4-1. だから俺は、君を信じられないんだ
「……なに、これ」
蒼白な顔でラナが呟いた声は、湿った空気に鈍く響いて消え失せた。
雨音響く寝室で、ラナはなんとか息を吐き出した。手元に目を落とす。一冊の日記が、ベッドサイドのくすんだ明かりに照らされていた。
なのに、今読んだばかりのページに
――ねぇ、あなたはあの日記をどこまで読んだの。
先程別れたばかりの、エドナの
閉じた日記をもう一度見つめた。恐ろしくてならなかった。日記の中の誰も彼もが、今と随分性格が違うようだった。それでも、容姿はそのまま、今の彼らそのものだ。偶然で片付けるには、あまりにもできすぎている。
ならば、この日記はなんだ。これは何を書いたものなんだ。
ラナは震える指先を伸ばした。閉じた日記を再び開く。掠れた文字へ、目を落とした。
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9月10日
アイシャと共に
そして私は、肝心なところで役立たずだった。いつものように。
……私は。
私は、たぶん、おかしいのだ。ヴィンスさんの言うとおり、何かが歪んでいる。アイシャの言うとおり、主体性がない。私は。
皆を助けなきゃって、ずっと思ってる。でも、どうしてそう思っているのか、答えを見つけられないんだ。
でも、もしもそうじゃなかったら? こんなに薄っぺらくて奇妙な私を知って、彼が私のことを嫌いになってしまったら? そう思うだけで、私はあなたに相談する勇気だってもてないんだ。
私は、弱い。弱くてちっぽけで守られてばかりで。だからそれを、隠さなくちゃ。誰に嫌われることもないように。あなたに愛想を尽かされてしまわないように。恋人になれないならば、せめて、あなたにとっての良き娘でいなくては。
私が歪だってことくらい、私が一番よく知ってるんだから。
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「なにしてるんだ」
低く鋭い声に、ラナは凍りついた。
取り上げられた日記を追いかけて、顔を上げる。自分を見下ろすエドと目があった。彼の表情は張り詰め、黒灰色の目だけが照明の届かぬ暗闇でぎらぎらと光っている。
エドが呻くように呟いた。
「どうして、これを読んでいるんだ?」
「……返して」
「これは君のものじゃない」
「エドの、ものでもないだろ」
ぽつりと漏らした反論に、エドの眉根が強く寄った。苛立たしげに息を吐き、その場から
ラナは勢いよく立ち上がった。
「待って! 話は終わってない!」
「始まってもない」エドは感情のこもらぬ声で切り捨てた。「まさか、こんなにも君にデリカシーがないだなんて思わなかった。他人の部屋に勝手に入り込むなんて」
「それは、悪かったって思ってるけどっ……!」
「反省してるなら、とっとと出ていってくれないか」
「その日記は、なんなの!?」
必死に伸ばしたラナの手が、エドの服の裾をとらえる。ドアノブに手をかけた彼が動きを止めた。
静寂が落ちた。雨音が絶え間なく響いている。車の行き交う音と
ややあって、エドがのろのろと口を開く。
「……ただの、日記だ。それだけだ」
「嘘だ」ラナは掌に力を込めた。「そんなはずない。その日記に、皆の名前があったんだ。アランも、アイシャも、シェリルも……それに、エドの名前だってあった」
「偶然だ」
「偶然じゃないってば!」
「じゃあ、仮に偶然じゃなかったとして? だからなんなんだ?」
硬い声と共に、エドが振り返った。黒灰色の目が
「ここに書いてあることが真実だとしても、君には関係ないだろう。これは日記だ。全部終わったことなんだ」
「っ、でも、そこにはアランのことが書いてあるじゃないか」
「あいつのことなんて、どうでもいいだろう」
「よくないよ!」
エドの視線が険しくなる。ラナは懇願するように彼を見上げた。
「さっき、エドナさんに会ったんだ。あの人、アランが共喰いを創ったんじゃないかって疑ってるんだよ。それを晴らさなくちゃいけないんだ。そのためには、彼のことを知らないと」
「知って? それであの男を助けるっていうのか?」
感情のこもらぬ声は、ひどく暗く、乾いていた。それに、ラナは思わず怯んだ。彼女が見つめる先、エドの目は、恐ろしく冷え切っている。
「馬鹿らしい、馬鹿らしいよ、ラナ。君は共喰いについて誰も疑いたくなかったんだろう。なのに結局、君はアランを疑うわけだ。その分だと、どうせ他の人も疑ってるんじゃないか」
「そ……んなことない。私は……ちゃんと皆のことを信じて……」
「その言葉が、一番信用ならないんだ!」
「っ……!?」
怒声を上げたエドが、乱暴にラナの腕を掴んだ。抵抗する間もなかった。
エドが、ラナを壁に思い切り押し付ける。したたかに背中を打ち、彼女は思わず息を漏らした。
鈍い音をたてて、足元に日記が落とされる。そしてエドは、限界まで張り詰めた瞳
を歪めて吐き捨てた。
「言い聞かせてるだけだろう! 君は! 自分が誰かを信じているって!」
ラナは凍りついた。言葉が喉奥に詰まって出てこなくなる。心臓がひときわ鋭く脈打って、息が止まる。
掠れた声が、ラナの唇の隙間からかろうじて漏れた。
「……めて……」
「分かってるのか? 君は誰かを信じると言うくせに、心のなかではちっとも信じてないんだ! 誰かのことも! 自分のことも!」
「や……」
「だから何でも一人でやろうとするんだろ!? 耳ざわりの良い言葉ばかりを並べて、綺麗事しか信じてない顔をしてさ!」
「やめ……て……っ」
「それで、勝手に救って、勝手に背負って、勝手に死ぬのか? 誰も信じてないくせに、誰も彼もを信じてる顔をして? ふざけんなよ! ふざけるな! それが
「やめてっ……!」
引き
鈍い音が、響いて消えた。あとに残るのは雨音と静寂で。
「だから俺は、君を信じられないんだ」
うなだれたエドが、ぽつりと呟く。そうして彼は手を離し、日記を拾い上げて部屋を出ていった。
取り残されたラナは、ずるずるとその場に座り込んだ。
ぽつんと灯った明かりから逃れるように、ラナは背中を丸める。こぼれた涙が己の腕を濡らす。それが鬱陶しかった。みっともないと思った。こんなことで泣くなんて。
だって、エドの言っていることは全部真実だ。
信じるのは怖い。裏切られたら、息なんてできなくなってしまう。立ち直ることなんて、できなくなる。だから信じているふりして、どんな問題だって、全部自分の力で解決したいんだ。そうして、皆を信じてるって、思いこみたいんだ。何も困ったことなんてないから、って。
なのに、現実の自分は、何一つ上手くできやしない。誰かを守る力がない。誰かを心配させないだけの器量だってない。
湿った空気が、どろりと喉に絡みつく。ラナはか細い息を吐く。耳をふさぐ。目をつぶる。雨の音が変わらず空気を濡らしている。世界は暗い。それが嫌で。逃げ出したくて。
――さらわれたくなったら、いつでも来なさい。
蘇った柔らかな声に押されるまま、ラナは
あるはずのない煙草と香水の香りが鼻先を掠めた。それがほんの少しだけ、彼女を雨から遠ざける。
*****
夜を迎えた路地裏で、
傘を差しだした黒い影は、雨に濡れた体を震わせる。
「――魔女よ。また一人、悪魔が死んだぞ」
枯れ木の
その影は黒いフードを頭から被る。それは人の形を成している。なれど、人ならざる巨体だった。フードの奥に見えるは闇夜よりも黒い眼のみであり、傘を差し出す腕は枯れ木のように細い。
それをしかし、エドナは
「あらあら残念。あの子も随分可愛らしい悪魔だったけれど」粉々に砕け散った瓶の破片を踏んで、エドナは肩をすくめた。「まぁいいわ。おかげで、こちらも種をまくことができたもの」
「ラトラナジュ・ルーウィに、であろう。だが、あんなもので良いのか? かの悪魔を止めるには
「まさか。彼女こそ、あのエセ魔術師の唯一にして最大の欠点だわ」
「我は方法について疑義を呈している。最も効果的な方法はラトラナジュを殺害することだ。違うか?」
「いやねぇ、そんなことをしようものなら、すぐにあの男が感づくわよ」
「説明を求む」
淡々とした悪魔の声に、エドナは肩をすくめた。降り止まぬ雨を眺めながら、ピンヒールで石畳を鳴らす。
「ラトラナジュに危害を加えようものなら、こっちがやられるの。そんな面倒はまっぴらごめんじゃない。となれば、あの小娘には自らの意思で死んでもらわなくてはね」
「そのわりには、助言をしていただろう。日記は、かの悪魔の正体を知る手がかりに他ならない」
「あの日記を読もうが読むまいが、その事自体に意味はないわ」エドナはせせら笑った。「肝心なのは彼女の心に不信の種を入れてあげること。お姫様の心は繊細で脆いもの。あとは放っておけば、いずれ収穫の時がくるわ。いつもと同じように」
自分の守るべきものは別にある。アラン・スミシーがそれを害すと言うのなら、自分は全ての策をもってして、かの男を排除するだけだ。
魔術というものは単純で、何かを犠牲にして成立する。
幸せも、平穏も。犠牲なしに手に入れることなんてできないのだから。
「ごめんなさいね」
そう
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