[load.preiades(114105:114106)] La storia inizia con addio.
EP4:SIO2 貴方が残した感情の名前
1. 待っていたよ、ラトラナジュ
「キセキは、どこから生まれると思う?」
穏やかな声に振り返る。
娼館一番の大きな部屋は、茜色に染まっていた。開け放たれた窓から入るのは夕焼け色の光と、帰宅を急ぐ車の音。時折響くクラクションの音が、夜を目前にした気怠い空気をかき混ぜる。
街の雑味と埃とを孕んだ風がゆるりと吹いた。茜差す空気の中、窓辺に腰掛けた彼の薄金色の髪が揺れ、細められた金の目が星のように煌めく。
世界中の、全ての美しいを集めた彼の視線が注がれている。それだけで嬉しくて、気恥ずかしくて。ほんの少し、この人とは親子なんだってことを思い出して、ほろ苦い暖かさが胸に染みて。
それを飲み込んで、大切に閉まって、微笑みながら決めてあった台詞を口にする。
「奇跡なんて……神様の思し召し次第じゃないのか」
私は貴方に、恋をしている。
*****
息を詰めて日記を読みふけっていたラナは、扉の
ラナは慌てて日記を閉じ、それを枕の下に突っ込んだ。ベッドから飛び降りて手早く毛布の皺を整え、戸棚に飾られた懐古時計の傾きを直して部屋を飛び出す。
つま先立ちで廊下を進んで洗面所に飛び込んだ。落ち着き無く蛇口を捻れば、勢いよく水が吹き出す。
「きゃっ……!?」
「……何してるんだ、ラナ」
服の裾を濡らしたまま、ラナは振り返った。
黒灰色の髪と目。機械油でところどころが汚れた麻のシャツを羽織った同居人――エドは、入り口の柱に片腕をかけて、呆れたような視線を送っている。
ラナは目をそらした。
「……ちょっと手を洗おうとしてただけだよ」
「手を、ね……」
「ねぇちょっと」ラナは唇を尖らせる。「何か疑ってるだろ」
「疑ってない。ただ、君は隠し事をしたい時ほどヘマするって知ってるだけ」
「っ、あのねぇ、エド! 私だって、もうすぐ二十歳なんだよ!? そんな子供っぽいことするわけ、」
「洗面台がびしょ濡れなんだけど」
ラナは慌てて蛇口を閉めた。エドが溜息をつく。
そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいじゃないか。ラナがむくれたところで、見知らぬ老婦人が顔を覗かせた。灰色のロングスカートをまとった女は二人を見やって「あらあら」と笑む。
「可愛らしいお嬢さんだわ。もしかして、エドワードさんの奥さんかしら」
「違います」
「ラナ」エドがうんざりしたようにラナを
「元はと言えば、エドがもう少し丁寧に注意してくれないからじゃないか」
ラナがむっつりと答えれば、タチアナと呼ばれた婦人はますます可笑しそうに笑った。エドがやれやれと頭を振って、彼女の背を押す。
「申し訳ありません、タチアナさん」
「いいえ、お気になさらないで。元気なのは良いことだわ」
「テレビの修理依頼でしたよね。話は向こうの部屋で伺いますから」
去り際に、エドがラナを一睨みする。自分より十歳近く年上の同居人に、ラナは負けじと舌を出した。
エドには女心ってものが分かってないのだ。少し遅い昼をとってから家を出たラナは、裏通りを大股で歩きつつ文句を並べる。そりゃあ元を辿れば責任は自分にあるかもしれないけれど。もう少し言い方ってものがあるはずだろう。
そう、例えばあの日記に出てくる彼なら、きっと優しく諌めてくれるに違いない。ラナの心は自然と、毎日一日分ずつ読み進めている日記の方に向かう。
その日記を、エドの部屋で見つけたのは偶然だった。彼の部屋に何かの用事で入った時に、枕の下から一冊の本がはみ出しているのを見つけたのだ。
興味本位で開いてみれば、それを綴ったのはエドではなく一人の少女だった。彼女は養い親である青年と共に暮らしていて、その日常が書かれていたのだった。
日記に出てくる彼、というのは、その青年のことだ。歯の浮くような台詞をさらりと口に出す。いつも穏やかで書き手の少女のことを包み込んでくれる。けれどどこか謎めいた影もある。そんな青年に、日記を読んでいるラナの方も心をときめかせていたのだった。親友のシェリルが見れば顔を歪めそうな類の男だけれど。
あぁそれにしても、これから先はどうなってしまうのだろう。
あれこれと想像を膨らませる内、エドに対する文句はさっぱり消えてしまった。
初夏特有のからりとした暑さが肌を焼く。ラナは鼻歌交じりにステップを踏んだ。ほんの少しガス臭い風に、黒灰色の髪を遊ばせる。表通りに出て、大木の植えられた広場を行き過ぎる。
雲ひとつ無い青空に時計台の鐘の音が響いた。その頃には、ラナはアパートの一室に辿り着いていた。
肩掛け鞄から紙切れを取り出し住所を確認する。ここが今日からの仕事場所だ。期限は三ヶ月。主な仕事は平日の食事の準備と洗濯、それから家の掃除。いわゆる家事の手伝いを生業として働くラナからすれば、難しいことではない。
紙をしまって呼び鈴を押した。依頼人が出てくるまでの間に服を整える。刺繍にほつれがあるのを見つけ、ラナは苦笑交じりに指でつついて隠した。多くはない収入でエドが買ってくれたブラウスだ。家に帰ったら繕わないと。
そこで扉が開いた。
ラナは慌てて頭を下げる。そうして名乗ろうとしたところで、低く艷やかな声が聞こえた。
「……ラトラナジュ」
いきなり名前を呼び捨てにされて、ラナは眉をひそめた。依頼主とはいえ良い気はしない。思わず文句の一つでも言ってやろうと顔を上げ――その顔を見た瞬間、彼女はぽかんと口を開けてしまった。
美しい青年が、目の前にいる。糊の効いた紺のスラックスに、胸元を無造作に開けた白シャツ。左手に
男の金の目が、喜色を宿して蜜のように濃く煌めく。ラナの心臓がどきりと鳴った。そんな彼女を、男は見透かしたようだった。
ほんの少し笑んで、ラナの手をさり気なくとる。
「待っていたよ、ラトラナジュ。愛しいお手伝いさん」
「いとっ……!?」
「さぁ、入ってくれ。中を案内しよう」
ラナが頓狂な声を上げる中、男は手を握ったまま意気揚々と歩き始めた。まだ自己紹介が終わってない。ラナが慌てながらそう思うも、男は一向に気にしていないようだった。
台所の場所、洗濯機の使い方、家のどこを掃除してほしいか。必要最低限の物しか置かれていない部屋をぐるりと回って、男は歌うように説明していく。
彼の説明は、さして難しくない。けれどラナの頭にはちっとも入ってこなかった。
男の美しい面立ちは見えない。なのに、ぴんと伸びた背筋から目が離せなかった。ふわりと鼻先を掠める香水と煙草の香りに頭がくらくらする。
なにより自分達は手を繋いだままなのだ。手から伝わる体温は冷たい。それはけれど、彼の手が冷たいのか、自分が変に意識しすぎているせいなのか、ラナには皆目見当がつかなかった。
「ラトラナジュ、話を聞いているか?」
「っ、はい……!」
廊下の中ほどで立ち止まった男が振り返る。ラナは反射的に首を縦に振った。値踏みするように細められた金の目に、ラナはおろおろと視線を床に這わせる。苦労して、ぼんやりした己の頭を叱咤した。
「ええと……洗濯物は日干しせずに乾燥機にかける。食事の好みはなし。毎日決まった時間に夕食を用意する」
「ふむ。それから?」
「そっ、それから?」
ラナの声が裏返る間にも、男が一歩距離を詰めた。彼の香りがぐっと強くなって、ラナの思考がどんどん上滑りしていく。
彼女は苦労して唾を飲み込んだ。
「そ、それからって……だから……ええっと……」ラナは視線を泳がせ、手近にあった扉を見やった。「あっ、あとはそう! 部屋の掃除ですよね……! 全部の部屋を、っ!?」
男のひんやりとした人差し指がラナの唇を塞いだ。良かった、そうでもしなければ心臓が飛び出たところだった。湯だった頭が至極どうでもいい安堵を吐き出す。そんなラナを男はじっと見つめ、身を寄せた。
「全部ではないよ、お嬢さん。その部屋だけは立ち入らないでくれ」
ラナの鼓膜に艷やかな男の声がじわりと染みる。彼女が呆然と見上げた先で、ひょいと身を離した男は謎めいた笑みを浮かべてみせた。
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