3-2. 今の話を信じるの?

 軽やかに紡がれた詠唱で、おぞましい音がふつりと止んだ。


「大丈夫か、ラトラナジュ」


 掌がどけられ、視界が晴れる。ラナは息を飲んだ。血溜まりに獅子と猿の体が横たわっている。どちらも、ぴくりとも動かない。


 アランの体が、ラナの視界を遮った。廃ビルの隙間をぬって降り注いだ雨が、薄金色の髪を無色の雫で彩る。それは美しく、けれど同時にひどく冷たくて恐ろしい。


「見る必要はない」

「でも……」

「終わったことだ、何もかも」アランはきっぱりと言った。「なにより、こうせざるをえなかった。そうだろう? あのまま放っておけば君が傷つく可能性もあった」


 ラナは唇をきゅっと噛んだ。ほんの少し傾いた傘から雨の雫が滑り落ちる。アランの言葉は正しい。けれど、それを鵜呑うのみにしてもいいのだろうか。


 視界の端でアランが微苦笑する。彼の右手がラナの頬へ伸ばされた。その手の甲から血がこぼれているのを見てとって、ラナはぎょっとする。


「怪我、してるじゃないか!」

「……あぁ」アランは他人事のように呟いた。「これは失礼。君を危うく汚してしまうところだった」

「っ、そんなことはどうでもいいから!」


 引っ込めようとするアランの手を、ラナは強く握って引き止めた。傘をアランに押しつけ、取り出したハンカチで彼の傷を押さえる。随分と深い傷だった。さっき、自分をかばってくれた時にできたのだろう。


 不甲斐なさが胸中にじわりと滲む。それをなんとか振り払おうと、ラナは頭を振った。今は嘆いている場合じゃない。


 ハンカチを躊躇ためらいなく裂く。アランが困惑したように声を上げた。


「あぁラトラナジュ。そこまでしなくても」

「駄目だよ。小さな傷だって馬鹿には出来ないんだから」

「痛みはないんだ。君が心配するようなことはなにもない」

「あぁそう、そうかもね。でも、このまま放っておいたら、私の心臓に悪いの。だから大人しく諦めて」


 ちゃんと、後で手当もするんだよ。早口でそう付け足しながら、ラナは手早くハンカチを巻き終えた。その出来栄えを確認してアランの手を離せば、彼はしげしげと手の甲を眺めている。


 それが妙に面白くて、ラナは小さく噴き出した。


「なんだい、珍しいものじゃないだろ? ハンカチだから不格好だけどさ」

「不格好だなんてとんでもない」アランは金の目を細めた。「ただ、そうだな。妙な感じだ。これもまた初めての経験だから」

「まぁ、あんたは怪我なんてしなさそうだもんね」


 ラナは胸中でほっとしながら頷いた。よかった、少なくとも今の彼は、ラナのよく知るアランだ。


 そこで、ラナの名前を呼ぶ声がした。駆け寄ってきたのはエドだ。ずぶ濡れの彼の頬には、黒灰色の髪が張りついている。


 辿り着くなり、エドは剣呑な眼差しをアランに向けた。


「まさか、こんなところで会えるなんて奇遇だな」

「これはこれは、同居人殿」アランがすいと金の目を細めた。「ずいぶんと遅い到着だ。どこかで寄り道でもしてたのか?」

「……別の懐古症候群トロイメライに手こずってたんだ」

「そこの獅子のことなら、倒しておいたぞ」


 エドが苦虫を噛み潰したような顔をした。


「……それはご丁寧に、どうも」ぶっきらぼうに呟いて、エドはラナの腕を引いた。「行こう、ラナ。こんなところに長居する必要はない」

「え、でも……」

「俺のことは気にしなくていいさ、ラトラナジュ」


 肩をすくめたアランは、ラナの手をとって傘の柄を握らせた。ついでとばかりに指を撫でられ、ラナがくすぐったさに思わず顔をあげれば、アランは満足そうに微笑む。


「傘は持っていきなさい。また明日、返してくれればいいから」


 時計台の鐘の音が鳴り始めた。アランは軽やかな足取りで雨けぶる世界へと消えていく。

 灰色の世界に、薄金色がぽつんと揺れていた。それをラナがぼんやりと眺めていると、咳払いが響く。


 我に返ったラナが隣を見やれば、エドが不機嫌そうにしていた。


「あいつは、ただの依頼人だろ。君の仕事の」

「……分かってるよ」

「どうだか」


 ラナはエドを睨んだ。あらぬ方向から忍び笑いが聞こえてきたのは、その時だった。


 廃ビルの入り口から、傘を差した女が近づいてくる。奇妙な風貌ふうぼうだった。胸にはさらしを巻き、腰元には一振りの剣を差している。湿った風に煽られて白いコートが揺れた。そこに、ぽつぽつと赤黒い斑点が飛んでいる。


 マリィさん、と呟いたのはエドだった。そんな彼に向かって、女――マリィが手に持った傘を差し出す。


「いやいや、エド君。なかなかどうして、青春ってやつだよなぁ。恋の幕開けってやつ?」

「……茶化すのはやめてもらえませんか……というか、ロウガさんとテオドルスさんはどうしたんです?」

「あいつらなら、傘が無いから車の中で待機中」


 刑事さんの車に積んでた傘が二本だけだったからさ。呵々かかと笑いながら、マリィがエドに傘を手渡した。エドは少しばかり迷った様子だったが、結局、お礼を言って傘を受け取る。


 どこか親しげな様子に、ラナは首をかしげた。


「エド、この人は知り合いかい?」


 傘を開く手を一旦止め、エドが目を瞬かせた。


「知り合い……ではないよ」

「んにゃ、そうだわな。出会ったのは一時間前くらいだし」肯定したマリィは、ラナへ向かって片手を差し出した。「んでもって、お嬢さんとは、はじめまして、ってわけだ。どうぞ、よろしく。私のことはマリィって呼んで」


 勢いに呑まれるまま、ラナはマリィの手を握り返した。


「ええと、ラトラナジュ、です」

「ん、じゃあラナちゃんだな。いいじゃん、可愛い名前だと思うよ」

「はぁ……それで、あの。マリィさんはどうしてここに?」

「それは俺も聞きたいですね」エドが横合いから口を出した。「マリィさん、あなたは懐古症候群と戦い慣れてるようでしたけど……一体どういうことなんですか?」

「良い質問だよ、二人とも」


 マリィは小さく笑って手を離した。歩き出す彼女を追いかけて、ラナ達も廃ビルの入り口へと向かう。


「ラナちゃんのために言っておくとな」マリィはのんびりと切り出した。「さっき、あんたのところに飛び込んできた獅子がいただろ。アレ、最初はエド君のところにいたんだよね。で、それをばーんっと救いに来たのが私と、車の中で待機してる刑事さんとテオってわけ。まぁ、ちょーっとしくじって獅子の方を取り逃がしちゃったわけで……それであんたが襲われる羽目になったんだから、そこは謝りたいんだけどさ」


 マリィは傘をくるりと回し、感慨深げに言った。


「でも、私も驚いたよ。私達以外に、まともに懐古症候群とやりあえる人間がいるとは思わなかった」

「懐古症候群とやりあえるって……魔術師もいるじゃないですか」

「その通りさ、ラナちゃん。魔術師も懐古症候群に対処できる」マリィはちらと振り返った。「でも、私達には魔術師を頼りに出来ない事情があるんだ」

「なんですか、それ」

「結論から言うと、魔術師が懐古症候群を悪用している可能性がある」


 突拍子もない言葉に、ラナは一瞬言葉を失った。立ち止まったマリィが振り返る。無理もないと言わんばかりに苦笑いした。


「まぁ、普通は信じられないわな」

「……冗談ですか」

「冗談じゃない。大真面目だよ」


 マリィは肩をすくめた。言葉を探すように、ゆっくりと話を続ける。


「そもそもな、なんで私達がエド君を助けたかっていうと、彼が戦ってた獅子が私達の追いかけてるモノだったからなんだ」

「懐古症候群を追いかけてた、ってことですか?」


 ラナの問いかけに、マリィは首を横に振った。


「いんや、アレは正式な懐古症候群じゃない。懐古症候群を喰らうように設定された懐古症候群だ。共喰い、って私達は呼んでるけど……まぁ名前はどうでもいいさ。問題は、共喰いが意図的に作られた懐古症候群であるってことだ」

「懐古症候群を、作る?」

「そう。懐古症候群を狩るために、普通の人間を無理矢理に懐古症候群へ仕立て上げた。論としては正しいわな。普通の人間には懐古症候群の異能が手に負えない。なら、同じ懐古症候群をぶつければいい。共喰いの制御はできないが、万が一暴走した時は殺してしまえばいいって寸法だ」

「っ、待ってください」ラナは戸惑いながら口を開いた。「その話の根拠はなんですか? ううん、仮にそれが真実だったとしても……それに魔術師が絡んでる理由なんて……」

「私とテオは、共喰いをつくる側の人間だったから」


 ラナは息を呑んだ。マリィは空色の目を曇らせ、苦笑する。


「――といっても下っ端で、実際に共喰いを創ってる人間には会ったことがないんだけど。でも、放っておけなかったんだ。だから私達は共喰いを追いかけてる。共喰いを創ってる人間の手がかりを得るために」

「……魔術師が関係していると、主張する根拠は?」


 ずっと黙っていたエドが問いかけた。それにマリィは目を細め、一段声を落とす。


「共喰いは普通の人間に悪魔を混ぜて創るのさ。だから、魔術師だけが共喰いを創ることができる」


 雨音響く世界に、マリィの声がやけに大きく響く。それにエドは目を伏せ、「……そうか」と呟いた。


「なら、マリィさん。俺もあなた達に協力しましょうか?」


 エドの申し出に、ラナはぎょっとした。


「エド、今の話を信じるの?」

「信じてみる価値はあると思ってる」エドは強張った声で言った。「少なくとも、マリィさんの話が真実なら無関係の人間が巻き込まれてるってことだ。それだけは止めなくちゃいけない」

「それは……そうだけど……! でも、じゃあ、皆を疑うっていうのかい? アイシャもヴィンスさんも、いつも懐古症候群を捕まえるのに協力してくれてるじゃないか!」

「事実を確かめるだけだよ、ラナ。それでアイシャ達が関係していなければ、問題ない」


 ラナは思わず一歩後ずさった。エドの言いたいことは分かる。けれど不可解なのは、なぜ彼がマリィの発言をあっさり信じてしまうのか、ということだった。


 だって、目の前の女と過ごした時間よりも、よっぽど魔術師と付き合っていた時間の方が長い。アイシャよりも――あるいは、アランよりも。


 ラナは傘の柄を強く掴んだ。


「……私は、エドみたいには考えられない」


 なんとかそれだけ絞り出す。そうしてラナは、エド達から逃げるように廃ビルの入り口へ向かった。


 *****


 雨に濡れる地面を蹴って、ラナが立ち去る。それを見送るエドの表情はひどく苦しげで、マリィは思わず眉尻を下げた。


「なぁ、そんな顔するくらいなら、あんな言い方しなくても……」

「……構いません。ラナは関わらない方がいいでしょうし」

「あんたも本当は関わりたくないんじゃないのか。無理してるなら、さっきの申し出はなかったことにしてもいいんだぜ?」

「それで困るのは、マリィさんの方では?」


 図星を刺されて、マリィは目を見張った。何度か目を瞬いたエドが、ゆっくりと彼女の方へ顔を向ける。表情は相変わらず固い。けれど黒灰色の目には鋭い光が見てとれた。


「俺たちの協力が欲しかったから、あなたはあっさり事情を打ち明けたんだ。おおかた、ロウガ刑事から聞いてたんじゃないですか? 俺たちが魔術師と繋がりがあるってこと」


 マリィが返答に窮すれば、エドは息をついた。しばし瞑目した後、ゆっくりと付け足す。


「マリィさん。あなたはこういう駆け引きには向いてない。情報の出し方に一貫性がないんですよね。下っ端というわりには、共喰いの成り立ちに詳しい。共喰いを創っている人間を探したいというわりには、魔術師が犯人と限定しすぎてる。まだ何か隠してる情報があるんでしょう。だから、こんなにも中途半端な話になるんだ」

「……いやいや、結構容赦ないじゃん? エド君」

「エドでいいですよ。で、正解ですか?」

「うん、正解」


 マリィはあっさりと両手を上げた。まったく、この青年は見た目以上に頭の回転が早い。

 あんたの入れ知恵じゃあ、全然太刀打ちできなかったよ。マリィは心の中でテオに詫びて、口を開いた。


「情報を意図的に隠してたことは謝るよ。共喰いの成り立ちに詳しいのは、テオが上層部の使ってるデータベースから情報を抜き出したからだ」

「上層部ってことは、犯人は一人ではないということですか」

「そう。犯人は一人じゃない。というか、首謀者は明らかなんだ。カディル伯爵、この都市の市長だよ」


 エドが胡乱うろんな顔をした。


「は……? なんで市長がそんなことを……」

「懐古症候群がいっこうに無くならないから、業を煮やした、ってのがもっぱらの噂さ。ほら、三機関会議トライアドってのがあるだろ? 本来は、魔術協会ソサリエ、警察、学術機関アカデミアの三つが話し合ってたわけだけど……十年前に教授が失踪して以来、学術機関がほとんど機能してないんだ。で、その穴を埋めるために、市長自らが立ち上がったってわけ」

「なら、カディル伯爵を捕まえれば事件は解決するんじゃないですか?」

「そうもいかねぇんだよなぁ。カディル伯爵は今どき珍しい純血の魔術師だ。でもな、あいつの魔術は血を行使する魔術であって、悪魔を喚ぶ魔術ではない。テオが抜き取ってきた情報から考えても、カディル伯爵に協力している人間がいるはずなんだ。そいつを捕まえない限り、共喰いはいつまでも創られ続ける」

「そう、ですか……それで先輩達は協力者を探し出したい、と……」

「先輩じゃねーけどな」


 マリィが苦笑して指摘すれば、エドははっとしたように目を瞬かせた。


「すみません……」

「良いって良いって。なんだかよく分かんねぇけど、悪い気はしねぇしさ」マリィはからりと笑って、首を傾げた。「で、だ。結局、エドは私達に協力してくれるのか?」

「しますよ」

「正論を言うと、ラナちゃんの反応の方が正しいと思うけどな。なんせ、私とあんたは、ついさっき会ったばかりなんだから」

「それを自分で言ってどうするんですか」


 エドは小さく笑い、マリィを見やった。


「さっきも言ったとおり、俺はマリィさん達の仮説の正しさを確認するだけです。俺自身の願いのために」

「普通の人間を悪の手から守る、ってか?」

「いいえ」


 マリィが首をかしげれば、エドはラナの消えていった方角を見つめて付け足した。


「彼女の世界が幸せであること、が俺の望みですから」

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