのぞきこめば、彼女は何故か顔をうつむけていた。浅く呼吸し、胸元を押さえている。
ラナは眉をひそめる。
「マリィ、さん?」
「……わり、ちょっとたんま……」
「え……!?」
ぽつと呟いたマリィの体が、ぐらりと傾いだ。ラナはとっさに手を伸ばしたが、自分よりも背の高い彼女を受け止めきれずに地面に座り込む。
「ちょ、ちょっと……! どうしたんですか!? マリィさん!」
「…………」
「マリィさん!」
名前を読んで何度か揺さぶってみるものの、マリィの反応は芳しくなかった。呼吸は早く、脂汗の浮いている額はひどく冷たい。
尋常ならざる様子にラナは顔を青くした。風邪だろうか。けれどそれにしては急に体調が悪くなった気がする。
それとも何かに襲われた? 例えば共喰い、だとか? 怪我こそないように見えるけれど、でも。
空回りする思考が、どんどん悪い方へと想像を膨らませていく。それを断ち切ったのは、二人目の来訪者だった。
「まぁまぁ! これは大変……!」
心配そうな声にラナは顔を跳ね上げる。老婦人だった。灰色のワンピースを来て、白髪を頭頂部でゆるく
見覚えのある顔だった。そうだ、一ヶ月前にエドへ機械修理の依頼に来た客だ。名前はたしか。
「タチアナ、さん……」
ラナの情けない声に、タチアナは顔に刻まれた皺を深くした。
「ラナちゃん、だったかしら。申し訳ないけど、電話を貸してくださる? ヒル先生に診察をお願いしましょう」
*****
「いやぁ、ごめんごめん。まさか、こうも急に体調が悪くなると思わなくてさぁ」
それから数十分後、小さな診療所に、マリィのあっけんからんとした声が響き渡った。
ラナとタチアナ、それにヒルは揃って顔を見合わせる。ベッドに横たわるマリィがぱちりと目を瞬かせた。
「あれ、なんかまずかった感じ?」
「いや、まずいっていうか……元気なのは何よりだと思うんですけど……」ラナはそろりと口を開いた。「体調が悪そうだったわりには、急に元気になりました、よね……?」
「あー、そういうことか」
マリィは申し訳無さそうに肩をすくめた。
「いや、驚かせてごめんな? 持病でさぁ、昔っからよくあるんだよなー。ちょっと休憩したらすぐ治るから、全然問題はねぇんだけど」
「あまり病気をなめちゃいけないですよ、お姉さん」
癖のある赤毛を揺らして、ヒルがため息をついた。ずれ落ちた丸眼鏡をかけ直しながら、手元の電子端末に表示されたカルテを見やる。
「気を失ってる間に聴診させてもらいましたけど、心雑音がひどかったですよ? 持病って心疾患なんでしょう。それも昔からってことは、重大な疾患の可能性が高い。一度大きな病院……それこそ、
「うっ……そういわれてもなぁ……入院生活って、どうにも好きになれなくて……体動かすのが好きっていうか」
「何事も、命あっての
マリィはバツの悪そうな顔をした。タチアナが頬に手を当てて、ゆったりと微笑む。
「まぁまぁ。ヒル先生も、あまり病人をいじめては駄目よ。まずは何事もなくて一安心、でしょう?」
「そうは言いますけどね、タチアナさん。僕はこれでも医者なんですから、ちゃんと解決策を、」
「そういえば、そろそろ往診の時間じゃなくて?」
タチアナの穏やかな一言に、ヒルはぴたりと口を閉ざした。壁に掛けられた時計を見上げ、何度か口を開け閉めしてから立ち上がる。
「……そうですね、タチアナさんの仰るとおり」
「ふふ。気づけてよかったわ。今日はアイシャちゃんと一緒に回るんでしょう? 診療室の机の上にクッキーがあるから、持っていってくださいな」
「なんか良いように丸め込まれてる気がするんだよなぁ……」
「あらまぁ。私がそんなことするわけないでしょう? マリィさんに何かお出しする薬はある?」
「それならここに……あ、そうだ。僕がいないからって、くれぐれも奥の部屋まで掃除しないでくださいよ?」
「分かってますとも」
タチアナは、さりげなくヒルの背中を押しながら部屋から出ていった。
扉が閉まる。小雨がぱたと窓を叩いた。ラナが居心地悪く身動ぎすれば、マリィが目元を緩める。
「いやいや、助かったよ。いくら待ったら回復するったって、ぶっ倒れて雨に打たれるのは流石にきつかったし」
マリィのまっすぐな視線に、ラナは少し目をそらした。
「お礼は、タチアナさんとヒル先生に言ってください」
「うん?」
「……私は、びっくりしてるだけで何もできなかったので」
「ラナちゃんが家にいなかったら、私はあそこでぶっ倒れたままだっただろ?」
「それはただの結果論じゃないですか」
「でも、事実だ」マリィはにこりと笑った。「ほらやっぱり、あんたも私の命の恩人ってわけだな! どうもありがとう!」
疑いなど
「……マリィさんは、変ですね」
「ん? 変ってのは?」
「だって、会って数日も経ってないのに」
「あ。距離の詰め方が変ってか?」マリィはおかしそうに笑った。「それはテオにもよく言われるなぁ、うん。でも、なんだろな。私の勘ってよく当たるんだよ。あんたは良い子だって、最初に会った時に思ったもの。だから、あんたを信じたわけ」
「信じる、なんて」
震えそうになる拳を、ラナは膝の上でゆるく握った。言葉がうまく続かない。何かを話さなきゃと、思うのに。
「痛っ……!?」
そこで、額に鋭い痛みが走った。額を押さえて顔を上げれば、いつの間にか目の前まで来ていたマリィが満足げにうなずく。
「よしよし、ちゃんと前を向いたな」
「ちょっと……! いきなり何するんですか…!」
「うつむくのは良くないぞ」
「は?」
「それくらいだったら、誰かに吐き出して八つ当たりする方がよっぽどいい。気分もすっきりするしな。私なんかテオにしょっちゅうしてるもん」
「……そんなこと、出来るわけないじゃないですか」ラナは刺々しく呟いた。「だって、嫌われる、でしょう」
マリィはぱちりと目を瞬かせた。無造作に頬を掻くことしばし。
「まぁ、うん。嫌われるかもな」
あっさりとマリィはうなずいた。ほらやっぱり。ラナが渋面を作る中、マリィはゆったりと言葉を続ける。
「でも、だからって、私が相手のことを嫌いになるわけじゃない」
ラナは目を瞬かせた。
「どういう、ことですか」
「そのままの意味だよ。私が相手のことを好きだって思うのは、私の自由ってこと。相手が私のことを嫌いって思うのと同じくらいに」
「……それは、でも、寂しくないんですか。だって、みんなから嫌われるかもしれない」
「たとえそうだとしても、私の気持ちは誰にも変えられないさ。いいかい? 限りある人生の中で、好きだと……信じたいと想える相手に出会って、その人のために生きられる。こんなに幸せなことはないんだよ」
ラナは唇を引き結んだ。マリィの強さの一端に触れた気がした。それに惹かれもした。
でも、自分は。
それでも、自分は。
「私も……」ラナはのろのろと口を開いた。「私も、そんな風に思えるでしょうか。マリィさんみたいに強くなくても……?」
「ははっ、私は強くなんてないさ。いっつも助けてもらってばっかりだし。でもそれで良いじゃないか。世界は思った以上に厳しいけれど、それと同じくらい、思った以上に私達に優しいもの」
なぁ、ラナちゃん。そう言って、マリィは優しい表情でラナの頭を撫でる。
「完璧なんかじゃなくても、案外周りは私達のことを愛してくれるものだよ」
*****
しまった、と思った時には遅かった。
自分と同じ、黒灰色の目に涙が浮かぶ。震える喉が弱々しい拒絶の声を紡ぐ。たったそれだけで、彼女自身が、彼女の弱さに気づいていることを知る。
静かな公文書館に、無数の電子端末を所蔵した書棚が整然と並ぶ。その間に設けられた暗く細い廊下を歩きながら、エドは目を曇らせて己を否定した。
彼女の反応を、初めて知るわけじゃないだろう。理解していたはずだ。世界は繰り返された。そして新しい世界であっても、彼女は確かに彼女のままだった。良きにしろ、悪きにしろ。
変わったのは、自分の方だ。考えが一向にまとまらない。彼女を守りたい。あんな顔をさせたいわけじゃない。死なないで。ただ側にいて。それとも、いっそ閉じ込めてしまえばいいのか。何もかもを隠して。そうすれば、彼女を守ることが出来る?
でも、けれど、そんなことをしたって。
――君に、彼女は救えない。
前の世界で、アランの放った言葉が唐突に蘇った。別の文書が入った新しい電子端末を掴んだエドは、動きを止める。
棚奥では、端末の充電を示す表示灯がしきりに瞬いていた。窓の外からは雨音が聞こえる。不甲斐なさが蘇り、指先が白くなるほど強く電子端末を握る。
その端末はしかし、不意に横合いから伸びてきた手に奪われた。のろのろと顔を上げれば、呆れ顔のテオドルスが端末を揺らす。
「おうおう、随分しけた面してんな」
「からかいに来たんですか。テオ先ぱ……テオさん」掠れた声で言い直して、エドは視線を落とす。「そんな暇ないはずでしょう。共喰いと
「可愛げねぇやつ。心配してきてやったんじゃねぇか」
「ただの邪魔です」
「この端末、一時間前にお前が読んだやつだぜ」
ご丁寧にもテオドルスが表示してみせた文書には確かに見覚えがある。エドは伸ばしかけていた手を止め、頬の内側を噛んだ。
テオドルスが肩をすくめる。
「真面目に資料を探せ、っつーなら、お前がまずその上の空をなんとかしろよな」
「上の空の、つもりは」
「へいへい、じゃあなんだ。考え事か? ともかく、なんかで悩んでるんだろ」
テオドルスが無造作に棚に背を預ける。進路を邪魔されて、エドは息をついた。
「……ちょっとした喧嘩です。同居人と。それだけですよ」
「同居人っつーと、あれか。ラナちゃんか」
「なんで名前を知ってるんですか」
「露骨に嫌そうな顔すんなよ。マリィが騒いでたのを聞いただけだって」
「騒ぐって」
「あの子は良い子そうな気がする! って叫んでた」
テオドルスがうんざりしたようにぼやく。その光景が目に浮かぶようだ。学術機関の研究室にいた頃は、そんなやりとりなんてしょっちゅうだった。
懐かしさと一抹の寂しさとともに、エドは思わず笑みを漏らす。
「……相変わらずですね、先輩は」
「まー、出会って数日のお前に言われるんだから、
やれやれと息をつき、テオドルスは
「あんまり思いつめねぇ方がいいぞ。喧嘩の理由なんて、他から見たら大抵はどうでもいいもんだ」
「いつもなら、そうでしょうね」
「なんだ、嫌味っぽい言い方だな」
「今回はいつもと違うってことです」
「違うって、どう?」
「ちょっと言い過ぎたかな、と」
「ずいぶんとまぁ、お行儀の良い反省じゃねぇの」
エドはテオドルスを睨んだ。されど彼は、気にした風もなく肩をすくめる。
「こりゃ、やっぱり喧嘩の理由も大したことねぇわな」
「あんたに何が分かるんですか」
「ラナちゃんのことが大切だから、言い過ぎたんだろ。じゃあ、いつもと変わらないじゃねぇか。大切だから一緒に過ごして、大切だから喧嘩もするんだ。違うか?」
「……それは……」
「まぁ、良いんじゃねぇの。言わずに後悔すんなら、言って後悔した方がいい。大切にしたいのなら、なおのことな」
テオドルスがぽつりと呟いた。何気ない一言は、雨音とともにエドの胸にじわりと染みる。
ややあって、テオドルスは何かを追い出すように深緑色の目を何度か瞬き、にやっと笑った。
「というわけで、だ。以上が先輩からの
「……俺とあんたじゃ、年齢は変わらないでしょう」
「またまた。エドの方が、ちょいちょい俺とマリィのことを先輩って読んでるんだろ」
図星をさされ、エドは閉口する。けれどそれも長くは続かなかった。変わらず得意げな顔をするテオドルスに、ややあってエドは小さく吹き出す。
テオドルスが顔をしかめた。
「おい、エド? 今笑うところじゃなかったよな?」
「すみません。ガキみたいに生意気な顔をしてたので、つい」
「褒めてないよな、それ!?」
テオドルスがさらに不満を並べようとする。その矢先、廊下の先からロウガの呼ぶ声がした。
揃って顔を向ければ、ロウガが息を切らして近づいてくる。
「一週間後に、
「は?」テオドルスが眉をひそめた。「三機関会議って、先月あったばかりじゃねぇか」
「あぁそうさ、その通りだ。テオドルスさん。本来なら、こんなに早く開催されるわきゃねぇ」
ロウガは湿った髪の毛をうっとうしそうに掻いた。しけた煙草の臭いが漂う。
「だがな、サブリエの市長……カディル伯爵から言い出したらしいんだよ。なんでも、新しい
「共喰いを使って狩るってことですか」
顔を歪めてエドが呟けば、ロウガが神妙な面持ちでうなずいた。
得体のしれない嫌な予感に、エドは口元に手を当てる。
「……これまでは、共喰いの存在をカディル伯爵が公にすることはなかった。ですよね」
「あぁそうだとも」ロウガがメモ代わりにしていた己の端末を確認しながら頷く。「先月の三機関会議の時も、とりあえず現状維持で、っつー当たり障りのない結論だったからな」
「それが、急に事態が動こうとしてる。ということは、何かがあったんでしょうが……」
「例えば、共喰いを安定して制御できるようになった、とかか?」
テオドルスがぼそりと呟けば、ロウガが顔を引きつらせた。
「おいおい、つまりなんだ?
「ありえない話じゃない」テオドルスは苦い顔で応じた。「共喰いを運用する上での一番の問題点は制御だった。それを解決する技術が開発されたんなら、いよいよもって、共喰いを兵器として利用できる」
エドの腹の底にひやりと冷たいものが落ちた。共喰い――人工的に創られた懐古症候群の制御。
特定の波長の音を聞かせると、懐古症候群を制御することが出来る。それを発見したのは誰だったか。
急速に干上がっていく喉を、エドはなんとか動かした。
「カディル伯爵の協力者は、本当に一人だと思いますか」
ロウガが
「ああん? どういうことだってんだ? エドワードさん」
「協力者が複数いる可能性を考慮すべきでは、ってことです」
エドは二人を見渡した。
「悪魔を喚ぶのは、魔術師にしか出来ないでしょう。けれど、共喰いの……懐古症候群という疾患の制御ならば魔術師でなくても可能だ」
例えば、懐古症候群を制御する術を知る人物が、最近になってカディル伯爵に協力したとするならば?
エドの放った疑問に呼応するように、棚奥で電子端末の充電灯が不穏に瞬いた。
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