2-2. 耳に気をつけて下さいね
その日の夕食を、ラナは一心不乱に作っていた。
湯気の立つスープにパセリを散らす。サラダボウルには露天で買った新鮮な野菜を千切っていれ、調味料を混ぜて作ったソースをたっぷりとかける。最後に自家製のトマトソースで煮込んだ肉を白皿に盛り、付け合わせのパンを添えれば出来上がり。
そうして出来た食事を黙々とテーブルに並べれば、一足先に席についていたエドがぼそりと呟いた。
「ラナ、何かあっただろ」
彼の黒灰色の目には確信の色が滲む。ラナは目をそらした。
「あった、といえばあったよ」
「曖昧だな」
「むしゃくしゃしてやったの」
「家事手伝いの仕事で何か揉めたんだな」
同居人の指摘に、ラナは唇をきゅっと噛んだ。
脳裏によぎるのは、先程のアランとのやりとりだ。小綺麗な贈り物、意味ありげな仕草、そしてラナの大切な全てを否定するような言葉。
思い出しただけで腹が立ってきて、ラナは大きく息を吐き出しながら乱暴に椅子に座った。
そうしてスプーンを取り上げたところで、エドの物珍しげな様子に気づく。
「……なんだい、エド」
「いや、君がそんなに怒るのも珍しいなと思って」
「それくらい嫌なことがあったんだよ」ラナは乱暴にパンを噛みちぎった。「それより、エドは今日の仕事はどうだったの」
エドはスープをすくい上げながら、小さく笑った。
「どうって、いつもどおりさ。特に問題なし。タチアナさんから依頼されてたテレビの修理も無事に終わったしね。あとは……そうだな。そのタチアナさんなんだけど、ヒル先生の病院で働いてるらしいんだ」
「ヒル先生って、診療所の赤毛の先生?」
「そう。タチアナさんは、事務方の仕事をしているみたいでね。なんでも、昔ヒル先生に手術してもらったんだって。その縁で、って言ってたかな」
「意外と世界って狭いもんだね」
「でも悪くはない縁だ」
エドがしみじみと言って目を細める。それにラナも曖昧に頷いた。
縁、はエドが昔からよく使う言葉だった。この世界は縁で繋がっていて、けれど同時に、すぐに切れてしまう程度の繋がりでもある。だから、どんな些細な出会いでも大切にすること。
ならば自分も、もう少しちゃんとアランと向き合うべきなんだろうか。罪悪感めいた感情がラナの胸を刺す。それを慌てて、彼女は否定した。気を紛らわせるために、パンを全て食べ終える。
エドがスープを飲み終えた。いそいそと立ち上がる同居人に、ラナは小さく笑う。
「エドって本当にスープが好きだよね」
立ち止まったエドは、至極真面目な風を装って口を開いた。
「君の作ってくれた物だからね。まぁ、一番最初に作ったスープはしょっぱすぎて、とても飲めたものじゃなかったけど」
「あの時はそれが良いって思ってたんだよ」ラナは唇を尖らせた。「ていうか、昔のことを引っ張り出してくるのはどうかと思うんだけど?」
二人は互いに見つめ合う。そしてやがて、どちらからともなく噴き出した。十年間、何一つ変わることのないやりとりだった。他愛もない、平凡な時間。
あぁでもきっと、平凡だからこそ安心していられるのだ。少なくとも、アランと一緒にいる間は少しだって心が休まらないのだから。しみじみと思いながら、ラナはスープを口に運ぶ。
暖かなスープは、いつもと変わらない優しい味がした。
*****
翌日、ラナは階下の天秤屋を訪れていた。ラナ達がサブリエで暮らし始めてからずっと世話になっている店主は、今日も今日とてアンティークに囲まれている。
その彼に向かって、ラナはまっすぐに頭を下げた。
「……というわけで、家事手伝いの契約を断りたいんです。せっかく紹介して頂いたのに、すみません」
「んんーっ、そっかー!」
じっとラナの話に耳を傾けていた店主は、小瓶から取り出した歯車を磨く手を止めた。油で汚れた拡大鏡を頭に押上げ、困ったようにぼりぼりと頬を掻く。
「いやいやしかしねえっ、あのアランが君を困らせるなんて全然想像できないよねっ。女性に対する振る舞いは完璧そうに見えるけどもっ」
「振る舞いは完璧なんですけど、距離の詰め方がおかしいんです」
「ははっ、相変わらずはっきり言うねぇ、ラナちゃんっ。そういうところは、エドワード君の教育の賜物ってやつかなっ」
「なんでそこでエドが出てくるんですか」
「んふふー、君たちは思ってる以上に互いに影響しあってるってことだよっ」
快活に笑う店主に、ラナは咳払いをした。とにかく、と前置きしながら、小脇に抱えていた契約書――天秤屋の主人は紙でやりとりするのが好きなのだった――を机の上に差し出す。
「本当に申し訳ないですけど、この契約は破棄でお願いします」
「んんーっ、なるほどなるほどっ……」店主は愉快そうにきらめかせた目を、ラナの背後へ動かした。「だ、そうだけどねっ、アラン」
ラナは弾かれたように振り返った。朝の光差す入り口の近くにアランが佇んでいる。逆光のせいで表情はよく見えない。けれど好意的な感情を抱かれていないだろうことは分かった。
なんでもっと早く言ってくれなかったんだ。ラナは店主を一睨みし、契約書を押し付けた。そのまま目も合わせずにアランを押しのけ、店を後にする。
裏路地は、夏特有のこもった熱と臭いで満たされていた。じっとりと肌にまとわりつく空気に顔をしかめながら、ラナは足早に歩を進める。
されど案の定、追いかけてくる靴音が聞こえた。
「ラトラナジュ」
低い声とともに、腕を掴まれた。
振り返ったラナは不機嫌さを隠しもせずにアランを睨む。彼は整った面持ちに僅かばかりの困惑の色を滲ませて首を傾けた。
「契約を破棄するというのは本当か?」
「そうですよ」
「なぜ」
「なぜ?」ラナは失笑した。「態度が気に入らないんですよ。あんた、物さえあげれば女なんて喜ぶと思ってるでしょう」
「……今まではそれで問題なかった」
「へぇ、そうですか。随分と女性の扱いが上手だったんですね」
ラナは刺々しく呟いて、乱暴にアランの手を振り解いた。彼が何かを言い出す前に踵を返す。
目前に迫る表通りを睨みつけながら足を動かした。一片の後悔もなく、別れてやろうと思った。まずは表通りに入って、この男の追跡から逃れる。それからもう一度天秤屋に戻って、店主に話をつければいい。
当面の方向性を決め、表通りへ足を踏み入れる――その直前で、再び腕を乱暴に引かれた。
ラナは思わずたたらを踏んだ。そのままアランの胸元で抱きとめられる。
「っ、ちょっ、むぐ!?」
「静かに、ラトラナジュ」右手でラナの唇を塞いだアランは、剣呑な光を宿した金の目でちらと表通りを見やった。「
野太い咆哮が空気を震わせ、ラナは思わず表通りへ視線をやった。悲鳴が響く。逃げ惑う人々をなぎ倒すようにして巨大な猿のような影が通りを横切っていく。けれど何よりもラナの目を引いたのは、自分が今しがた足を踏み出そうとした場所に、深々と突き刺さるひしゃげた街灯だった。
ラナは思わず、ごくりと唾をのんだ。
「……あ、りがとうございます」
「礼には及ばない」アランはにこりと微笑んだ。「君の身に、万が一のこともあってはならないだろう?」
「そういう心配は結構なんですけど……」
「あぁラトラナジュ」
アランは大袈裟に息をついて頬を緩ませた。
「気遣いは不要だ、愛しの君。魔術師は懐古症候群を狩る。これはいつの時代になっても変わらない摂理だし、当然俺は、君のためならば幾度だってアレを排除してみせよう」
「あぁもう、そういうことでもないんだってば!」
ラナは身をよじってアランの拘束から逃れた。首を傾ける男を尻目に、ズボンのポケットから携帯端末を取り出す。
メッセージを打ち込みながら、ラナは表通りをちらと見やった。
巨大な猿は時計台に向かって突っ走っている。それが通った後の道は抉れ、運悪く進行方向上にいた車は真っ二つに割れていた。懐古症候群の異能であることは明白だ。それが証拠に、褐色の体毛の周囲の空気は黒く染まり、陽炎のように揺らめいている。
状況を判断するまでに一秒、メッセージの返信が返ってくるまでに三秒。そしてラナは端末を握り、薄っぺらい笑みを貼りつけた魔術師を一瞥した。
「耳に気をつけて下さいね」
アランが怪訝な顔をする。その隙をついて、ラナは表通りへ身を躍らせた。猿を追いかけることはしない。通りの真ん中で立ち止まる。携帯端末を再び叩き、思い切り高く放り投げる。素早く両耳を手で抑える。
次いで、宙を舞う携帯端末から空気を裂くような鋭い音が響いた。耳をふさいでいても頭痛を催すような音波に、ラナは顔をしかめる。騒音じみた音に表通りにいた人々が悲鳴を上げるが、その声さえもかき消されてよく聞こえない。
けれど果たして、猿はぴたりと動きを止め、ぐるんと頭をラナの方へ向けた。
音が止む。携帯端末が落ちてくる。それをラナが掴むのと、異形の懐古症候群が唸り声を上げながら向かって来るのは同時だった。
距離は瞬く間に詰められ、割れた石畳の欠片がラナの手の甲に鋭い痛みを残していく。腐臭をまとった雄叫び、
そして。
『
機械じみた女の声とともに、猿の頭が横合いから勢いよく叩かれた。巨体が宙を舞って吹っ飛ぶ。代わりにラナの眼前に降り立つのは、獣を模した仮面をつけた黒灰色の髪の男。
片手に握った短剣をくるりと回す彼に、ラナは詰めていた息を吐き出した。
「思ったより早かったね、エド」ラナはゆるゆると笑った。「さっきのメッセージだと、あと3秒後の到着だったはずだろ」
「仕事の速さが売りだから」
仮面を片手で押し上げたエドは、「それに」と付け足しながらアランの方を意味ありげに見やる。
「もうあと一歩遅かったら、そこのいけすかない魔術師が面倒事を起こしてくれそうだったし」
確かにそれは否定できない。ラナは苦笑いしかけ、はたと気づいた。どうしてエドはアランが魔術師であることを知っているのだろう。
そこで、砂塵と破壊を撒き散らして猿が身を起こした。身を固くするラナを庇うように足を動かし、エドが再び仮面をかぶる。
「しつこいな。頭はちゃんと揺らしたはずなんだけど」
「もしかすると、懐古症候群の本体じゃないとか?」
「なるほど、それはありえるか」
エドが首肯する。そこでラナの握る携帯端末が鳴動した。新着メッセージに表示された内容をラナはさっと目で追いかける。
「ロウガさんから今連絡があったよ。この辺りの通行規制はかけた、って」
「到着までは?」
「あと十三分」
「遅いな」
「仕方ないだろ、私と同じ普通の人間なんだから……あぁ、あと、
「……魔術協会は信用ならない。特にあの神父は」
「エド」ラナは顔をしかめた。「魔術協会の人はずっと協力してくれてるじゃないか。いい加減に信用したらどうなんだい?」
ラナが咎める声も聞かず、エドは猿に向かって駆け出した。地面を蹴って高く跳躍する。そして彼は仮面のこめかみを叩いた。
『
機械の駆動音と共に仮面が組み変わり、エドの落下速度が上がる。勢いそのままに、彼は猿の顔面めがけて短剣を振るった。
小さな刃を横薙ぎにするように、猿が巨腕を動かす。長く湾曲した爪が短剣を受け止めるが、エドの腕は身丈に似合わぬ
斬撃の応酬は五度。拮抗する盤面の流れを変えたのは一人の少女の声だった。
『巡りの血の果て 煉獄の底』
エドが弾かれたように後退する。追いすがる猿の周囲に緋色が舞い、直後業火の柱が突き立った。悲鳴を上げる猿を頭上から見下ろすは、こわばった面持ちのアイシャだった。紋様の刻まれた右手を掲げ、左腕には灰色の猫の人形をしっかりと抱えている。
エドが動いた。炎に巻かれて身をよじる猿に向かって跳躍する。その仮面が彼の指先の合図とともに組み変わる。
『
鈍色に輝く短剣の刃が、猿に向かって躊躇なく振り下ろされた。
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