3-1. 君が恐れることなど、何一つ起こらないさ
天秤の描かれたショーウィンドウを、雨が叩きはじめた。
カウンターから身を乗り出すようにして見つめていたラナに、アランの苦笑じみた声がかかった。
「そう熱心に選ばなくてもいいんじゃないのか、ラトラナジュ」
「そういう訳にはいかないよ」ラナはルビーの欠片を慎重に掴んだ。「大事な魔術の触媒だろ」
「そんなに悩むのなら、俺が全部買って、」
「それは嫌。絶対嫌」
顔を跳ね上げて睨めつければ、アランがはっとしたように目を瞬かせる。
「……すまない、どうか今のは忘れてくれ」
「よろしい」
ラナがほんの少しだけ笑って頷けば、傍らでやりとりを聞いていた天秤屋の店主が目を丸くした。
「いやいやっ…まさかあのアランを
「手懐けるとかじゃないよ。ただ、自分の欲しいものは自分で買いたいだけ。当たり前のことだろ」
ラナは肩をすくめて再び宝石へ目を落とした。
アランと出会って一ヶ月。契約どおりに、ラナはアランの家で働いていた。変わったことといえば、彼の贈り物という名の押し売りが無くなったこと。そして、彼の口車に乗せられて魔術を習い始めたこと。
輝石の魔術は控えめにいっても美しく、短い時間とはいえ魔術について学ぶのは楽しかった。ただし問題は、魔術を使えば宝石が消えてしまうということだ。消えてしまえば当然、自分の稼ぎで買わなくてはならない。
ラナはカウンターに並ぶ小瓶を見渡す。色とりどりの石が入った瓶のうち、自分の稼ぎで買える欠片――小指の爪の先ほどの大きさのものばかり――が入った瓶をいくつかを選んで、ラナはアランをちらと見上げた。
「……ここで迷ってるんだけど。なにか助言とかあるかい?」
「あぁラトラナジュ」アランは嬉しそうに顔を綻ばせて、紅の宝石を取り上げた。「ならば俺は、ルビーを勧めさせてもらおうか」
「理由は?」
「君の名を冠する石だから」
ラトラナジュはルビーの異称なのさ。そう付け足して、アランは恭しく石に口づける。ふわりとした甘さは不意打ちで、ラナの心臓が思わず鳴った。
「そ、そう……」
努めて冷静を装って、ラナは紅玉の入った小瓶を掴む。にやにやとしている店主を八つ当たり気味に睨んで、瓶を差し出した。
「三つだけ、ちょうだい」
声がぶっきらぼうになったのは、仕方のないことだ。そう言い聞かせ、ラナは支払いを済ませて天秤屋を後にする。宝石の入った袋を胸に抱いて息をついた。雨に濡れた空気は湿っていて、火照った頬が冷めるのには少しばかり時間がかかりそうだった。
遅れて出てきたアランが、軒先に立て掛けていた傘を開いた。優雅に腰を折って、彼はラナへと傘を差し出す。
「さぁどうぞ、お嬢さん」
「……どうぞって、それはあんたのじゃないか」
「君は傘を持ってないだろう?」
「そうだけど」ラナはちらと天秤屋の二階を見やった。「なら、家に戻って傘をとってくるよ。すぐそこだし」
「それだと時間がかかるだろう? 君に魔術を教えられるのは、仕事の時間の中だけだ。あと一時間もない」
「だったら、あんたの家まで走って、」
「ラトラナジュ」アランが困ったように微笑んだ。「俺は雨が嫌いでね。君に少しだって濡れてほしくない」
ラナはため息をついた。渋々と彼の差し出す傘に手を伸ばす。
「なら、一緒に入ろう。それで手打ち」
アランの金の目に意外そうな色がにじむ。ラナは唇を尖らせた。
「まさか、一人で使うわけないじゃないか。あんたの傘なのに」
「あぁいや、そうだな。その通りだとも。だが」
「なに」
「君は何かを怒っていたんじゃないのか」
先程の天秤屋での事を言っているのだろう。アランと連れ立って歩きながら、ラナは水たまりを靴の爪先で蹴った。歯の浮くような台詞はいくらでも言えるのに、この男は肝心なところで機微に疎いのだった。
「怒ってはない、よ」
「ふむ」
「だから、その」ラナは己の中の恥じらいを、排気ガスのこもる空気に混ぜて吐き出す。「急にあぁいうことを言うのは止めて欲しいってだけ」
「あぁいう?」
「その、私の名前がどうとか、っていうやつ」
「嫌だったのか?」
「……そうじゃないけど!! あぁもう、少しは察してよ!」
少なくとも、日記に出てくるアランなら、もっと上手に対応してくれるだろう。密かな不満と共に彼を見上げれば、かたわらの青年は至極真面目な顔をしている。
その金の目はしかし、おかしさを堪えきれないと言わんばかりに細められていた。
ラナは眉を吊り上げる。
「っ、今のは分かっててやってたね……!?」
「おやおや、分かっているなんて。君は俺のことを買いかぶり過ぎだな」
「最低……!」
「あぁ愛しの君。どうか機嫌を損ねないで」
アランが笑み混じりに言う。ラナは頬を膨らませた。先にからかってきたのはそっちじゃないか。視線だけで訴えれば、アランが不意に目を細めた。
「君は、今までの誰とも違うな」
ぽつりと呟かれた言葉が雨音に紛れる。ほんの寂しさと暖かさをはらんだそれに、ラナが思わずまじまじとアランを見つめた時だった。
ラナの懐で携帯端末が鳴る。画面に浮かんだメッセージはエドからのものだ。それを覗き込んだアランが苦々しそうに呻く。
「また
「仕方ないよ」ラナは苦笑した。「こっちも立派な仕事だし。私たちがいないと、普通の人に被害が出ちゃうんだから」
「君も普通の人間じゃないか。行く必要はないと思わないのか?」
「私は好きでやってるの。エドが頑張ってるんだから、ちょっとしたお手伝いだけでもしたいんだ」
「君を危険に巻き込む同居人の気が知れない」
「ちょっと、エドのことを悪く言うのはやめてよ」ラナは頬を膨らませた。「それに、この前の猿は例外だってば。普段は懐古症候群を疑ってる人のところに行って、様子を見るだけ」
「好ましくない。危険だ、実に」
アランはしきりに首を振って立ち止まった。何を大げさな。ラナが腕を組んで見やれば、彼は名案を思いついたと言わんばかりにぱちりと指を鳴らす。
「ならば今日は俺も行こう」
「え」ラナはぎょっとした。「でも、あんたには関係ないじゃないか」
「君の魔術の授業も兼ねて、さ。それならば関係があるだろう?」
「そんな滅茶苦茶な……!」
低い獣の唸り声が聞こえたのはその時だった。
ラナは顔を跳ね上げる。建物に挟まれた曇天を、猿の姿をした獣が横切った。
ラナは、そろりとアランの方へ視線を映す。彼は面白がるような表情を浮かべていた。
「さぁ。協力は必要かな、お嬢さん」
ラナは唇を噛む。それでも迷っている時間はなかった。放っておけば懐古症候群の被害が出る。そして、ラナだけでは懐古症候群を止められない。
「必要、かも」
ぼそぼそと申し出れば、彼は上機嫌に頷いた。
「素直なのは良いことだよ、ラトラナジュ」
「……上手く誘導された気しかしないんだけど」
「これはこれは。しがない男に騙されてくれるとは、恐悦至極」
アランの左手で
『冠するは雷――』
*****
『
合成音と機械の駆動音がエドの鼓膜を揺らす。高く跳躍した彼は、宙空で身をよじって短剣を振るった。
雨けぶる空気を鈍色の刃が裂く。手応えはない。からくも逃れた異形の獅子は、建物の屋上に降り立ち咆哮を上げた。濁った血色の眼はエドを見据えて逸らされることはない。
重力に引かれて落ちる。その刹那の間に、エドは胸中で悪態をついた。まったく腹立たしさしかなかった。早くラナの元に行かねばならない。こんな獅子ごときにかまっている暇はないのだ。まして今は雨だ。
灰色の街の雨に、良い思い出などない。
エドの足裏が建物の屋上――そこに設置された鉄柵にかかる。雨に濡れたそこを蹴り上げて、彼は再び跳躍した。同時に獅子がエドに向かって突進する。
『
仮面が組み変わると同時に短剣をかざした。振るわれた獅子の右脚を薙ぎ払って、屋上に叩きつける。上昇していた体が下降に転じる。その勢いにのりながら仮面を叩いた。
『
獅子の腹めがけて短剣を振るった。刃はしかし、横合いから現れた獅子の尾を斬りつけるに終わった。生体らしからぬ金属音が響く。鱗に覆われた尾の先で、蛇の頭が威嚇音を鳴らした。
尾が大きくしなる。熊の腕力をも凌ぐ力に、エドの態勢が崩れた。
獅子が飛び起き、黄ばんだ牙を向ける。エドはとっさに半身を下げて躱した。されど二撃目、獅子の左脚が間髪入れずに迫る。
エドの反応が、僅かに遅れた。鋭い爪が迫る。避ける動作をする暇はなく、エドは少しでも衝撃を減らそうと短剣をかざす。
その獅子の爪は、一発の銃声によって直上に逸れた。
「おいおい、この距離で外すのかよ!? あんた!」
「し、仕方ねぇだろうが……! 刑事ってのは普段銃を使わないでナンボなんだぞ!?」
この場にそぐわぬ騒がしい男二人の声が響く。その声の正体を確かめる間もなく、エドの眼前に一人の女が降り立った。
ひるがえる真っ白なコート、ぞんざいにまとめた金の長髪、彼女が握るは薄い金属片を幾枚も重ねて作られた剣。
『
無機質な音声を響かせて、女が獅子に向かって剣を振るった。軌道上で刃は瞬く間に大剣となり、獅子の頭部を裂く。
どす黒い血が宙を舞った。獅子が悲鳴を上げて後退する中、女は小さく唇を吹いた。
「おうおう、意外と面の皮が厚いのな」
「……マリィ、先輩」
エドが呆然と呟く。露を払った剣を肩に背負い、女――マリィは、なんのてらいもなく笑った。
「初対面なのに先輩呼ばわりたぁ、面白いやつじゃんか。あんた」
*****
雨に湿った空気を、黄緑に輝く風が裂く。
鉄骨がむき出しになった廃ビルの中で、ラナは呆気にとられて息を漏らす。アランの放った魔術は、少し離れたところにいる異形の猿を直撃し、その四肢からどす黒い血しぶきを散らした。
「今のが
「そう、なんだ……」
「おや、顔色が良くないようだが?」
アランがラナの顔を覗き込んだ。その余裕こそが彼を強者たらしめているようなものだ。
圧倒。ただその一言に尽きる。装飾腕輪に嵌められた石の数は七つ。それをしかし、ただの三つ使うだけで、彼は猿を追い詰めてみせた。無論、アランに傷一つない。あるいは服の汚れさえも。あるのはただただ、艶やかな美しさだ。砕けた輝石の放つ強烈な輝きと、それに彩られる彼の作り物めいた美貌と。
エドは未だ到着していないが、この分ならばアランが懐古症候群を倒すだろう。普段ならラナ達が数人かかって仕留める異形を、たった一人で。
それは彼の強さの証だ。けれど同時に、どこか薄ら寒いものも感じる。
傘を持つ手に力がこもる。雨の雫がこぼれてラナの頬を伝った。
その雫を、アランの指先がそっと拭う。
「あぁそうだな、ラトラナジュ。君はたとえ懐古症候群であっても、誰かを傷つけることに心を痛める人間だった。俺が手を汚すことさえも
ラナは首を横に振った。そういうことじゃないんだ。否定の言葉は、何故か喉の奥に張りついて出てこない。
獣が唸り声を上げた。アランが笑みを消し、懐古症候群へと目を移す。
無粋な獣だ。そう呟いた彼は薄緑色の輝石を掴む。
『冠するは楔 万世の輝きを以って 繋がれた罪人を貫け』
砕けた
見えない鎖に絡め取られたように、猿の動きが止まった。アランが追撃の魔術を放とうとする。少なくとも、ラナはそう思った。だからこそ身を固くして。
瞬間、
どす黒い鮮血が舞った。それ以上は見えなかった。視界が、アランの掌で無造作に覆われたからだった。
「――ずいぶんと躾のなっていない犬だ」
凍りつくラナの思考に、アランの密やかな声が届く。あとに聞こえるのは雨音だ。猿の悲鳴と、牙が肉を断つおぞましい音。
煙草と香水と鮮血が、雨に混じって目眩がするほど濃く香る。
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