11. 気に入ってくれたか?
君の歌は好きだな。背後から飛んできた穏やかな声に、ラナは歌うのを止めた。
「
振り返ったラナは、ぱっと顔を輝かせた。小窓の前に積み重ねた木箱から、転がるように飛び降りる。
森の奥に建てた小屋は古く、あちこちが軋んだ。それでも十歳に満たないラナの体重では、さして大きな音にならない。
朝の光に照らされた床板を軽やかに踏んで養父の元へ飛び込めば、形ばかりの困惑と共に笑顔で抱きとめられる。
「おはよう、ラトラナジュ」金の目を優しく細めた養父がラナの耳元へ指先を伸ばす。「おやおや、寝癖がついているな」
「んふふー! 今日は養父さんより早起きだったよ!」
「そのようだ。さぁ、そこに座りなさい。髪を
「はぁい」
言われるがまま、ラナは窓際の小さな椅子によじ登って座る。ややあって戻ってきた養父は、ラナの髪へ櫛を入れた。
その手つきは強くもなく、弱くもない。それにラナは目を細めながら、足をぶらりと動かす。
養父が苦笑した。
「昨日、ろくに乾かさずに寝ただろう」
「んー、そんなことないよ」
嘘だよ。本当は養父さんに髪を梳かして欲しかったから乾かさなかったの。そんな小さな秘密を言いたいのをこらえて、ラナは澄ました顔で口を開いた。
「ねーえ、養父さん」
「なんだ?」
「養父さんは歌が好きなの?」
「そうだな」養父はのんびりと応じながら、ラナの耳に髪を一房かけた。「俺は君の歌が好きなのさ」
「……それは歌が好きってことじゃない?」
養父は答えなかった。櫛を置き、仕上げとばかりにラナの頭をそっと撫でる。
暖かな重みにラナはくすくすと笑みを漏らした。疑問などどこかへ吹き飛んで、「じゃあ私はねぇ」と、へにゃりと緩ませた顔を上げる。
「養父さんの読んでくれる絵本が好きだよ! 蛙の王子様と眠りのお姫様がね、口づけで呪いが解けて幸せになるお話!」
「そうか」
養父が微笑む。微かに動いた彼の耳飾りと薄金色の髪が、朝日を弾いて眩く輝いた。
*****
「相変わらずの、良い歌だな」
おもむろに響いた声に、ラナは十年前の記憶から引き戻された。窓辺に寄りかかって外を眺めていた彼女は、慌てて振り返る。
教会の二階の小さな部屋だった。開け放たれた窓から午後の日差しが差し込み、ベッドのシーツを柔らかく照らしている。
そのベッドの上で、目を細めたアランが半身を起こしていた。
「養父さん……!」
ラナは声を震わせ、大股でアランの基に歩み寄った。紙袋を放り投げた椅子の横を通り過ぎ、アランの胸元へ飛び込む。
「これはこれは、ラトラナジュ」アランの愉快そうな声が降ってくる。「こんなにも熱烈な抱擁を頂けるなんて、嬉しい限りだな」
「心配した」
「光栄だよ。君に心配してもらえるなんて」
「茶化さないで」
ラナは深く息を吸って吐き出す。煙草も香水も、今ばかりは少し遠かった。それでも確かに彼の香りで、ラナは彼のシャツを皺になるほど握る。
ラナの
「俺はどれくらい寝ていたんだ?」
「二日」ラナは顔をうずめたまま、もごもごと答える。「娼館で、倒れたんだよ。刑事さんが連れてきてくれたんだ。それで、神父さんと一緒に養父さんを教会まで運んだの」
「そうか」
「……そうか、じゃないよ」
ラナは鼻先をシーツに擦りつけた。分かってるの、と呟く。
「たくさん、怪我してたんだ。無茶なんてすべきじゃなかった」
「だが実際は何とかなった」
「そればっかり、じゃないか……」
「……ラトラナジュ?」
「養父さんは、いっつもそればっかりだ……」ラナは喉を震わせた。「私がどれだけ心配したと……」
どっと押し寄せた安堵は暖かな雫となってラナの目から零れた。アランに両肩を掴まれる。みっともない顔を見られたくなくて、ラナはシャツに顔をうずめた。それでも結局引き剥がされる。
アランが目を見張った。
「泣いているのか?」呆然と呟いたアランは、しばしの沈黙の後に気遣わしげに目を曇らせる。「どうした。なにか悲しいことがあったのか?」
ラナは濡れた睫毛を何度か動かした。それでもアランは真剣な顔をしたままで、ラナは思わず涙で濡れた頬をほころばせる。彼はいつだって頭が良かった。けれど時々、ラナでさえ気づくようなことに気づかない。それがなんとなく可笑しくて、嬉しくて。
ラナは緩く首を横に振る。
「悲しいことなんて、ないよ」
「だが泣いているじゃないか」
「養父さんが目を覚ましたから嬉しいの」
「……嬉しい?」
「そうだよ。当然だろ? だってあんたは私の養父さんで……それに、私は……」
ラナはぎゅっと唇を噛む。すんでのところで出かかった言葉を、けれど何とか飲み込んだ。
これは伝えてはいけない感情だ。だって自分は、この人の娘なんだから。ずっと言い聞かせてきた言葉を繰り返し、暖かくて寂しい感情をなだめすかした。
彼は生きていた。それだけで十分じゃないか。自分は彼の娘だ。たったそれだけで、幸せで。
「……私は……」
ぽつと呟いて、それでも涙が止まらなくて、ラナは喉を震わせる。流れる涙に別の感情が滲みそうになり、彼女は慌てて目元を手の甲で擦ろうとした。
その手首はしかし、アランにそっと掴まれる。目を瞬かせれば、アランに静かに引き寄せられた。
ラナは思わず彼の胸板に手をつく。鼓動が一つ、掌の下で鳴った。
「養父、さん?」
「泣くな、愛しい君」アランがラナを抱きしめ、そっと彼女の髪を梳いた。「俺は君のそういう顔が見たい訳じゃない」
アランの腕の中は暖かった。煙草と香水がほんの少しだけ強く香る。慣れた距離だった。髪を梳かしてもらった幼き日と、同じ近さに違いなかった。それでも確かに、これは親子らしからぬ距離だった。
ラナは彼の胸元を弱々しく押した。見上げれば、すぐそばに彼の顔がある。開いた窓から風が吹き、薄金色の髪と耳飾りを音もなく揺らして輝かせた。どんな宝石よりも美しい金の目は細められ、じっとラナにだけ注がれている。
惹かれるように、ラナはそっと彼の唇へ手を伸ばした。親指でそろりと撫でる。しっとりとした感触に鼓動が早くなって、また泣きそうになる。
そしてふと、思い出した。
蛙の呪いを掛けられた王子。千年の眠りについた姫。養父さんの読む絵本が好きと、無邪気に笑う自分の声。
口づけは、幸せな物語の結末でなくてはならない。
ラナはそっと目を閉じた。唾を一つ、飲み込む。
「……煙草、吸っただろ」
呟くように言って、アランから身を離す。未だ心配そうな顔をする養父に向かって、ラナはいかにも娘らしく腰に両手を当てた。
「駄目だよ。病み上がりなんだから、体は大切にしないと」
アランは何か物言いたげな目をしていた。それでもラナが気づかぬふりをすれば、ややあって金の目が静かに閉じられる。
彼は息をついた。
「刑事殿が仕事終わりの一服をご所望だったからな」そっと目を開けたアランは、おどけた調子で眉を上げて微笑する。「なにより、君が傍に居ない療養生活など退屈そのものだろう? 暇つぶしに煙草へ手を出してしまうかもしれない」
「……怪我人なんだから煙草は止めた方がいいよ」
ラナは一抹の安堵ともに苦笑いして、椅子の上に置いていた紙袋を取り上げた。
中に入っているのは天秤屋で買い付けた品だ。魔術に使う輝石の欠片が入った小袋。布に包まれたアランの
怪訝な顔をするアランに、筆記具を差し出してにこりと笑う。
「例えば、絵を描いて暇つぶし、なんてのはどうだい? 養父さん」
「俺が描くのか?」アランが小首を傾げた。「君の絵こそ見たいんだが」
「それじゃあ、養父さんの暇つぶしにならないだろ」
それに、一度でいいから養父さんの絵を見てみたかったんだよね。ラナが期待を込めて筆記具を持った手を揺らす。観念したように息をついたアランが、ペンと紙を受け取った。
ペン先が紙の上をなめらかに動いていく。部屋を満たす沈黙は穏やかだった。窓を横切った小鳥が、白のキャンバスに影を落としていく。陽光が装飾腕輪と懐古時計を柔らかく照らす。開け放たれた窓から、涼やかな風が吹き込む。
しばらくして、アランが手を止めた。その手元を覗き込んだラナは目を丸くする。
猫毛気味の髪に隠れる横顔。どこか物憂げな表情は今の自分そのものだった。
「……絵、上手いね?」
「そうか」アランは少しばかり得意げに肩をすくめた。「なに、絵が下手だと君に嫌われてしまうからな」
「そんなことはないけど……」
ラナは再びアランの絵をまじまじと見つめた。ペンの軌跡が僅かに紙を凹ませている。それを何度も指でなぞった。
まさか、アランがこれほど絵を上手く描くとは思わなかった。純粋に驚く一方で、妙に納得する自分もいる。いつだって完璧な彼に、隙などありはしない。
そういう意味で、この絵はどこまでも彼らしかった。綺麗で、欠点など無くて。
そしてほんの少し、遠い。
「気に入ってくれたか? ラトラナジュ」
降ってきた穏やかなアランの声に、ラナは絵をなぞっていた指先を止めた。
目を伏せたまま、小さく頷く。
「……うん。良い絵だと思うよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます