12-1. Happy-End

 雨が静かに窓を叩き始めた。


 ラナは日記に走らせていたペンを止める。早朝の静かなアパートで椅子を軋ませ伸びをした。自室の窓からのぞむ灰色の街。そして窓に映り込むデジタル時計。そこでやっと、日記を書き始めてから一時間経っていることに気がつく。


 娼館での戦いが終わって六日が経つ。思えばエメリによる最初の襲撃を受けてからここまで、ろくに日記を書く時間もとれなかった。そのことに気づいてペンを走らせたのだが、まさかここまでかかるとは思わなかった。


 ページをめくりながら、ラナは苦笑いする。色々なことがあって、果たして日記に全てを書ききれたかどうか。目を細めて、日記に綴った最後の一文をなぞる。


 そして彼女は静かに日記を閉じた。


 *****


「ここは……」


 傘を片手に、エドは目を丸くする。立ち止すくむ彼の黒灰色の髪を秋風が揺らしていった。


 病院で目覚めた彼を外に連れ出したのはロウガだった。促されるまま車に乗り、煙草臭い車内に辟易しながらも揺られることしばし。


 辿り着いたのは、裏路地の小さな店だった。ショーウィンドウの硝子に描かれた天秤が雨に濡れている。 片側の皿には蛇がとぐろを巻き、もう片方の皿にはドラゴンが羽を休めていた。ショーウィンドウの内側はくすんだカーテンが引かれている。その隙間から微かな灯りが漏れていた。


 店の軒先で傘を畳んだロウガが、意味ありげに笑った。


「なんだなんだ。遠慮はいらねぇぞ、坊主」

「遠慮はないんですが」エドは戸惑いの色をにじませた。「どういうことですか? てっきり、エメリ教授せんせいについて話を聞かれると思ったんですけど」

「あー、まぁ、なんだ。お前さんは明日目覚めるってことになっててねぇ」


 エドが胡乱な顔をすれば、ロウガが不格好に片目をつむった。


「だから今日は、坊主から事情を聞けない。まぁ、首謀者はエメリの野郎で決まりだし、テオドルス・ヤンセンから受け取った情報も十分さ」


 要は、息抜きってやつさな。一方的にロウガは言って、店の中に入っていってしまった。


 エドは頬を掻いた。気を使われたのだと、なんとか理解する。だからといって、同情の余地もないと思うのだけれど。


 エドは白い息を吐き、小さく身震いした。いずれにせよ、この場に留まるのは良い考えではない。


 畳んだ傘を軒先に置き、ロウガを追いかけて店の中に入る。からんと乾いた鐘の音と共に、暖かで、少しばかり埃っぽい空気が彼を包んだ。


 どこからともなく聞こえてくるのは歌声だ。それがラナのものであると気づいて、エドは我知らずほっと息を吐く。姿は見えないが、この店にいるらしい。


 そこで、エドはぎょっとした。奥に設けられたカウンターで、二人の男が煙草をふかしている。一人はロウガだ。そしてもう一人は薄金色の髪の男。


「アラン・スミシー」


 エドがぼそりと呟けば、アランが煙草を片手に冷ややかに笑う。


「誰かと思えばリンネウス家の坊主じゃないか」

「なんであんたがここに」

「なぜ」眇めた金の目に嘲笑めいた光を滲ませ、アランは紫煙を吐いた。「俺はラトラナジュの養い親なのでな。なんでも今日は、俺の快気祝いに彼女がここを貸し切ってくれたんだとか」

「……それを言えば、俺も今日退院したんだけど」

「おや、おかしなことを。君は正式には目覚めていないのだろう?」


 エドはアランをきつく睨みつけた。なおも言い募ろうとしたところで、諌めるように腕を叩かれる。

 振り返れば、買い物袋を抱えた亜麻色の髪の少女が呆れたような顔をしていた。


「ラナに頼まれて買い物に行ってたら、すぐこれなんだから」紙袋片手に早口で言った少女は、アランの隣で身を縮こまらせているロウガを叱責した。「ねぇ、刑事さん! あなたも良い大人なんだから、しっかり仲裁しなさいよ!」

「いや……だってなぁ、シェリル……」

「言い訳は結構!」


 シェリルと呼ばれた少女が鼻を鳴らし、店の片隅に置かれたテーブルに買い物袋をのせる。そうすればカウンターの奥から愉快そうな笑い声が聞こえた。


 背伸びをしたエドは、ここに至ってようやく、カウンターの向こうに三人目の人影――作業着姿の男がいることに気づいた。四十代後半にも見える男はしかし、少年のように目をきらめかせて笑う。


「いやいやいやっ! いいねぇっ! にぎやかなのはとっても楽しいことだよっ!」

「その意見には同意しかねるな、店主殿」アランがすました顔で灰皿に煙草の灰を落とした。「騒がしいばかりだ。せっかくラトラナジュが歌ってくれているのに、少しも聞こえない」

「いやー! アランってば、本当に歌が好きだよねぇっ!」

「彼女の歌だからこそ価値がある」


 アランと店主のやりとりの最中、シェリルがエドの腕を引っ張った。少しばかり強引に部屋の隅に連れて行かれる。


 何事かとエドが視線で問えば、両腕を組んだシェリルはじろりとエドを見やって一つ頷いた。


「まぁ、そうね。あっちのいけ好かない養い親よりは誠実そうって感じかしら」

「どういうことだよ」

「ラナの男を見る目の話よ」


 シェリルが紙袋を差し出した。受け取ったそれは重みと形からするに本のようだ。


「ラナからの贈り物よ」


 紙袋をしげしげと見ていたエドは顔を上げた。シェリルが肩をすくめる。


「なんでか、っていうのは聞かないで。あの子に頼まれたのよ。あんたに渡してくれって」

「どうして君から? 彼女は店の奥にいるんだろう?」

「あら」シェリルが意味ありげに笑った。「野暮なことは聞くべきじゃないわ。もしかすると、手渡すのが恥ずかしいくらいの贈り物かもしれないじゃない」

「……君は、この中身を知ってるのか?」

「知らないわよ。それこそ野暮ってものでしょ?」シェリルは、ちらとカウンターの方を見やった。「あぁでも、過保護な養い親には知らせない方がいいわよ。嫉妬深そうだもの、彼」


 エドは間を置かず頷いた。紙袋を指先で撫でる。真意は分からずとも、自分にだけ向けられた好意に胸が少しだけ暖かくなった。


 その穏やかさに目を伏せ、ややあってエドはシェリルに向き直る。


「すまなかった」


 エドは迷うこと無く頭を下げた。


「君、たしか娼館で働いていた子だろう? エメリ教授の指示とは言え、巻き込んでしまって、ごめん」

「……謝らないで、とは言わないわ。やってしまった事実は変わらないしね」そう言って、シェリルは少しだけ笑った。「でも、今回はラナの顔に免じて謝罪だけで許してあげる」

「ラナに免じて、か?」

「そうよ。だって、今回一番頑張ったのはあの子でしょ。あなたは知らないかもしれないけど、エメリに襲われててんで使い物にならなかった男どもを、まとめてくれたんだから」

「そうなのか」

「えぇ。それに今の私は久々の休暇で気分がいいの。そういう意味でも、あなたは運が良いわね」

「娼館はしばらく休業だって、ロウガ刑事から聞いた」

「あなた達が暴れまわってくれたおかげでね。でもおかげで、自分の趣味を楽しめる時間が出来たから悪くないわ」

「趣味かい?」

「そうよ。香水の勉強をしてるの」


 シェリルは得意げに己の鼻先をつついた。


「これでも、その人に似合う香りについては分かってるつもり。例えばそうね、あなたに似合うのはライムとかミントの香りね。でも甘くなりすぎないように、ベースにはベチパーを……男物の香水のベースになる香りを加えたいかも」

「ええと……」シェリルの言葉の半分も分からなかったが、エドは勢いに流されるままに一つ頷いた。「そうだな、機会があったら検討しておくよ」

「えぇ、是非。気になる女の子がいるのなら、身なりだけじゃなくて香りまで整えて告白するべきだわ」


 エドが目を泳がせれば、シェリルが可笑しそうに笑った。

 そうして彼女は、満足げに一つ頷く。


「というわけで、今回のことはこれきりね。あとはどうぞ、刑事さんのために情報を提供してちょうだい。娼館の子たちを懐古症候群トロイメライに仕立て上げたっていう証拠が揃えば、あの教授が捕まった時に罪を追求しやすくなるでしょうし」


 シェリルの言葉に頷きかけたエドは、そこではたと目を瞬かせた。


「娼館の子たちを懐古症候群に仕立て上げた……?」

「どうしたの? 妙な顔をして」

「妙なことを言っているのは君の方じゃないか?」エドは戸惑いながら口を動かした。「娼館の人たちは元々懐古症候群だったんだろう?」


 シェリルが顔をしかめた。少しばかり苛立ったように口調を強くする。


「なによ。この期に及んで誤魔化そうってわけ?」

「誤魔化すつもりなんてないさ。ただ、事実を述べているだけで……」

「あんた達が妙な薬をばらまいて、それを飲んだ人間を懐古症候群にしてた。それが事実でしょう?」

「違う。あの薬は鎮静薬で……ただの治療薬の候補だ」

「なんですって?」


 シェリルが目の色を変えた。彼女が不快に思っているのは明らかだった。


 さりとて、事実を述べないわけにはいかない。決定的な思い違いに妙な寒気を感じながらも、エドは努めて冷静に言葉を続けた。


「彼女たちは元々、懐古症候群に罹患していたんだよ。患者が多いから娼館を選んだっていう言い方の方が正しいけど」


 エドは唇を舐めた。違和感を何とか言葉にしようと口を動かす。


「懐古症候群は精神に異常をきたす病だ。なら、精神病の治療薬が使えるんじゃないか、ってエメリ教授は考えてね。それで候補に鎮静薬が上がったんだ」

「でも、あなた達は鴉を使って悪さをしてた」

「それも研究の一貫だ。別の研究で、『ある一定の音が症状を悪化させる』っていうデータが出てたんだ。だからエメリ教授は、治療薬を投与した患者に、鴉を通して症状を悪化させる音を聞かせた。彼女たちにどういう変化が出るのかを見極めるために」


 早口で言って、エドはシェリルをじっと見つめた。


「有り体にいえば許可のない人体実験だ。だからこそ、エメリ教授も俺もテオ先輩も罪に問われている。そうじゃないのか?」


 シェリルの目が揺れた。彼女は慌てたようにロウガを呼び寄せる。カウンターの男たちの視線が一斉にこちらに向いた。シェリルが手早く事情を説明すれば、ロウガの顔がゆがむ。


「おいおい……そいつぁ、本当に話かい……?」

「嘘を吐く必要がない」エドは渋い顔をするロウガを睨んだ。「むしろ、あんた達は薬を調べなかったのか? あれが解析できていれば、薬の正体がただの鎮静薬だって分かるはずだろ?」

「そりゃあよ……」

「ちょっと待ってよ」


 ロウガの声を遮って、落ち着かなげな様子のシェリルが声を上げる。


「じゃあ、プレアデス機関、ってやつはどうなの? エメリはそれを魔術協会ソサリエから奪って、悪巧みをしていたんでしょう?」

「奪った?」エドは思わず声を裏返した。「奪うはずがないだろう? 人工知能をなんだと思ってるんだ?」

「なにって……機械でしょう?」

「そうだよ、機械だ。ただしこの部屋いっぱいの大きさのね」


 エドは苛々と足を踏み変えた。


「いいかい? 人工知能は自立して思考し、答えを弾き出す機械なんだ。そのためには無数の情報を処理するだけの頭脳が必要になる。機械の場合、頭脳はそのまま機械の大きさに比例すると言っていい。だからプレアデス機関は時計台に設置され、動かすことなど誰にも出来ない。エメリ教授だって、プログラムの解析のためにプレアデス機関にアクセスしていただけなんだから」

「制御権を奪われる、という可能性はどうだ?」アランが静かに問いかけた。「つまり、プレアデス機関がエメリによって改悪され、独占されている、というのは?」


 エドは首を横に振った。


「確かに、プレアデス機関を制御するにはアクセスコードが必要で……エメリ教授とテオ先輩が、そのアクセスコードを突き止めたからこそ、プレアデスの機能を解析できたわけだけど。学術機関アカデミア全体の決定で、アクセスコードは変更せず、教授陣で共有することになってたはずだ」


 エドはそこで一旦言葉を切った。学術機関での日々を思い出し、強く言い切る。


「なにより、ありえないんだよ。人工知能は答えを提示するが、答えに至る過程を示さない。そんな不確かなものに、自分の思考に絶対の自信を持つエメリ教授が頼るはずがないんだ」


 エドは顔を上げた。


「教えてくれ」黙り込んだ一同を見渡して、慎重に口を動かす。「誰がプレアデス機関を奪った、って言い出したんだ?」


 一番最初に動いたのはアランだった。顔を強張らせ部屋の奥へと足早に向かう。一体どうしたというのか。思わずそれに引き続いたエドは、ややあって息を呑んだ。


 古い垂れ幕で仕切られた先にある奥の部屋。埃を被った骨董品は雑然と積み上げられ、半開きの窓から吹き込む雨風に濡れている。


 その中で、テーブルの上にぽつんと置かれたカセットテープからラナの歌声だけが響いていた。


 けれど、彼女の姿はどこにもない。


 *****


「ごめんなさい!」


 アイシャはそう言って、勢いよく頭を下げた。返事はなく、雨が窓を叩く音が聞こえる。たっぷり十秒待ってから、アイシャは顔を上げた。


 薄暗い教会の手洗い場には誰も居ない。鏡に映った自分自身はひどく自信なさげで、アイシャは盛大に溜息をついた。


「こんなのじゃ、ラナに許してもらえないわ……」


 ちゃんと謝って、友達になってくださいって、お願いしなくちゃいけないのに。そのための練習なのに。アイシャはきゅっと唇を噛みながら携帯端末を見やる。


 2153/09/23 13:17――飛び込んできた時間に、アイシャは慌てて手洗い場を飛び出した。約束の時間は午後一時半だ。天秤屋でアランとエドの快気祝いをする。ラナはそれに誘ってくれたのだった。


 謝りたいのに、時間に遅れることなんてできない。己の時間管理の甘さを呪いながら、アイシャは軋む床を踏んで、階段を降りきった。そこで微かな物音がして、彼女は振り返る。


 礼拝堂へと続く扉が半開きになっていた。その隙間から、黒灰色の髪の少女がちらりと見える。


 アイシャは何度か目を瞬かせた。まさかと思いつつも礼拝堂へ向かい、扉を押し開けて声を上げる。


「ラナ!」


 湿り気を帯びた空気に薬草ハーブが一層濃く香っていた。けれどそれに混じって、微かに別の香りもする。

 その正体をアイシャが見極める前に、礼拝堂の中ほどまで進んでいた彼女が振り返った。


 黒灰色の髪と目、そして艷やかな褐色の肌。天窓から差し込む弱い光に照らされたラナが、じっとこちらを見つめている。


 アイシャはゆっくりとラナの方へ足を運ぶ。


「どうしたの? 天秤屋に集合、なんでしょ?」

「うん、そうなんだけど」ラナは僅かに目を伏せた。「ここに用があって」


 ラナの髪から、雨の雫が少しだけこぼれた。

 降って湧いた沈黙にアイシャは所在投げに身動ぎする。こんなにも早くラナに会えるなんて予想外だった。あぁでも、けれど。


「あの……」アイシャはそろりと切り出した。「ラナ……私ね、謝りたいことがあって……」

「謝りたいこと?」

「ほら、あの、エメリが教会を襲撃してきた時のね、ことで」

「うん」

「アイシャは、嘘をついてたでしょう? キセキの魔女だって。それで、ラナを傷つけてしまって……そのことが、すごく心残りで。でも、ラナは友達だって言ってくれたから。私も、友達でいたくて……あぁもちろん、ラナが嫌じゃなければ、なんだけど……だから、あの」アイシャは息を吸って、頭を下げた。「あ、あの! 本当にごめんなさい!」


 礼拝堂に響く自分の声を聞きながら、アイシャは情けなくなった。


 あんなに練習したのに、ちっとも上手く言えなかった。これじゃあ、許してもらえない。せっかく出来た友達なのに。あれこれ考えれば考えるほど、アイシャの鼻の奥がつんと痛くなる。


「なんだ、そんなこと」


 穏やかな声が聞こえた。アイシャがゆっくりと顔を上げれば、ラナが優しく微笑む。


「気にしないで。アイシャにも事情があったんだろう?」

「でも」

「あの時は私も余裕がなくて、そこに気づいてあげられなかったんだ。私の方こそ、ごめんね」

「そんなこと……いいの、いいのよ。アイシャに気なんて遣わなくても」アイシャは何度か頭を振って、胸の前で指を組んだ。ほんの少しの期待が気恥ずかしく、それでも手遊びをしながら何とか口を動かす。「その代わりに、その、もう一度友達になってくれれば、」

「ごめんね」


 返ってきたのは、再びの謝罪の言葉だった。アイシャはまじまじとラナを見つめる。


 彼女はやっぱり、穏やかで優しい笑みを浮かべていた。

 けれど何かが違うと、アイシャは唐突に気がついた。


「ラナ……?」

「友達って言ってくれるのは嬉しいけど、それは叶えてあげられない。私にはやらなくちゃいけないことがあるから」


 ラナがゆっくりと後ずさる。衣擦れの音もなく彼女の服が揺れた。礼拝堂に入った時に微かに感じた香りが強くなる。その正体に思い至って、アイシャは呆然と呟く。


「ラナ、あなた煙草を吸ったの?」

「あぁ」ラナは困ったように笑った。「やっぱり分かるかい? 弱ったな。一口しか吸ってないんだけれど」

「丸わかりよ……! 今までこんなに強く匂ったことなんてなかったし……というか、そもそもラナは喫煙者じゃないでしょう?」

「そうなんだけどね。香りだけでも、連れて行きたくて」


 黒灰色の目をほんの少し寂しげに揺らして、ラナが答える。しかし、その言葉の真意をアイシャが尋ねる機会はついぞ訪れなかった。


 視界に影が差す。アイシャが振り返れば、ヴィンスがじっとこちらを見下ろしていた。その背後にいるエドナは紅の引かれた唇にうっすらと笑みを浮かべている。


 アイシャは顔を青ざめた。


「なんで、神父様達がここにいるの」

「あ、アイシャ・カディル」ヴィンスはぞっとするほど冷え切った声で言った。「か、カディル伯の失敗作よ。わ、我らが魔術協会ソサリエが君を保護すべき理由は消え失せた。そ、即刻ここから立ち去れ」

「っ……どうして今更お父様の名前を出してくるのか知らなけど」ヴィンスの冷え切った声に気圧されながらも、アイシャはなんとか踏みとどまって彼を睨みつけた。「お断りよ。アイシャは、ラナに用事があるの。これから天秤屋に行かなくちゃいけないんだから」

「ひ、必要ない」

「そんなこと、神父様が決めることじゃないわ」


 アイシャがなんとか言い切った時だった。


「この世はかつて救われた。奇跡の悪魔と輝石の魔女によって」


 密やかな声が、アイシャの心臓を凍りつかせる。ぎこちなく顔を向けた先で、ラナが少しだけ首を傾けていた。

 青玉サファイアの耳飾りが、音もなく揺れる。


「神父様がね、教えてくれたんだ。私がその、輝石の魔女なんだって。この世界は少しだけおかしくて、それを救うために私がやらなきゃいけないことがあるんだ、って」

「馬鹿げてるわ……」

「そうだね」ラナはあっさりと頷いた。「もしかすると、ただの言い伝えなのかもしれないし」


 でもね、いいんだ。ラナは静かに言葉を続けた。


「この言い伝えが本当かどうかはどうでもいいの。ただ、私がいたら養父とうさん達に迷惑をかける。それだけが問題なんだよ」

「なんてこと言うの……!」アイシャは思わず声を震わせた。「そんなことないでしょ! ちゃんといけ好かないオニーサンも、学術機関の男の子も助けたじゃない!」

「でも、私がいなければ二人とも怪我なんてしなかった。違うかい?」

「そんなの……そんなの考えすぎよ……」


 分かってるの。アイシャはそう弱々しくラナに尋ねる。


「たしかに輝石の魔女は世界を救ったわ。でもそれは、美談なんかじゃない。魔女は己の命を捧げて世界を救ったの。神父様はそれをあなたに望んでいるのよ?」


 ラナは答えなかった。その顔に悲壮はなく、だからこそアイシャの言葉が彼女に届いていないことが痛いほどに分かった。


 アイシャは服の裾をぎゅっと握る。おかしい。おかしかった。ラナは、こんな人間ではなかったはずだ。なのに一体どうして。そう思う間にも、ヴィンスがアイシャの隣を行き過ぎていく。ラナの肩に手を置いた彼は少しばかり笑んでいた。


 アイシャは思わず声を上げた。


「ラナに、何を吹き込んだの」

「ひ、人聞きの悪いことを。な、なにも吹き込んでなどいない」


 嘘だ。アイシャがそう否定する前に、ヴィンスが目元まで隠れる黒髪の奥から視線を寄越した。


 しいて言うならば。そう前置きした彼の深緑色モスグリーンの目が、冷たい光を宿す。


「ら、ラトラナジュの歪みに誰も彼もが気づいていなかった、というだけのことだ」


 アイシャの右腕が掴まれた。顔を青ざめて振り返れば、沈黙を保っていたエドナと視線がかちあった。


「お話はここまでよ、アイシャ」

「っ、離して! ラナを連れて行かないで!」

「残念だけれど、そのお願いは聞いてあげられないわ」エドナは大袈裟に肩をすくめた。「私は神父様の意向に従うだけですもの」

「エドナ! あなたはいつもそればっかり……!」


 アイシャがきっと睨みつければ、彼女の師匠は眼鏡の奥で榛色ヘーゼルナッツの目を細めた。


「あらやだ。随分と生意気な目をするようになったみたいだけれど」


 でも、口先だけなら半人前ね。エドナはするりとアイシャの手の甲を撫でて、艷やかに笑う。


 足元の床に緋色が灯り、紋様を描く。その意味するところに思い至って、アイシャはぞっとした。


 これは枷を嵌めるための魔術だ。


「っ、待って! やめ、」

『零と一の狭間 天を望みて孤炎に微睡まどろめ』


 無情にもエドナの詠唱は紡がれた。


 風をまとった光が舞う。冷たい何かが体の中に入り込んでくる。鋭い痛みと共に手の甲に何かが刻まれる。


 急激に遠のく意識の中で、アイシャはたまらず悲鳴を上げた。拘束から逃れようと無我夢中で体を動かした。そのはずだった。なのに、その音も感触も判然としない。最早自分が立っているのか、座っているのかさえ判然としなかった。


 薄布を幾枚も重ねた向こう側で、二つの影が遠ざかるように歩き出す。それを追いかけたくてアイシャは手をのばした。けれどその手が届くことはなく。


「――――」


 間近でエドナが何事かを呟いた。それを最後にアイシャの意識が途切れる。

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