2-3. どうすれば、今みたいに喜んでくれる?

 短剣で刺された猿の巨体は、霧が空気に解けるように消え去ってしまった。


 やはり、あの猿は懐古症候群トロイメライの本体ではなかったのだ。そう思って、ラナは少しだけ安堵する。懐古症候群といえど人間だ。仕方ないこととはいえ、誰かの命を殺めるのは気分のいいことではない。


 エドは、先程到着したばかりのロウガと言葉をかわしていた。科学都市サブリエに赴任してきたばかりの刑事は、エドの嫌味にくしゃくしゃと髪を掻きながら、何事かを携帯端末に打ち込んでいる。魔術協会ソサリエの魔術師達の姿はない。けれども、これもまたいつものことだった。


 警察と魔術協会が協力して懐古症候群の患者を止める。この体制はかれこれ五年ほど続いていて、エドもそれに一枚噛んでいる。そして、そんな彼を支援するのがラナの役割だった。といっても、主にはロウガや魔術協会とのやりとりと、懐古症候群の目を引きつけるくらいのことしかできないのだけれど。


「ラーナーっ!」

「ひゃっ!?」


 横合いから勢いよく抱きつかれた。驚いて見れば、白銀の髪を振り乱したアイシャと、その腕の中にある灰色の猫の人形――ニャン太が揃ってラナを見上げている。


「大丈夫でしたかにゃ? 怪我とかはにゃあですか?」

「ないよ」ラナは血の滲む右手の甲を隠しながら笑った。「それよりも、急な呼び出しだったのに来てくれてありがとう」

「んんん、構いませんのですにゃ。他ならぬ友達の頼みですからにゃ」


 ニャン太の頭をこくこくと動かして、アイシャはラナから身を離した。そこで彼女の動きが止まる。視線の先にいるのは、裏通りに佇むアランだ。

 ラナは苦笑いして、小声で言った。


「あの人が家事手伝いの依頼人だよ」

「……にゃんで、その人がここにいるんですかにゃ?」

「うーん、まぁその、色々あって」


 心配されていた手前、なんとなくアイシャには事情を言いづらかった。曖昧に肩をすくめれば、なぜかアイシャの赤の目がきゅっと細くなる。


「あの人、いけ好かにゃあですにゃ。なんとなく」


 ぽそと呟かれた言葉に、ラナが苦笑いする。

 そこで時計台の鐘が鳴り始めた。アイシャが我に返ったように顔を上げる。


「いけないですにゃ……!? ヒル先生との約束の時間ですにゃ!?」

「え」ラナは目を丸くした。「ちょっと、今日は診療所の手伝いをする日だったのかい!? そういうことなら、そっちの約束を優先してくれればよかったのに」

「にゃにゃにゃ……間に合うと思ったんですにゃ……一大事ですにゃ……!」


 アイシャはいそいそと身なりを整え始めた。黒のワンピースの埃を払い、胸元のリボンに傾きがないかを確認する。


 ゆらゆらと揺れる髪の毛先に土汚れがついていた。ラナが手を伸ばしてそれを拭えば、アイシャがぱちりと目を瞬かせてニャン太の両手をあわせる。


「あ、ありがとうございますにゃ……!」

「いいよ、気にしないで。というか、本当に無理させてごめん」

「のーぷろぶれむなのですにゃ。それじゃあ、ニャン太とアイシャはこれにて失礼つかまつりますにゃ……!」

「うん。ヒル先生にちゃんとアピールできるように祈ってるよ」


 ラナの最後の言葉に、アイシャはほんのりと頬を染めてニャン太と共に頭を下げた。

 慌ただしく駆け出す後ろ姿は微笑ましい。ラナは思わず頬を緩めた。アイシャがヒルの診療所を手伝っているのは善意からだが、彼女が若い医者に淡い恋心を抱いているのも事実なのだった。


 やっぱり、恋っていうのはこうでなければ。暖かくて、甘酸っぱくて、見ているこっちも応援したくなるようなもの。ラナが一人納得したところで、控えめに名を呼ばれた。


「ラトラナジュ」


 振り返った先にいたのはアランだ。物言いたげな目でこちらを見つめる男に、ラナは腰に手を当てた。


「呆れた。まだいたのかい」

「……用がある」

「私はないけど」

「君の、気分を害していることは理解しているつもりだ」


 先程までの饒舌さが嘘のように、アランはゆっくりと言葉を紡いだ。


「それについては意図したところではないし、謝罪もしよう。その上で話を聞いて欲しい……あぁいや、ともすると、これさえも君は施しだと感じるだろうが、そんなつもりはないんだ」

「ねぇ」ラナは腕を組んでアランを睨めつけた。「何か言いたいなら、はっきり言ってもらわないと」


 アランは戸惑ったように目を伏せた。ほんの少しの沈黙の後、ラナの右手を見やって、胸元からハンカチを出す。


「怪我をしているだろう。これで血止めをした方がいい」


 予想外の提案に、ラナはぱちりと目を瞬かせた。差し出された紺色のハンカチが風に揺れる。まじまじとアランの顔を見やれば、整った面立ちがほんの少し憂いを帯びているような気がした。


「……ありがと」


 ややあって、ラナはハンカチを受け取った。右手の掠り傷へハンカチを当てれば、アランが少しばかりほっとしたような顔をする。

 ラナは思わず呟いた。


「あんたも、そんな顔をするんだ」

「そんな顔?」

「なんていうか、嬉しそうな顔」


 アランが意外そうに眉を上げた。


「俺は今、そんな顔をしているのか?」

「してるよ。え、まさか気づいてなかった?」

「……そう、だな」


 アランは口元を手で覆った。何かをまじまじと考え込んでいる。その表情が至極真面目で、ラナはしばらくして噴き出した。


「変なの。自分の顔のことだろ」

「変」アランは眉根を寄せた。「それはマイナス評価ということか?」

「まさか。褒めてるんだよ」


 少なくとも、今までの表情の中では一番好きかも。そう付け足せば、アランは再び黙り込んだ。金の目を何度か瞬き、やがてゆっくりと口を開く。


「理解しかねる、な」

「え?」

「君は、俺のことが嫌いなのだろう」


 ラナは笑みを収めた。


「……それはまぁ、そうだけど」

「それでも、俺のことが好ましいというのか」

「顔だけね」


 そう言って、ラナは慌てて言葉を付け足した。


「あぁいや待って、今のはなんだか誤解を招きそうな言い方だったけど! 違うんだ、なんていうか。今までのあんたって、嘘くさい感じだったんだよ。贈り物もたくさんくれたけど、なんだか空っぽな感じだったし」

「空っぽ」

「そう。でも、さっきは違っただろ。私の怪我のことを心配してくれてたし……多分、私がハンカチを受け取ったから嬉しいって……思って……そういうのが伝わったから、嬉しくて……」


 いや待て。どうして自分はこんなことを説明しなければならないんだろう。そもそも、アランが本当に嬉しいと感じていたかどうかは分からないのだ。もしも勘違いだったら、とんだ笑い草だった。


 ラナは尻すぼみに口を閉じてアランを見やる。目の前の彼はしかし、相変わらず腑に落ちない顔をしていた。


「やはり、分からないな」アランは目を伏せた。「俺は、君を喜ばせたかったんだ。贈り物はそのためのものだ」

「……その発言だけ聞くと、怪しさしかないけどね」

「そのことは謝罪する。だが……ならばどうすれば、今みたいに喜んでくれる? 俺が分からないのはそこだ」


 少なくとも、今までは贈り物をすれば笑顔になってくれたのに。そっと付け足された言葉に、ラナの胸がつきりと痛んだ。今この時ばかりは、彼の目に映るのは自分以外の女の影に違いなかった。


 当然じゃないか。見目麗しい彼のことだ。今までに何人もの女と付き合ってきたのだろう。それを咎める権利など、ラナにあるはずもない。


 ラナはハンカチをぎゅっと握った。妙な痛みをため息に紛らわせて、口を開く。


「あのね、贈り物が悪いわけじゃあないんだよ。あんたが極端なだけなのさ。贈り物って、値段とか綺麗さとか量とかじゃないんだ。贈り物をあげたいっていう気持ちが大切なの。そういう、誰かを思う気持ちがあれば、贈り物なんかなくても笑顔にしてあげられるはずだよ」


 言葉を切って、ラナはアランをじっと見つめた。


「ねぇ、アランさん。あんたはなんで、私を喜ばせたいの?」

「君を幸せにすることが、俺の望みだから」


 アランの声はささやかだが、はっきりと届く。

 それはやっぱり、ラナにとっては理解し難い言葉だった。彼と自分が接した期間なんて、たかが一ヶ月だ。たったそれだけの間に、彼が一体、自分の何を知ったというのだろう。そう思う。


 けれど同時に、なんとなくそれを口に出したくはない――そう思ったところで、ラナは気がついた。


 多分自分は、この妙な男を許し始めている。どこまでも完璧で、なのに肝心な何かが抜け落ちている、この男を。


 ラナは息をついた。こちらを伺うような目をする男を見据えて、ほんの少し笑う。


「……分かったよ、分かった。あんたの勝ち」

「ラトラナジュ?」

「元はと言えば、あんたのことをちゃんと理解しようとしなかった私も私だし。だから……引き続き、あんたのところで仕事をさせてもらってもいいかい?」


 そうやって、ちょっとずつ彼のことを知っていけば、何か見えてくるものもあるかもしれない。そう思って、ラナはそっとアランの手をとる。


 彼の指先は相変わらず冷たくて、けれどほんの少し心地よかった。


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