Origin
Stand alone -1-
――歌が、聞こえる。
「暇だ」
「なら手伝ってよ」
西日が、がらくたを積み上げて作られた穴ぐらに差し込んでいる。
絶え間なく続いていた歌が止んだ。悪魔がちらと目を上げれば、古びた段ボール箱が飛び込んでくる。次いで、両手で箱を抱えているラナが顔をしかめたのが見えた。
悪魔はにんまりと笑った。古ぼけたソファにだらしなく腰掛けていた彼は、身を乗り出すように己の膝の上に頬杖をつき、もう片方の手で自身の黒灰色の髪をかきあげる。
「残念だな、ラナよ。俺は思考で忙しくてね」
美青年らしく、悪魔は綺麗に片目をぱちりと閉じる。ラナは眉間に皺を一本付け足した。
「キザ」
「それは褒め言葉かな」
「あんたってば、そういうところは無駄に前向きだよね」
そもそも、暇だって言ったのはあんたの方なのに。ぼやきながら、ラナは悪魔を押しのけ箱を運ぶ。その矢先、彼女は足をもつれさせて盛大にころんだ。
古着、本、何に使うかわからない機械の部品。雑多な物が床に散らばる中、悪魔は足をゆるりと組み替え、ソファに腰掛けたまま小首をかしげる。
「君も物好きなやつだな」
「……何がだい」
「施しをしようという、今の君の行為のことさ」
あからさまな
「死にかけのこの世界で、今更なにをすることがあるんだ? 昨日のラジオでも言っていたぞ。終末は近い。あと数年と経たずに人類は世界から姿を消すだろうと」
「ふん、自称偉大な悪魔さんが人間の言うことを真面目に聞くなんて笑っちゃうね」
「事実だからさ」
「そうだとしても困ってる人はいるんだ。ご飯とか、着る物とか。それを放っておけない」
「そこが君の浅はかなところだよ。我が契約者殿!」
「あんたとは契約してない」
「そうだとも。君が浅慮なせいでな」
うんざりしたようなラナを無視して、悪魔は磨き上げられた革靴の爪先で床を叩いた。大仰に天を振り仰ぐ。
「あぁ、哀れで愚かな娘よ! 考えてもみたまえ。残り少ない余生だ。悪魔に力を望んで面白おかしく生きる方が余程素晴らしいじゃないか。なに、世界はじきに滅びるんだ。どれほど自堕落に過ごしたところで、後々痛い目を見ることもないだろうさ」
「あぁ、そうかい」
「もちろん人助けに力を使い、義にあふれる英雄になるのでも構わない。あるいは、この世界を救うよう願ってみるか? ちっぽけな君一人の命で、死にかけのこの世界が果たしてどこまで救えるのかは分からないが」悪魔は言葉を切り、黒灰色の目で床を見渡した。「だが少なくとも、この床に散らばっている古着や粗末な食べ物よりは、よほど多くの人間を救えるだろうな」
「私には望みがない」
ラナは息をついた。手元の古着を畳む手を止め、目を細める。
「それに、こんなものでも必要としてくれる人がいるんだ。なら、それで十分だよ」
悪魔は呆気にとられた。ついで目をぐるりと回し、白々しい視線を少女に向ける。
「その欲の無さは傲慢だな」
「なんとでも」
肩をすくめたラナは、散らばった荷物を再び箱に詰め始めた。なに一つ変わらぬ彼女へ悪魔は舌打ちする。
なんて強情な娘だろうか。何人もの契約者を見てきたが、ここまで頭の固い愚か者は君が初めてだ。まったくもって幼くて我儘な考えだよ。胸中に浮かんだ小言をそのまま口にすれど、ラナが気にした風もない。
飽きるのは、悪魔の方が早かった。口を閉じ、両腕を組んでラナの作業を見るともなしに見つめ、やがて足元に落ちていた一冊の本を戯れに取り上げる。
「これはなんだ、ラナ」
「絵本だよ、知らない?」
「あぁ、子供だましの夢語りか」
悪魔が放り投げようとすれば、ラナは笑いながらそれを取り上げた。
「そうは言うけど、案外馬鹿にならないよ? 例えばそうだな……ほら、これは呪いのせいで蛙になった王子を口づけで助ける話でね。他にも、千年の眠りについたお姫様にキスをして目覚めさせる物語なんかもあるし」
「口づけ一つで何かが変わるはずもない」
「夢がないなぁ。口づけで救われるからいいんじゃないか。明けない夜は無いって感じがして素敵だろ? なにか特別な力を持ってなくても、幸せな結末を迎えられるんだから」
「なんと、君は幸せの結末をお望みだったか」
言質を得たり。悪魔がにんまりと笑い、胡乱な顔をする彼女の体を引き寄せた。本を取り上げ顔を寄せる。ほんの少しラナの頬に赤みがさした。
まずまずの反応だ。気を良くした悪魔は、ことさら優しく彼女の顎を指先ですくう。
「ならば、口づけでもしてみようか」
「え」ラナの声が裏返った。「い、いや。ちょっと待って……! き、キスとか……だってそういうのは、その……っ」
「実に
もがいていたラナの動きがぴたりと止まった。唇を尖らせた彼女が、すいと黒灰色の目を上げる。
「……ねぇ、あんた。本当に意味が分かって言ってる?」
「無論だとも。誰もが羨む物語の主人公、それが君の望むものだ」
「全然分かってないじゃないか……」
ラナはがっくりと肩を落とした。
「あんたはもう少し人の機微に敏くなった方がいい」
「ふむ、機微……感情か?」
悪魔はゆるりと首を傾げた。
「それなら寸分違わず理解しているつもりだが」
「どうだか」
「あぁ成程。君は俺が主人公の相手役を務められるかどうか不安に思っているのだろう」悪魔は勝手に納得し、胸に手を当てた。「なに、心配は不要だ。契約者の中にはそういう感情的なやりとりを好むものもいたからな。養父、生き別れの兄、恋人。望むように演じることなど容易い」
「その性格で、ねぇ……」
「ふふん、不都合な弱点は全て消し去ってしまえばいい。今だって君がきちんと望めば演じて差し上げよう」
特別にな。甘さを乗せて囁やけば、彼女は何故か眉根を寄せる。
「……そのままのあんたで、十分なんだけど」
「物好きな」悪魔は信じられない思いでラナをまじまじと見やった。「君は痛めつけられる趣味でもあるのか?」
「っ、あぁもう本当に色々台無しにしてくるよね! あんたって! っていうか、性格の悪さを自覚してるなら直しなよ!」
ラナは本気で機嫌を損ねたらしい。悪魔の体を強く両手で押した。するりと拘束から逃れた彼女は、猫のような足取りで部屋の奥へ歩を進める。
さすがの悪魔もこれには慌てた。悪魔は人間の望みを食らって契約し生きながらえる。悪魔を召喚した人間の正体が分からぬ以上、目の前の少女の望みが、現状唯一の悪魔の餌だった。
なんとか機嫌をとらねばならない。あぁだが、なんと面倒なことか。仮にも悪魔が、たかが小娘ごときにこれほど苦労するなど。再び浮かんだ悪態を、今度はすんでのところで飲み込む。
悪魔は猫なで声を出した。
「あぁラナ。愛しい餌よ。悪かった。どうすれば機嫌を直してくれる?」
「餌って言ってる時点で、誠意もなにもないけどね!」
「謝罪ならいくらでもするさ。だからどうか、愚かな悪魔を許してくれないか」
「……なら」
ラナがやっと立ち止まった。何か戸惑うような間の後、伺うようにちらっと振り返る。
「待ち合わせ、しよう」
「待ち合わせ……あぁ、出かけるということか」
悪魔はぱっと顔を輝かせて、ラナの手をとった。
「なにか入り用のものでもあるのか? そうであるならば、早く言ってくれれば良いものを。宝石か? 金か? 出かける必要などないさ。一つ命じてくれればいい。まぁその前に契約は必要だが」
ラナは苦笑いして肩をすくめた。
「違うよ。待ち合わせをしたいの」
「ふむ?」
「昔の人はね、どこかに出かける時は、まず集合場所に集まって、それから移動したそうだよ。ほら、広場の中央に木があっただろ? あそこが待ち合わせ場所に使われてたんだって」
「だが、待ち合わせしてどうするんだ?」
「どうって、どうもしないけど。今更何を見るものもないし」
「……それは楽しいのか?」
「楽しいさ」
ラナはぱっと顔を輝かせた。
「誰かを待っている時間は、いつだってわくわくするものなんだよ」
*****
それから数日後、悪魔はぶらりと人気のない通りを歩いていた。なんということはない、ラナとの待ち合わせの日だからなのだった。
まったくもって、馬鹿げた行為だ。悪魔は思う。思うがやはり、彼女の機嫌を損ねるわけにはいかない。そう割り切って、今がある。
約束の時間まで残り一時間。悪魔は何ともなしに辺りを見回した。
右に廃墟、左に錆びた鉄骨のむき出しになった建物。ときおり建物の影に人の姿は見えるが、じっとしていて動く気配もない。死体が混じっていても気づかないだろうし、実際に混じっているのかもしれなかった。
実につまらないな。死の匂い漂う世界を、悪魔は一笑に付す。そんな彼の足を、一人の男の声が止めた。
「お探ししておりました」
悪魔はぞんざいに振り返った。
通りの真ん中に一人の男が佇んでいる。整えられた黒髪に深緑色の目。おろしたてらしい
男の青白い顔に表情はない。されど彼のまとう、作り物めいた生者の空気は、死にかけの世界にあってひどい違和感を撒き散らしていた。
そしてそれが、気まぐれな悪魔の興味を引く。悪魔は尊大に口を開いた。
「大層な言葉遣いだが、残念だな。俺は君を探していない」
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか。偉大なる悪魔殿」
慇懃無礼な男の態度に、悪魔は鼻を鳴らした。
「名など無いさ。それは契約の証として、契約者が己の都合のために悪魔に与えるものだろう」
「つまり、まだ契約はなさっていないと」
「その通りさ、偽物の魔術師よ」
祭祀服の男の前髪が微かに揺れる。それに悪魔は目を細めた。
「黒髪に深緑色の目はクローンの魔術師の証だったか。悪魔との契約なしに魔術を扱うなど、馬鹿げた話だが」
「……創造主たるプレアデス機関からすれば、造作もないことです。我ら星の守り人は科学と魔術の結晶なれば」
「大した自負だ。それで? 何の用で、この俺を呼び止めた」
「契約を結び、貴方に世界を救って頂きたい」
悪魔は吹き出した。
「馬鹿らしい。人間一人の命で救えるほど、この世界は甘くないぞ」
「いいえ、可能です。プレアデス機関はこの世界を救うための計画を立てた。それに則り、我らは貴方の協力をお願いしている」
「ならば、その計画とやらを話してみろ。一体どうやって世界を救うつもりかね」
祭祀服の男は深緑色の目を暗く煌めかせた。
「無秩序な人類の進歩が、この世界を破滅に追いやった。これがプレアデス機関の出した結論です」
「人類の進歩の成果物が、そんな結論を出すとは皮肉なものだ。で? 次はどうするんだ。人間を殺しでもするのか?」
「いいえ。我らは人類の進歩を殺す」
妙な言い回しに、悪魔は片眉を上げた。男は動じる素振りも見せずに言葉を続ける。
「時間を巻き戻し、不要な人類の進歩を削ぎ落とす。これを百回繰り返せば、在るべき未来へ調整可能である。これがプレアデス機関の下した結論であり、貴殿に手伝っていただきたいことです」
「く、は……ははっ、馬鹿らしいな!」
悪魔の高笑いが曇天を衝いた。男は微動だにしない。それがますます滑稽でならなかった。
「科学の塊であるお前たちが、よもやそんな夢物語にすがろうとは! 結局は愚かな人間の産物ということか!」
「夢物語でもなければ、愚かでもない」
「そうか。ならばどうぞ、勝手に感傷めいた夢に浸っていてくれ。俺はお前との契約に興味はない」
悪魔がぞんざいに手を振れば、男はことりと首をかしげた。
「貴方と契約を結ぶのは私ではありませんが……あぁですが、そうですか。ならば仕方ない」
「やけにあっさりしているな」
「予測される返答の内ではありました。無論、策は無限にありますからお気遣いなく」
「陳腐な空想小説の一節を引用してくれるとは、教養の方も申し分ないようだ」
皮肉にも動じず、祭祀服の男は淡々と頭を下げた。
「お手を煩わせました。よろしければ、何か詫びなどいたしましょう」
悪魔に詫びなど。いつだって望むのは人間で、望みを喰らうのが悪魔だ。そう笑い飛ばそうとしたところで、ふと悪魔は考えを改めた。
「ならば、生花を用意しろ」
「……は?」
祭祀服の男の反応が一拍遅れた。見開かれた深緑色の目はひどく滑稽だ。まさに化かされた人間らしい反応に、悪魔はにんまりと笑いそうになるのを堪えながら、澄まして付け加える。
「両手いっぱいの花さ、愚かな人間よ。なるべく種類は多い方が良い。贈り物だからな、包装もしっかりしてもらわないと困る」
「はぁ……ですが、それは……」
「出来るだろう? お前からは生臭い植物の魔術の臭いがする」
鼻先を動かして返す。そうすれば、祭祀服の男は少しばかりの沈黙の後に一つ頷いた。
それから数十分後、悪魔は男と別れ、花束を抱えて意気揚々と通りを歩いていた。
曇天からぽつぽつと雨粒が落ちて、色とりどりの花弁を濡らす。けれど気にはならなかった。
この花を見れば、きっとラナも驚くだろう。肩が雨に濡れるのも構わず、悪魔は上機嫌に思った。滅びかけた世界において、生花は高級品の一つだ。古来より女は花が好きだと相場が決まっているし、いよいよ彼女は自分を認めてくれるかもしれない。
悪魔の足取りは軽い。雨脚は強くなる。そして彼は広場に向かうための最後の角を曲がり、足を止めた。
廃墟同然の広場には誰もいない。
中央に立ち枯れの木だけがぽつんと立っている。
折しも、約束の時間を告げる鐘の音が響き始めた。
悪魔の手から花束が落ちた。秋雨に濡れる地面に花が散らばる。その花弁を踏みつけ、悪魔は鼻に皺を寄せた。
「――あぁ、臭うな」
気に入らない、偽の魔術師の香りがする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます