3-3. さらわれたくなったら、いつでも来なさい


 雨に濡れる空気に、華やかな香りが広がる。シェリルの営む香水屋、そのカウンターに腰掛けたラナは、ぐるりと部屋を見渡した。ほんの少し照明の落とされた店内には、掌に収まる大きさの香水瓶が慎ましやかに置かれている。


「というわけで、今日あなた達の意見を聞きたいのはこの子達よ」


 シェリルの言葉に、ラナは視線を目の前のカウンターに戻した。シェリルがカウンターの向こうから調合したての香水を並べている。全部で五本だった。細かな紋様が彫り込まれた小瓶には、それぞれの香水を染み込ませた紙製のタグがかけられている。


 ラナの隣に座ったアイシャが、神妙な面持ちで猫の人形の頭を動かした。


「この中から、ニャン太の好きなのを選べばいんですかにゃ? いつもみたいに?」

「そう。あぁでも、今日はあなた達二人をイメージして作ってみたの。お客さんの要望にあわせて香りを調合するっていうサービスをしたくて……だから、それぞれの意見を聞きたいってわけ。ラナはこっちの二本ね。柑橘系がベースの瓶と、薔薇の香りをベースにした瓶が一つずつだわ。で、こっちの三本はアイシャの分」


 アイシャの方はね。そんなシェリルの言葉を皮切りに、親友達がしきりに言葉をかわす。いつもとまるで変わらない穏やかな光景に、ラナはほんの少し安心しながら香水瓶を手にとった。


 ほらやっぱり、アイシャにやましいところなんてなにもない。あるはずがないんだよ。魔術師が懐古症候群トロイメライを悪用してるなんて、きっと何かの間違いなんだ。ラナは言い聞かせるように胸中で呟いた。


 それでもやっぱり、記憶の中のエドは強張った表情をしている。表面上はいくらでも取り繕えるさ。けれど、その裏側に何が隠れてるかは分からないだろう。


 アイシャも、アランも。


「……ナ、ラナ。どうしたんですにゃ?」


 横合いからニャン太の顔が飛び出してきて、ラナはびくと肩を震わせた。慌てて顔を上げ、ぎこちなく笑顔を浮かべる。


 シェリルが眉をひそめた。


「どうしたの、あんた。今日はずっと黙ってばっかりじゃない」

「そうかな」ラナは掌の香水瓶に目を落とした。「いつもこんな感じじゃないか」


 シェリルの視線が肌に刺さる。

 対照的だったのは、アイシャだった。ぴんときたように手を叩く。


「あ!分かりましたにゃ! さては恋の悩みですかにゃ? どきっ、同居人との禁断の恋の幕開け! ですにゃ!」


 ラナは苦笑いした。


「エドはそんなんじゃないってば」

「どうかしらね」

「ちょっと、シェリルまで何をいいだすんだい」

「ありえない話じゃないでしょう」シェリルがにやっと笑った。「そもそも、エドワードさんったら性格もいいし、ラナのことを大切にしてくれてるじゃない。あとはもう少しだけ身なりに気を使えれば完璧だけど。今どき、年の差カップルなんて珍しいものじゃないし、存外あんたが彼と付き合ってるって言っても、私は驚かな、」

「ほう、君は誰かと付き合っているのか。ラトラナジュ」


 店先に吊るされた鐘の音とともに、面白がるような男の声が飛んできた。ラナは飛び上がって振り返る。


 入り口に、濃紺色のスーツを着たアランが立っていた。目が合えば、輝石の魔術師は常と変わらない謎めいた笑みを浮かべる。


「こんにちは、ラトラナジュ」

「え、待って。仕事の時間はまだ、だよね……?」

「もちろんだとも。俺が偶然、仕事でこの辺りを通りがかっただけさ」


 ゆったりと近づいてきたアランは、ラナの前で膝をついた。彼のまとう退廃的な香りが鼻先をくすぐる。ラナが妙に胸をざわつかせれば、アランは香水瓶ごとラナの手をさりげなくとった。目を細めて、甘い笑みを浮かべる。


「それで? 君は一体誰と付き合っているんだ?」

「付き合ってる人なんかいないよ……!」

「本当に?」

「本当だってば!」


 ラナがこくこくと頷けば、アランの視線が緩まった。


「あぁ、それならば安心だ。まったくもって」アランは首をかしげ、香水瓶を見やった。「それにしても、君にそんなに可愛らしい趣味があったとは」

「こっ、これは趣味とかじゃあ、」

「そうよ。これはただの試作品」


 ぶっきらぼうなシェリルの相槌あいづちが飛んできた。隣では、アイシャがニャン太の影に隠れてアランへ警戒の眼差しを送っている。


 さすがに、その態度はどうなんだろう。ラナがはらはらとした視線を送る中、シェリルは不躾な視線をアランに注いだ。


「こんにちは、お客さん。扉の前には閉店の札をかけておいたはずだけれど?」

「ラトラナジュの姿が見えたのでね。意中の女性がいれば、気になってしまうのも当然というものだろう?」

「一方的に追いかけ回すのは意中とは言わないんじゃないの。ラナの雇い主さん」シェリルは冷ややかに言った。「とにかく、ラナは今忙しいの。用事なら、後にしてくださる?」

「そうなのか? ラトラナジュ」

「えっ、あっ……」


 シェリルの視線がきつくなる。それに首をすくめながらも、結局ラナはしどろもどろに口を動かした。


「その……香水の香りを選んでたんだよ。シェリルが私のために作ってくれたっていうから」

「君のための香水」アランがうっとりと呟いた。「なんて甘美な響きだろう。この香水瓶もそうなのか?」

「そっ、そうだよ……ええと、確かこれはオレンジの香りで……」


 おぼろな記憶を頼りに口を動かす。そんなラナを可笑しそうに眺めていたアランは、不意に目を細めてラナの手元へ鼻を寄せた。


 ラナはひゅっと息を飲む。彼の唇が手首を少しだけ掠めた。皮膚の下に、もどかしい熱がぽつんと灯る。思わず手をぎゅっと握れば、アランが小さく笑いながら顔を離した。


「良い香りだな。君に似合いの柑橘の香りだ」


 ラナは赤面した。シェリルは眉をひそめ、アイシャはニャン太を抱きしめる腕に、ますます力をこめている。


 もう一刻も耐えられそうになかった。ラナはおもむろに立ち上がると、アランの手を引く。わざとらしく驚く彼を無視して、ラナは親友たちに頭を下げた。


「ご、めん。今日はこのへんで……! また埋め合わせは必ずするから……!」


 ばたばたと店を飛び出した。アランが軒先に立て掛けていた傘を差してくれるのが憎らしい。その顔には笑みさえ浮かんでいた。ラナの慌てっぷりを楽しんでいるに違いなかった。


 ラナは文句の代わりに大きく息をつく。何を言ったって、彼に上手く言いくるめられる予感しかしなかった。まったくもって、いつものとおりに。


 あぁでも、そのいつものとおりさえ、大切なものなのだ。針の先ほどの感傷めいた気持ちを、水たまりを蹴ることで振り払う。


 アランのアパートに辿り着いたところで、時計台の鐘が鳴り始めた。軒先で傘を閉じたラナは、彼の右手に未だハンカチが巻かれたままであることに気がつく。


「手当、してないの」

「君からもらったものだから、大切にしたくてね」


 なぜか嬉しげなアランに、ラナはため息をついた。今日一番最初の仕事は傷の手当に違いない。


「包帯……とかはなさそうだね。今から買って、」

「あぁそれならある」

「あるの」

「おや、意外そうだな?」

「いやだって……そんな性格だから、包帯なんて無いと思ってた」


 アパートの鍵を開けながら、アランが可笑しそうに眉を上下させた。


「昔、一緒に住んでいた子が使ってたのさ。彼女も生傷が絶えなかったからね。さぁ居間で待っておいで。とってこよう」


 アランに背を押されるまま、ラナは家に上がる。そうして何歩か進んだところで振り返れば、アランが自室へ消えていくのが見えた。


 薄暗い廊下に、ラナはぽつんと取り残された。ふと目に飛び込んできたのは、アランの部屋の隣――決して入ってはいけないと、言われていた例の部屋だった。


 この向こうには何があるのだろう。ラナはぼんやりと扉を見つめた。彼との約束通り、部屋の中はついぞ見たことがない、けれど。


 彼女も生傷が絶えない子だったからね。先程のアランの言葉が蘇って、ラナの胸がささくれ立つ。そう、本当は考えるまでもないのだ。この家には、二人の人間が住んでいた痕跡がいたるところにあった。部屋だけじゃない。食器もタオルも、全て二組ずつある。


 そういう意味では、アランは自分に隠し事をしている――そう思いかけて、ラナはぎゅっと唇を噛んだ。馬鹿みたいだ。それとこれとは関係ない。


 意識して深呼吸し、扉から目を引き剥がした。居間に入り、ソファの端に腰掛ける。


 ほどなくして、アランが軽い足取りで戻ってきた。ジャケットを脱ぎ、麻のシャツの胸元を緩めた彼は、ラナを見て小さく笑う。


「もっとちゃんと座ればいい」

「そういう、わけにはいかないよ。あんたの家のものだもの」

「俺が座ってほしいんだよ」

「……善処は、するよ。今度から」


 ラナはしどろもどろに返しながら、アランから救急箱を受け取った。


 救急箱を開け、隣に座った彼の傷の手当をする。黙々と手を動かしながら、ラナは昨日のことを思い出した。


 香水と煙草と血の香り。雨の音と、マリィの言葉。


 共喰いは、悪魔と人間を混ぜて創る。不意に蘇った言葉に、ラナは瞳を曇らせた。アランは知っていたのだろうか。あれが共喰いだということを。あるいは共喰いの創り方を。


 包帯を巻き終えた手が止まる。アランがラナの顔をのぞきこんだ。


「何かあったのか?」

「別に、なにも」

「そういう顔には見えないな」アランは包帯の巻かれた手を、ラナの顎に添えた。「唇を噛むのは、君の悪い癖だ」


 なんだい、それ。そう言って笑い飛ばそうとして失敗した。

 中途半端に開いた唇を、彼の親指が撫でていく。何かを誘うような仕草に、ラナは後ろめたさを感じて身じろぎした。


「ねぇ、包帯は巻き終わったよ」

「そうだな」

「じゃあ、もう、どいてよ。仕事しにきたんだもの」

「今日くらいはサボってもいいんじゃないか?」

「サボるなんて、そういう訳には」

「昨日なにかが、あったんだろう? ラトラナジュ」


 穏やかに問われて、ラナは言葉に詰まった。雨だれの音がしんとした部屋に響く。


「……なにもない、よ」


 彼の目を見つめながら、歯切れ悪く答えを返す。アランが苦笑した。


「君のその強がりは変わらないな」


 アランはゆるやかにラナの体を押した。ソファが軋んで、ふわりとラナの背中を受け止める。染み一つ無い真白ましろの天井は、すぐに見えなくなった。アランが覆いかぶさるように、ラナの両脇に手をついたからだった。


「このままいっそ、さらってしまおうか。君のことを」

「さらう、なんて」ラナは急速に干上がっていく喉をなんとか動かした。「馬鹿なこと言わないでよ」

「そうか、そうだな。馬鹿な考えかもしれない。だが、存外悪くないと思わないか?」


 アランが睦言のように言葉を紡ぐ。それはラナの肌にじわりと染みて、体に少しずつ熱を灯した。


 薄暗闇に、彼の金色が鈍く輝いた。濃く深い色に魅入られて動けなくなる。美しい獣さながらに、しなやかな動きでアランの顔が近づいた。


 食べられると思った。比喩でもなんでもなく、ラナは本気でそう思った。すぐ側に感じる彼の体温と、ぐっと濃くなる煙草と香水の香りに溺れてしまいそうになる。


 ラナの手が虚しくソファを掻く。

 アランの装飾腕輪が空気を鳴らす。

 そして唇が触れる寸前の距離で、アランが動きを止めた。


「――さらわれたくなったら、いつでも来なさい」


 雨音に紛れて届いたささやき声。そうして謎めいた笑みを浮かべた彼は、ラナの胸元に鍵を一つ落とした。


 *****


 小さな鍵と、昨日買ったばかりの紅玉ルビーの欠片。入っているのはたったそれだけなのに、ズボンのポケットはやけに重かった。


 ラナは日の沈み始めた帰路をたどる。足取りは決して軽くはない。それは止むことのない雨のせいであり、家で顔をあわせなければならないであろうエドのせいであり、マリィの言葉のせいでもあった。


 さらわれたくなったら、いつでも来なさい。アランの密やかな誘惑を思い出して、ラナは慌てて頭を振る。


 あれは何かの冗談だ。本気にしては駄目。だって、さらわれる必要なんてない。自分は親友たちを、アランを信じている。共喰いについて何を疑うこともない。なら、今までどおりに悩みなんてないはずだ。


「だから、ちゃんと皆を信じなくちゃ」


 声に出して呟いた。笑い声が聞こえてきたのは、その時だった。


 ラナは傘を揺らして顔を上げる。暗い路地裏の先に、女がいた。タイトなスーツに豊満な体を包み、榛色ヘーゼルナッツの目を細めて笑っている。その後ろには、上から下まですっぽりとフードを被った真っ黒な影があって、女のために傘を差していた。異様なまでに背が高いそれが、人ではないことは明らかだ。


「エドナ……さん」


 親友の師匠の名前を呟く。そうすれば、真っ黒な悪魔を従えた魔女はにっこりと笑った。


「ごきげんよう、ラトラナジュ・ルーウィ。良い天気ね」

「何しに来たんだい?」

「もちろん、あなたを助けに来てあげたのよ」

「……なに、それ」ラナはぐっと顎を引いた。「助けなんて要らないよ。何も困ってないもの」

「困ってるでしょう? 悪い男に捕まりそうになってるじゃない。砂糖をまぶした甘い言葉に毒されて、溺れそうになってる」

「アランは、悪い人じゃない」

「ふふっ、私は一言もアランの名前を出してないわよ?」


 ラナは口をつぐんだ。視線をきつくすれば、エドナが目を細める。


「あなた本当に、あのエセ魔術師にぞっこんなのねぇ」

「……なにしに、来たの」

「共喰いの犯人を探してるんでしょう?」


 ラナは短く息を飲んだ。

 エドナがわざとらしくため息をついて、頬に手を当てる。


魔術協会ソサリエとしても困っていたのよねぇ。無理矢理に懐古症候群トロイメライにさせられるなんて、あまりにも可哀想じゃない。なにより、仕事が増えて神父様との時間もとれなくなるわ。私にとっても一大事でね、だから犯人を探してるのだけれど」

「犯人探しなら、エドがやってるよ。彼に頼めばいい」

「そういうわけにはいかないわ。アラン・スミシーが共喰いの犯人かどうか、私はあなたに見極めてほしいんだから」


 ラナは顔をこわばらせた。倒れそうになる両足に力を込め、なんとかエドナを見やる。


「……なんで、それを私に言うの」

「だって、あなたが一番あの男に近いんですもの。適材適所というものよ。あなたったら、魔術を持たないくせに懐古症候群に関わりたがってたじゃない。あなたも得をする。私も得をする。実に理にかなった提案よね」

「アランは、犯人じゃない」

「それは、あなたがそう信じたいだけの話だわ」

「なんの証拠もない」ラナは躍起になって否定した。傘の柄を強く握り、エドナをにらみつける。「分かってるのかい? 私からすれば、あんただって十分怪しいよ。だってあんたは、悪魔を従える魔女じゃないか」

「あら、小娘にしては随分と察しがいいじゃない」


 エドナはおかしそうに肩を揺らした。じゃあ、こうしましょう。そう言って、彼女は楽しげに両手を叩く。


「あなたはアラン・スミシーについての情報を持ってくるの。その代わり、私は貴方からの質問になんでも正直に答えてあげるわ。これなら公平でしょう? 彼が無実なら、何の証拠も出てこない。私が犯人ならば、貴方は私を捕まえることができる」

「馬鹿言わないで。アランについて調べることなんて、なにもない。だって彼は何もしてな、」

「やぁねぇ。手がかりならあるでしょう? アランの名前が記された日記が」


 ラナは目を見張った。脳裏をよぎったのは、エドに隠れて読み進めていた日記だった。けれど、どうしてエドナがそれを知っているのか。ラナの戸惑いを、エドナは正確に見抜いたようだった。


 悪魔を従えた魔女は、雨の中でうっそりと微笑む。


「ねぇ、ラトラナジュ・ルーウィ。あなたは、あの日記をどこまで読んだのかしら」

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