# behind the curtain

 手にとった髪留めを使って、女は流れ落ちた長髪をまとめた。


 透かしの入ったグレーのシャツの胸元は大きく開かれている。肌がやけに艶めいて見えるのは、直前までヴィンスと過ごしたからに違いなかった。


 ベッドに腰掛けたアイシャは、灰色の猫の人形――ニャン太の頭へ口元を埋めた。女がゆるりと紅の引かれた唇を上げる。


「あら、アイシャ。何をそんなに見とれてるのかしら」

「見とれてなんか、いませんですにゃ」


 アイシャはふいと視線を逸らした。教会の二階、古びた床の木目を追いかけながら口を動かす。


「それよりエドナ、早く終わらせてほしいんですにゃ。この後にも予定があるのですにゃ」

「やぁねぇ。せっかちな女は嫌われるわよ」

「よく言いますにゃ。ニャン太とアイシャの部屋で、三十分ずーっと身支度整えてるのはエドナの方ですにゃ」

「いいこと、アイシャ。何事も焦らすのが一番よ」エドナが眼鏡の奥で榛色ヘーゼルナッツの目を光らせた。「主導権を握るのは常にこちらでなくてはね。厄介事に対しても、男に対しても」

「……ニャン太とアイシャは、エドナとは違いますにゃ」

「そのとおり。だから私と神父様は上手くいってて、あなたと赤毛の医者は上手くいってないの」


 にらむアイシャにからりと笑って、エドナは立ち上がった。赤いピンヒールを鳴らして近づき、アイシャの右手を無理矢理にとる。


 エドナの指先が、手の甲に刻まれた紅の紋様をなぞった。低く紡がれる詠唱と共に、ぴりと痛みがはしる。アイシャは唇を噛んだ。紋様は、アイシャの不安定な魔術を制御するための枷だ。それが必要なことは分かっている。さりとて、痛みと共に自分の中の見知らぬ何かを逆なでされるような感覚は未だに慣れない。


 紡がれていた詠唱が止んだ。終わったのならばとアイシャが乱暴に手をひこうとすれば、思いの外強い力で引き止められる。


 エドナの榛色の瞳が油断なく光った。


「アイシャ、あなたまさか、枷をつけたまま魔術を使ってるわけじゃないでしょうね?」


 *****


 そんなの、あなたには関係ないことでしょう。アイシャはエドナに反論する。それはけれど、実際は言葉にならなかった。


 エドナは、アイシャの魔術の師匠だ。けれどろくな思い出などありはしない。師匠の興味は常にヴィンスに向いていて、指導以上の何かを与えられることはなかったからだ。


 自分とエドナの間に情はない。それが分かっているからこそ、エドナへの反発心から――なにより友人を手助けしたい気持ちもあって――、なんとか枷をつけた状態でも魔術を使えるよう、訓練したのだけれど。


 例えば自分に、シェリルのような気の強さがあれば。あるいはラナのように積極的に行動できたら。もっとちゃんと、エドナに反論できていたのだろうか。親友たちと比べると随分不甲斐ない自分に、アイシャは顔をうつむける。


 その頭を、小さな灰色の手が撫でた。


「どうしたのですにゃ? アイシャに元気がないと、僕も悲しいですにゃ」


 降ってきた穏やかな青年の声に、アイシャは顔を跳ね上げた。


 午後の日差しが差し込む診療所の待合室だった。わわっと声を上げて後ずさったのは赤毛の青年だ。アイシャと同じ灰色の猫の人形を抱えた彼は、ずれた眼鏡を押し上げて困ったように笑う。


「は、はは。やっぱり子供っぽかったかな」

「ヒル先生……」

「はい、そうですよ。みんなのヒル先生です」


 ヒルが穏やかに頷く。くたびれた白衣の上でゆらりと聴診器が揺れた。それを見て、アイシャは我に返る。


「す、すみませんですにゃ……!」


 アイシャは赤面して立ち上がった。診療所の窓際にぽつぽつと並べられた小瓶を意識して見ながら、ニャン太をぎゅっと抱きしめる。


「な、なにか用事でしたのにゃ? 新しい患者さんの診療データですかにゃ? それとも器具の消毒、」

「あ! 違う、違う。どうか落ち着いて」ヒルは慌てて否定した後、困ったようにそばかす混じりの頬を掻いた。「君が元気なさそうに見えてね。なにか困り事かな、って思っただけなんだ」


 アイシャは、ニャン太のくたびれた毛並みに口元を沈めた。ほんの少し迷って、けれど結局、首をゆっくりと横に振る。魔術協会のこと――とりわけエドナとのことは言いたくなかった。


「うーん、困ったな」


 頭上から降ってきたため息にアイシャは首をすくめた。やっぱり気を悪くしただろうか。そろりと視線を上げれば、残念そうな顔をしたヒルが手元の灰色の人形を動かして口を開く。


「かわいい女の子を元気づけようと思ってクッキーを用意してたのに、ここのままじゃ、台無しですにゃ」


 お世辞にもうまいとは言えない裏声だった。おまけに、猫の人形の動きもぎこちない。

 アイシャは目を瞬かせ、それから小さく噴き出す。


「先生、全然似てないですにゃ」

「えええ、そうかなぁ?」ヒルがバツ悪そうに頭を掻いた。「いまのは会心の出来だったと思うんだけど」

「手の角度をしっかりつけてあげないと駄目ですにゃ」

「なんと、それは大変だ。これは是非、アイシャちゃんから教わらなくちゃいけないね。お茶とお菓子でもつまみながら」


 ヒルはぱちんと片目を瞑った。灰色の猫の人形を机に置き、白衣を揺らしながら隣接する小さな炊事場に姿を消す。

 その後姿を見やって、アイシャはそっと己の胸に手を当てた。


 ヒルは、優しい。魔術協会ソサリエを抜け出して診療所の前で倒れていたアイシャを、彼は何も言わずに手当してくれた。そしてそれは、一年経った今でも変わらない。アイシャの事情に踏み入ること無く、けれどそっと寄り添ってくれる。


 自分は、だから彼のことが好きで。それがとても幸せで。



 ――嘘よ。嘘だわ。あなたは大切なことから目を逸らしているだけなのよ。



 つきりと手の甲の紋章がうずいて、どこからともなく声が聞こえる。アイシャはしかし、それを首を降ることで追い払った。


 姿無き声も、得体のしれない焦りの気持ちも、どこからともなく聞こえる雨音も、全ては幻だ。そう言い聞かせてヒルの後を追いかける。



 ニャン太をぎゅっと抱きしめながら。



 *****


 ロウガは携帯端末越しだというのをすっかり忘れて、上司に食って掛かった。


「っ、ジョンさん、あんたねェ、いい加減にしろって! 懐古症候群トロイメライのせいで一般人の被害が出てんだぞ! なら、それを止めんのが俺たち警察の役割だろうが!」

「いい加減にするのは君の方だ」


 禿頭の上司は苛立ちを隠しもしない口調で応じた。


極東ファル・イェスト出身の君は知らないだろうが、懐古症候群の発症など、この都市では日常茶飯事なのだよ。それに一々対処するなど正気の沙汰じゃない。そうつまり、毎日毎日、懐古症候群の現場に駆けつける君の頭がおかしいんだ」

「おかしいのはあんたの頭だろうがよ! あぁん、さてはアレだな!? 髪の毛と一緒に人命を守るっていう倫理観までなくしちまったんだな!?」

「口を慎めロウガ・ヨゼフ、この能無しめ! いいか、とにかくお前は一ヶ月後の三機関会議トライアドでカディル伯爵の護衛に入るんだ! それまでは大人しく通常業務に励んでいろ!」


 耳鳴りがするほどの声だけ残して、通話が一方的に切れる。支給品の端末に浮かぶ大翼を広げた鷲の紋章。それにロウガは顔をしかめ、思いつく限りの悪態を携帯端末へと吐き出した。

 薄汚れた壁で挟まれた路地裏に、軽やかな女の笑い声が響く。


「なはは! なんつーか、清々しいまでに取りつく島なし! って感じだな!」

「……笑ってる場合じゃねーと思うんだけどな、マリィ」


 女の声に応じるは男の声。それにロウガは息をついて、携帯端末から顔を上げる。


「面目ないねェ、お二人さん」


 細く差し込む夏の日差しに照らされるは一組の男女だった。


 一人は細剣を肩に担いだ金髪の女。一人はパソコン片手に黒髪を面倒くさそうに掻く男。その両者に向かってロウガが頭を下げれば、マリィと呼ばれた女の方がからりと笑ってロウガの背中を勢いよく叩く。


「いいって、いいって! こっちとしては、アンタだけでも手助けしてくれるんなら御の字だし」

「そいつぁ勿論だ、マリィさん。それにテオドルスさんも」ロウガは重々しく頷いた。「善良な市民が懐古症候群に追われてるってのに、保護しない理由がねぇわな」

「いやー、流石刑事さん! よっ、男前!」


 パソコンを小脇に抱えた男――テオが咳払いした。深緑色モスグリーンの目を己の開いたパソコンに向け、「へいへい」と面倒くさそうに声をかける。


「とりあえず今はここまでにしとけ。あと二分と経たずにが来るぞ」

「おお、まじ? いやー、久々に暴れられんのか。わくわくするよなー!」


 肩に担いでいた剣を嬉しげに取り出すマリィに、テオは顔をひきつらせた。


「お前な……一応病人なんだぞ。そのへんの自覚をだな、」

「だーいじょぶだいじょぶ」マリィはさらしの巻かれた己の胸を力強く叩いた。「私の心臓は今日も絶好調だし。いざとなったら、テオが助けてくれるだろ」

「いやいや、俺の尻拭いが前提かよ!?」

「あーっと、お二人さん?」


 ロウガは二人に向かっておずおずと問いかけた。


「一体何だね、その共喰いってやつは? あんたらは懐古症候群に追われてるんじゃないのかい?」

「懐古症候群には違いないさ」マリィは逃走者ならざる表情でにやっと笑った。「懐古症候群を喰らう懐古症候群。だから共喰い。私たちはそれを退治してて、だからこそ向こうに命を狙われてるんだ」


 金髪を揺らし、彼女がすらりと剣を抜く。同時に低い獣の唸り声が辺り一帯に響いた。


 *****


 暗闇の中で、鼓動のように光が明滅する。光源は携帯端末、画面に映し出されるは歯車の組み合わさった巨大な機械。


 それを指先で撫で、ヴィンスは笑んだ。目元まで隠れるほどの黒髪の奥で、深緑色の目を細める。


「嬉しそうね、神父様」


 けだるげな声と共に、右肩に触れる指先があった。おおかた、竜の刺青を辿っているのだろう。事が終わった後は、彼女はいつもそうするのが常だ。


 ベッドを軋ませ、ヴィンスは半身をよじる。一糸まとわぬ女が甘えるようにヴィンスの体に腕を絡ませた。汗と香水と夜の匂いをまとった彼女は、乱れた金髪の奥で榛色の目を輝かせる。


 エドナ・マレフィカ。悪魔を喚ぶ術をもつ魔女は、ヴィンスの視線を受けてくすくすと笑んだ。


「当ててあげましょうか。プレアデス機関から指示がくだったのでしょう?」

「さ、さすがはエドナ。よ、よく分かっているじゃないか」

「他ならぬ神父様のことですもの。あぁでも」エドナは己の唇を舌先で舐める。「ほんの少し、妬けてしまうのも事実ね。貴方のことを一番に想っているのは私だし」

「す、好きにするがいいさ」


 ヴィンスは肩をすくめ、再び携帯端末へ目を落とす。エドナの手が体をまさぐるが、ヴィンスの興味は既にない。


 己に向けられる感情など彼には関係のないものだった。大切なのはただ一つ。いかにして、プレアデス機関の望みを叶えるか、ということ。当然のことだ。星の守り人は、そのためだけに存在するのだから。


 エドナの柔肌がヴィンスの体に触れる。それに目を閉じ、彼はプレアデス機関の言葉を反芻した。




 時は正しく巡らねばならない、と。



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