4-1. だから俺は、君を信じられないんだ

「……なに、これ」


 蒼白な顔でラナが呟いた声は、湿った空気に鈍く響いて消え失せた。


 雨音響く寝室で、ラナはなんとか息を吐き出した。手元に目を落とす。一冊の日記が、ベッドサイドのくすんだ明かりに照らされていた。


 くだんの日記だ。見も知らぬ少女の日記。アランという名の男が出てくる物語。そう、物語だ。しょせんは。アランという名前も、シェリルという名前も出てきたけれど、単なる偶然だと思っていた。そのはずだった。


 なのに、今読んだばかりのページにつづられていたのは、アイシャとヴィンス、それにエドの名前だ。


 ――ねぇ、あなたはあの日記をどこまで読んだの。


 先程別れたばかりの、エドナの嘲笑ちょうしょうが響く。ラナは身震いした。夏の盛りだというのに、震えが止まらない。そのくせ、てのひらはじっとりと汗をかいている。


 閉じた日記をもう一度見つめた。恐ろしくてならなかった。日記の中の誰も彼もが、今と随分性格が違うようだった。それでも、容姿はそのまま、今の彼らそのものだ。偶然で片付けるには、あまりにもできすぎている。


 ならば、この日記はなんだ。これは何を書いたものなんだ。


 ラナは震える指先を伸ばした。閉じた日記を再び開く。掠れた文字へ、目を落とした。


=============


9月10日

 アイシャと共に懐古症候群トロイメライを追いかけた。彼女はキセキの魔女で、懐古症候群の居場所が分かるのだという。実際、そのとおりだった。彼女の言うとおりに懐古症候群は現れて、それをアイシャは軽々と倒してみせた。


 そして私は、肝心なところで役立たずだった。いつものように。


 ……私は。


 私は、たぶん、おかしいのだ。ヴィンスさんの言うとおり、何かが歪んでいる。アイシャの言うとおり、主体性がない。私は。


 皆を助けなきゃって、ずっと思ってる。でも、どうしてそう思っているのか、答えを見つけられないんだ。


 養父とうさん。アラン。私はきっと、あなたに全て打ち明けてしまうべきなのでしょう。そうすればきっと、あなたは優しく笑ってくれるだろうから。大丈夫と抱きしめてくれるんだろうから。


 でも、もしもそうじゃなかったら? こんなに薄っぺらくて奇妙な私を知って、彼が私のことを嫌いになってしまったら? そう思うだけで、私はあなたに相談する勇気だってもてないんだ。


 私は、弱い。弱くてちっぽけで守られてばかりで。だからそれを、隠さなくちゃ。誰に嫌われることもないように。あなたに愛想を尽かされてしまわないように。恋人になれないならば、せめて、あなたにとっての良き娘でいなくては。



 私が歪だってことくらい、私が一番よく知ってるんだから。



=============


「なにしてるんだ」


 低く鋭い声に、ラナは凍りついた。


 取り上げられた日記を追いかけて、顔を上げる。自分を見下ろすエドと目があった。彼の表情は張り詰め、黒灰色の目だけが照明の届かぬ暗闇でぎらぎらと光っている。

 エドが呻くように呟いた。


「どうして、これを読んでいるんだ?」

「……返して」

「これは君のものじゃない」

「エドの、ものでもないだろ」


 ぽつりと漏らした反論に、エドの眉根が強く寄った。苛立たしげに息を吐き、その場からきびすを返す。


 ラナは勢いよく立ち上がった。


「待って! 話は終わってない!」

「始まってもない」エドは感情のこもらぬ声で切り捨てた。「まさか、こんなにも君にデリカシーがないだなんて思わなかった。他人の部屋に勝手に入り込むなんて」

「それは、悪かったって思ってるけどっ……!」

「反省してるなら、とっとと出ていってくれないか」

「その日記は、なんなの!?」


 必死に伸ばしたラナの手が、エドの服の裾をとらえる。ドアノブに手をかけた彼が動きを止めた。


 静寂が落ちた。雨音が絶え間なく響いている。車の行き交う音と警笛サイレンの音が、ざらりと空気をかき混ぜた。


 ややあって、エドがのろのろと口を開く。


「……ただの、日記だ。それだけだ」

「嘘だ」ラナは掌に力を込めた。「そんなはずない。その日記に、皆の名前があったんだ。アランも、アイシャも、シェリルも……それに、エドの名前だってあった」

「偶然だ」 

「偶然じゃないってば!」

「じゃあ、仮に偶然じゃなかったとして? だからなんなんだ?」


 硬い声と共に、エドが振り返った。黒灰色の目がかすかに揺れ、そんな己をいさめるように彼は語気を強める。


「ここに書いてあることが真実だとしても、君には関係ないだろう。これは日記だ。全部終わったことなんだ」

「っ、でも、そこにはアランのことが書いてあるじゃないか」

「あいつのことなんて、どうでもいいだろう」

「よくないよ!」


 エドの視線が険しくなる。ラナは懇願するように彼を見上げた。


「さっき、エドナさんに会ったんだ。あの人、アランが共喰いを創ったんじゃないかって疑ってるんだよ。それを晴らさなくちゃいけないんだ。そのためには、彼のことを知らないと」

「知って? それであの男を助けるっていうのか?」


 感情のこもらぬ声は、ひどく暗く、乾いていた。それに、ラナは思わず怯んだ。彼女が見つめる先、エドの目は、恐ろしく冷え切っている。


「馬鹿らしい、馬鹿らしいよ、ラナ。君は共喰いについて誰も疑いたくなかったんだろう。なのに結局、君はアランを疑うわけだ。その分だと、どうせ他の人も疑ってるんじゃないか」

「そ……んなことない。私は……ちゃんと皆のことを信じて……」

「その言葉が、一番信用ならないんだ!」

「っ……!?」


 怒声を上げたエドが、乱暴にラナの腕を掴んだ。抵抗する間もなかった。


 エドが、ラナを壁に思い切り押し付ける。したたかに背中を打ち、彼女は思わず息を漏らした。


 鈍い音をたてて、足元に日記が落とされる。そしてエドは、限界まで張り詰めた瞳

を歪めて吐き捨てた。


「言い聞かせてるだけだろう! 君は! 自分が誰かを信じているって!」


 ラナは凍りついた。言葉が喉奥に詰まって出てこなくなる。心臓がひときわ鋭く脈打って、息が止まる。


 掠れた声が、ラナの唇の隙間からかろうじて漏れた。


「……めて……」

「分かってるのか? 君は誰かを信じると言うくせに、心のなかではちっとも信じてないんだ! 誰かのことも! 自分のことも!」

「や……」

「だから何でも一人でやろうとするんだろ!? 耳ざわりの良い言葉ばかりを並べて、綺麗事しか信じてない顔をしてさ!」

「やめ……て……っ」

「それで、勝手に救って、勝手に背負って、勝手に死ぬのか? 誰も信じてないくせに、誰も彼もを信じてる顔をして? ふざけんなよ! ふざけるな! それが傲慢ごうまんだって、いい加減に気づけよ……!」

「やめてっ……!」


 引きれた声を上げたラナのまなじりから、ぼろと涙がこぼれた。エドが大きく息を吸い、握った拳を壁へ打ちつける。


 鈍い音が、響いて消えた。あとに残るのは雨音と静寂で。


「だから俺は、君を信じられないんだ」


 うなだれたエドが、ぽつりと呟く。そうして彼は手を離し、日記を拾い上げて部屋を出ていった。


 取り残されたラナは、ずるずるとその場に座り込んだ。

 ぽつんと灯った明かりから逃れるように、ラナは背中を丸める。こぼれた涙が己の腕を濡らす。それが鬱陶しかった。みっともないと思った。こんなことで泣くなんて。


 だって、エドの言っていることは全部真実だ。


 信じるのは怖い。裏切られたら、息なんてできなくなってしまう。立ち直ることなんて、できなくなる。だから信じているふりして、どんな問題だって、全部自分の力で解決したいんだ。そうして、皆を信じてるって、思いこみたいんだ。何も困ったことなんてないから、って。


 なのに、現実の自分は、何一つ上手くできやしない。誰かを守る力がない。誰かを心配させないだけの器量だってない。


 湿った空気が、どろりと喉に絡みつく。ラナはか細い息を吐く。耳をふさぐ。目をつぶる。雨の音が変わらず空気を濡らしている。世界は暗い。それが嫌で。逃げ出したくて。


 ――さらわれたくなったら、いつでも来なさい。


 蘇った柔らかな声に押されるまま、ラナはすがるようにズボンを弄り、鍵を握る。


 あるはずのない煙草と香水の香りが鼻先を掠めた。それがほんの少しだけ、彼女を雨から遠ざける。



 *****



 夜を迎えた路地裏で、硝子ガラスの破片をこすったような音が響いた。

 傘を差しだした黒い影は、雨に濡れた体を震わせる。


「――魔女よ。また一人、悪魔が死んだぞ」


 枯れ木のうろを渡る風のような声で、黒い影がささやいた。


 その影は黒いフードを頭から被る。それは人の形を成している。なれど、人ならざる巨体だった。フードの奥に見えるは闇夜よりも黒い眼のみであり、傘を差し出す腕は枯れ木のように細い。


 それをしかし、エドナはおくすることなく従える。己が契約した悪魔の一柱に傘をもたせたまま、彼女は懐から小瓶を取り出した。無数のひびが入った空瓶を一瞥し、無造作に放り投げる。


「あらあら残念。あの子も随分可愛らしい悪魔だったけれど」粉々に砕け散った瓶の破片を踏んで、エドナは肩をすくめた。「まぁいいわ。おかげで、こちらも種をまくことができたもの」

「ラトラナジュ・ルーウィに、であろう。だが、あんなもので良いのか? かの悪魔を止めるにはいささ心許こころもとない」

「まさか。彼女こそ、あのエセ魔術師の唯一にして最大の欠点だわ」

「我は方法について疑義を呈している。最も効果的な方法はラトラナジュを殺害することだ。違うか?」

「いやねぇ、そんなことをしようものなら、すぐにあの男が感づくわよ」

「説明を求む」


 淡々とした悪魔の声に、エドナは肩をすくめた。降り止まぬ雨を眺めながら、ピンヒールで石畳を鳴らす。


「ラトラナジュに危害を加えようものなら、こっちがやられるの。そんな面倒はまっぴらごめんじゃない。となれば、あの小娘には自らの意思で死んでもらわなくてはね」

「そのわりには、助言をしていただろう。日記は、かの悪魔の正体を知る手がかりに他ならない」

「あの日記を読もうが読むまいが、その事自体に意味はないわ」エドナはせせら笑った。「肝心なのは彼女の心に不信の種を入れてあげること。お姫様の心は繊細で脆いもの。あとは放っておけば、いずれ収穫の時がくるわ。いつもと同じように」


 めぐる世界に思いを馳せながら、エドナはうっすらと笑む。ラトラナジュに同情する気持ちがないわけではない。されど、仕方のないことだ。


 自分の守るべきものは別にある。アラン・スミシーがそれを害すと言うのなら、自分は全ての策をもってして、かの男を排除するだけだ。


 魔術というものは単純で、何かを犠牲にして成立する。

 幸せも、平穏も。犠牲なしに手に入れることなんてできないのだから。


「ごめんなさいね」


 そううそぶく、エドナの言葉は雨に紛れて消え失せた。

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