2-1. 可哀想なんかじゃありません


「目を覚ましなさいよ、ラナ!」


 遠慮の欠片もない親友の意見に、ラナは思わず眉根を寄せた。


 科学都市サブリエで一番人気を誇る洋菓子店ハミンス。週末の午後を楽しむ客たちで混み合うテラス席には燦々と陽の光が注いでいる。

 ラナ達の座るテーブルの中央には、色鮮やかなケーキを盛り合わせた大皿が置かれていた。それをぐるりと囲んで、淹れたての紅茶を注いだ白磁のティーカップが並ぶ。


 呆れ顔のシェリルが、片手に持ったスプーンを揺らした。


「いい? そのアランって男、絶対にあんたの身体目当てだわ」

「身体目当てなんて……」

「そうでしょ? 若い女の子が家に来るのよ? そういう怪しい男がいたっておかしくない。あんたが家事手伝いとして働くって言い出した時から心配してたことだけど!」

「アランさんはそんなんじゃないってば」

「あらあら、まぁまぁ。出会って一週間しか経ってないのに、大層な自信ですこと」シェリルは大袈裟に眉を上下し、隣でいそいそとケーキをつつく少女を見やった。「どう思う? アイシャ」

「にゃ!?」


 突然水を向けられたアイシャは、小さく咳き込んで灰色の猫の人形を抱きしめた。シェリルは軽く鼻を鳴らしてティラミスを口に入れる。

 なんなんだよ、一体。ラナは鼻に皺を寄せ、ショートケーキへ乱暴にフォークを刺した。


 アラン・スミシー。それが謎めいた依頼人の名前なのだった。奇しくも日記に出てくる男の名前と同じだ。だからなのか、見知らぬ人間という感じがしない――とはいえ、日記のことは誰にも言えない秘密なのだけれど。


 ともかくもラナは、親友たちに依頼人とのやりとりを語ったのだった。これ自体は珍しいことではない。仕事についての話題は、今日に限らずよく上がる。それは香水屋を営むシェリルの愚痴だったり、魔術師であるアイシャの初恋の相談だったり、色々だった。


 それでも、少なくともラナの仕事の話で、こんなに批判されるのは初めてだ。納得いかない。二人だって本物のアランを見れば、そういうことをするような男じゃないって分かるだろうに。あれこれと文句を言いたいのを堪え、ラナは黙々とケーキを食べる。


「むむむ……ですけどにゃ……」


 灰色の猫を片手で器用に操り、アイシャがそろりとラナを見やった。


「んんん……その、アランって男のことはよく知らないですけどにゃ……でも、ラナが心配だっていうのは、ニャン太もアイシャも同じですにゃ……」

「そうよ、ラナ」シェリルもしたり顔で頷いた。「私たちは心配してるのよ。あんたって存外流されやすいじゃない。アイシャから借りた陳腐なロマンス小説でだって泣いてたでしょ」

「どの話のことですかにゃ? 紳士なおじさまと幼妻の禁断の恋の方? それとも拗らせ王子と男装ヒロインの愛と憎しみのラブロマンスの方ですかにゃ?」

「……ちょっと待ちなさいよ、アイシャ。あんた、そんなものまでラナに貸してたの?」

「にゃにゃにゃ……だって、電子端末に一括で保存してたのですにゃ……なら、ここぞとばかりに全部おすすめしたい気持ちになってしまったのですにゃ……」

「あぁもう! 二人とも、うるさいなぁ!」


 せっかく頼んだショートケーキなのに、ろくに味わえもしない。ラナは親友たちをじろりと見やった。


「あのねぇ、二人とも。仕事として行ってる以上、ちゃんと雇用関係があるんだよ? そういう契約だって結んでるもの。だから間違いなんて起こらないってば」

「危険なことにはね、首をつっこまないのが一番なのよ」

「危険じゃないってば。絶対に大丈夫」

「あぁそう、そうですか」


 シェリルのなおざりな返事に、ラナは唇を尖らせた。気持ちを落ち着けようとフルーツタルト――二つ目のケーキは、この店の看板メニューだ――へフォークを伸ばす。それはしかし、横合いから伸びてきたアイシャによって奪われてしまった。

 ラナが顔をしかめる中、シェリルが優雅に紅茶に口づける。


「まぁ精々、贈り物には気をつけなさい」

「……贈り物って、どういうことだい」

「言葉通りの意味よ」


 シェリルはすまし顔で言った。


「男の人がしつこく贈り物をしてくる時は、絶対に下心があるんだから」


*****


 シェリルもアイシャも良い友達だけれど、時々どうしてお節介だ。


 休みが明けても、ラナの不満はさっぱり解消されなかった。約束通りの時間にアランの住むアパートを訪れ、手際よく家事をこなす。その間も、ふとした瞬間に親友たちの忠告が蘇っては、すっきりしない気持ちになるのだった。


 それでも、ラナの気持ちなど関係なしに目の前の男は美しいのだけれど。居間のテーブルを拭きながら、ラナはそっと盗み見する。


 布張りのソファに背を預けたアランは、煙草をふかしていた。その片手にあるのは、今どき珍しい紙の本だ。

 文字を追いかける金の目に、長い睫毛が影を落としている。それにしばしラナが見とれていると、アランがゆるりと視線を上げた。目が合う。思わずラナが息を飲めば、アランは煙草をくわえたまま、白煙を揺らして音もなく笑んだ。


「そんなに熱心に見つめられると舞い上がってしまうな」

「あ、いやえっと……!」


 ラナは赤面して手元へ視線を落とした。布巾をぎゅっと握り、頭に真っ先に浮かんだ言い訳を口早に告げる。


「そ、そういえばアランさんって、いつも宝石を身に着けてらっしゃいますよね……!? 宝飾関係のお仕事をされてるんですか?」

「いいや」アランは左手をゆるりと振った。装飾腕輪レースブレスレットの鎖がこすれて午睡ごすいの空気を軽やかに揺らす。「この宝石は使うものさ」

「使う、ですか」


 ラナがそろりと目を上げれば、アランが椅子から腰を浮かせた。ゆったりと歩を進めながら腕輪に嵌った石を外し、それに軽く口づける。


『冠するは星 消えぬ瞬きにて祝福せよ』


 ぱきんと石が砕ける。アランが腕を振るうと同時に、彼の指先から光の粒が溢れて舞った。きらきらと光るそれはラナへ降り注ぎ、触れようとすれば儚く光って消えてしまう。


 目を丸くするラナに、アランは忍び笑いをした。


「輝石の魔術と呼ばれるものさ。気に入ってくれたかな」

「すごい……!」ラナは頬を上気させて頷いた。「これ、すごく綺麗です……!」

「きっと気に入ってくれるだろうと思ったよ。どうだろう、君も試してみるか?」


 アランはラナの前に膝をついた。流れるような動作でラナの手を恭しく取り上げ、別の宝石を一つ落とす。その石は、透明な硝子に煙を閉じ込めたような色をしていた。


 ラナは目を丸くした。仄かに冷たい宝石を慌てて突き返そうとする。


「え、ちょっと……! 私は普通の人間ですよ…!?」

「いいから試してみなさい。存外、やってみればできるかもしれない。魔術の素質があるかどうかは、やってみないと分からないからね」


 アランはラナに宝石を握らせ、一段声を落として囁いた。


「いいかな、ラトラナジュ。これは煙水晶スモーキークォーツだ。魔術を扱う時には石に見合った言葉で指示を出さねばならないから、今日は煙水晶に似合いの言葉を使おうか」

「似合いの言葉、ですか」

「心配しなくてもいい。俺に続けて言葉を繰り返してみなさい。冠するは」


『――か、冠するは煙 儚き幻にて万象を欺け』


 アランにつられて、思わずラナは小さな声で言葉を紡ぐ。


 瞬間、輝石が爆ぜるように砕けた。細かな破片はたちどころに消え、代わりにゆらりと灰色の煙が上る。


「……できた」


 目を丸くするラナに、アランはにっこりと笑む。


「上出来だ。君には魔術師の素質があるようだな」


 お茶でも用意しようか。上機嫌に付け足して、アランは炊事場キッチンへと姿を消した。


 ラナはまじまじと宝石の消えた掌を見つめた。まさか自分が魔術を使えるなんて思ってもみなかった。


 魔術師といえば、懐古症候群トロイメライと戦う人間だ。数こそ少ないけれど、ラナにとっては身近な存在でもあった。懐古症候群に対抗するための公的な組織は警察だが、しばしば、エドが彼らに協力して懐古症候群を追いかけているからだ。魔術師であるアイシャや刑事との繋がりを持つシェリルと知り合ったのも、懐古症候群絡みの事件を通してのことだった。


 何の力も持たないラナは、こと懐古症候群に関してはエドを手助けすることしか出来ない。けれど、もしも自分も魔術を使えたら? もっと出来ることの幅が広がるんじゃないだろうか。 


 ねぇ、ちょっと待って。まさか、本当に魔術を使えるって思ってるわけじゃないでしょ。頭の中でシェリルの顔をした理性が目くじらを立てた。きっとアランはあんたをその気にさせようと細工したのよ。そうじゃなきゃ、おかしいわ。家事手伝いに行った先の依頼人が魔術師で、彼に誘われて試してみたら魔術が使えた、なんて。アイシャの好きな小説じゃあるまいし。


 分かってるよ、そんなことくらい。空っぽになった掌を動かしながら、ラナは口うるさい説教へ向かって舌を出す。


 そこでピタリと動きを止めた。


「……ちょ、ちょっと待った!」


 ラナの悲鳴に、炊事場からアランが半身を覗かせた。


「どうかしたか、ラトラナジュ」

「宝石が無くなってるじゃないですか!」ラナは顔を青ざめさせた。「ど、どうしよう……!? これ、高価なものなんですよね……!?」


 アランは目を瞬き、やがて可笑しそうに笑った。


「なんだ、そんなことか」

「そんなことじゃないですよ……! だって、私の稼ぎなんかじゃ、宝石を買うことなんて、」

「気にしないでくれ。言い出したのは俺の方だし、宝石の価値などさしたるものじゃない」

「でも、そういうわけには」

「なら、贈り物ということにしよう」

「そんなの、もっと受け取れないですよ……!」

「そうつれないことを言わないで」アランはわざとらしく眉尻を下げた。「どうか、愚かな依頼主の戯れと思って付き合ってくれないか?」


 小首をかしげ、物憂げな眼差しを向けられる。それにラナはたじろいだ。その顔は、ずるい。いくら考えたって、上手い断りの文句が出てこなかった。


「……こ、今回だけですよ」


 ややあって、ラナがなんとかそれだけ吐き出す。そうすれば、アランは「もちろんだとも」と笑顔で応じて。


 そしてその日を境に、アランからの贈り物は毎日のように続いた。


 *****


「いや待って……おかしいだろ……」


 宝石のやりとりからさらに一週間後、乾きたてのタオルの皺を伸ばしながらラナは呟いた。

 目の前にあるのは、こんもりと積み上げられた畳み終わった衣類。そして脳裏に積み上がったのはアランからの贈り物の数々だ。


 人気菓子店のクッキー、知る人ぞ知る名店の紅茶、綺麗にリボンの掛けられた花束。これはほんの一部で、全てを数え上げようとすれば両手があっても足りない。


 仕事が終わるたびに、アランはどこからともなくそれらを取り出す。当然ラナはそれらを断ろうとした。だというのに、彼は事あるごとに理由をつけ――しかも、『贈り物ではない』と主張することも忘れずに――、ラナへとそれを手渡すのだった。


 男の人が贈り物をやたらしてくる時は、絶対に何か下心があるんだから。シェリルの言葉が蘇り、心がいっそう重くなる。さすがのラナも、親友の言葉が真実であると気づいていた。だって、そうじゃなきゃおかしい。彼は見目麗しい青年。かたや自分は何の変哲もない人間だ。一体、何に心惹かれるというのか。


 結局は、ラナの反応を見て面白がっているだけなのかもしれない。あぁきっとそうだ。よっぽどしっくりくる理由を見つけると同時に、ラナの胸にモヤモヤとしたものが広がる。


 ラナは溜息を吐いた。洗濯物をたたみ終え、決意を込めて呟く。


「やっぱり、ちゃんと断ろう」

「何を断るのかな?」


 耳元で艷やかな声がして、ラナは飛び上がった。


 慌てて振り返れば、愉快そうに金の目を光らせたアランがいた。膝を折った彼は、赤面するラナを見やって小首をかしげる。

 その耳飾りが音もなく揺れた。


「今日も元気そうで何よりだ、ラトラナジュ」

「あっ、アランさん……」ラナは恐る恐る壁に掛けられたデジタル時計を見やった。「今日は四時に帰ってこられる予定でしたよね……?」

「君の顔を見たくてね。早く帰ってきたのさ」

「……私の顔なんて、面白くないと思うんですけど……」

「それを決めるのは俺だよ、愛しい君」


 涼しい顔で言ってのけた彼は、おもむろにラナの方へ手を伸ばした。思わず彼女が首をすくめる。その襟元に触れたアランは、微かに空気を揺らすようにして笑った。


「ここ、ほつれているな」

「あ……えっと……」


 どうして今日に限って、エドからもらった白のブラウスを着ていたのだろう。ラナが己に悪態をつく間にも、アランはやわやわと襟元を弄り続けた。その度に引っ張られたブラウスが肌に擦れて落ち着かない。


 ラナは身動ぎした。言葉が口の中で絡まって上手く出てこない。せめて、手の動きをやめて欲しい。装飾腕輪に彩られたアランの筋張った手。それを何とか視界から追い出そうと、ラナはぎゅっと目を閉じる。

 ゆったりとしたアランの声が、ラナの鼓膜を震わせた。


「良い刺繍だな。花の模様が繊細で美しい」

「そ、ですか……」

「それにボタンも良いものを使っている。この材質は貝だろう?」

「詳しいですね……」

「貝も宝石の一種として扱われることがあるからな。石言葉は穏やかな時間だ。まさに今のようなね」


 服の上から鎖骨をなぞるようにアランの指先が動き、襟元の釦を引っ張った。ラナは掌に爪を立て、飛び上がりそうになるのを必死にこらえる。


 穏やかな時間なんて、とんでもなかった。


 衣擦れの音が間近で聞こえる。申し訳なさそうに床が軋む。思わず後ろ手に床をつけば、タオルの山が柔らかな音を立てて崩れた。それでもアランの指先は止まってくれない。


 何もかもが空気を色めかせ、じわじわと自分に染みるような気がする。せめて香水の香りだけでも追い出そうと、ラナはほんのりと唇を開けて浅く息を吐いた。


 駄目だ。やっぱり目を開けないと。このままはまずい。溺れる間際の人間のように断片的に思って、堪えきれずに瞼を上げる。


 心臓が止まるかと思った。

 星のように煌めく金の目が間近にある。


「惜しむらくは、君を彩るにはこのブラウスは少々古いということだ」美しい獣さながらに目を細め、アランは内緒話でもするように囁いた。「可哀想に、ラトラナジュ。買ってあげようか?」


 ――男の人が贈り物をする時はね、


「っ……!」


 唐突に蘇ったシェリルの声に、ラナは思わず両手でアランを突き飛ばした。彼が意外そうに両眉を上げる。その男を、ラナは肩で息をしながらきつく睨みつけた。


 急に現実が戻ってきた。甘い香りも鼓膜をくすぐる音も、確かにそこにあるのに今は遠い。眼前にあるのは床に散らばった衣類だ。ただそれだけだ。

 窓から差し込む日差しが、ほんの少し陰りを帯びる。


「……いら、ないです」

「ラトラナジュ?」

「服は、要らない」


 短く繰り返せば、アランがゆっくりと目を瞬き、やがて小さく笑った。


「ラトラナジュ、遠慮はいらないと言っただろう?」

「遠慮とかじゃありません」

「君は美しい」アランがまなじりを下げる。「ならば、それに見合うだけの服を着るべきだ。悪いことは言わない。そんな古びた衣類など捨ててしまいなさい」

「っ、これは、家族からもらった大切なものなんだ!」


 頭に血を上らせてラナは叫んだ。アランが驚いたように口をつぐむ。それにけれど、今は怒りしか浮かばなかった。


 この依頼人は美しいだけだ。そんな人に、エドからの贈り物を馬鹿にされる筋合いなどない。まして、好きなように弄ばれてやる義理だってない。


「私は可哀想なんかじゃありません」


 ありったけの軽蔑を込めて呟いて、ラナは立ち上がる。そのままアランの方を一度も見ることなく部屋を飛び出した。

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