10. 遅くなって、ごめんね

「……エド」


 静かな声に、エドはゆっくりと振り返った。


 痛みに満ちた部屋はいつの間にか消え失せていた。一面の黒いもやで覆われた世界に、ラナが佇んでいる。黒灰色の髪と目。十年前から随分と成長した彼女は、息を弾ませながらエドをじっと見つめていた。


「何しに来たんだよ」


 エドが乾いた声で吐き捨てれば、ラナの目が曇った。帰らないで欲しいと懇願した時と同じ顔だ。

 彼女は何一つ変わってない。羨ましいほどに何も。そう思って、エドは声を立てて笑った。馬鹿らしかった。ひどく。


「俺は、愚図だよ。父上の言う通り」


 エドは軽やかに口を動かしながら、ラナへと歩み寄る。


「君を殺したいほどに憎んでいるのに、雨の街で君が殺される夢に後悔して飛び起きるんだ。ねぇ、これは一体なんなんだろうね。俺は君への未練を断ち切れてないんだろうか。君は俺を手ひどく裏切ったのに」

「……ごめん、なさい。私があの時、養父とうさんを説得してエドを助けに行ければ」

「善人面はやめろよ」


 エドは笑みを消した。ラナに詰めより、胸ぐらを乱暴に掴む。


「俺の記憶を見たんだろ。なら気付いているはずだ。俺は君を逆恨みで憎んでる」


 ラナが黒灰色の目を揺らした。エドは鼻を鳴らす。彼女の悲しげな顔に、胸が少しばかり軽くなる。善人面をされるよりもよっぽど良い。そうやって自分を憐れんでくれた方が、よっぽど恨むことが出来る。エドは思う。きりきりと痛む心で強く思う。

 けれど不意に、虚しくなった。


「……俺だって分かってるんだよ」


 顔をうつむけ、エドは呻くように呟く。


「君が本当は悪くないって。それでも俺は、君を憎まずにはいられなかった。そうじゃなきゃ生きていけなかった。なら、君を憎みきればいいのに、それさえも出来なくて中途半端だ。だから俺は愚図なんだよ。君を大切と信じることもできない。君が憎いと信じることもできない」

「それでも、エドは、エドだよ」


 そっと差し込まれたラナの声は震えていた。だというのに眼差しは真っ直ぐで、エドは思わずそれに見入る。


「ねぇ、エド。それは、どちらかに決めなきゃいけないこと? どっちもエドだって、思うのはいけないことかい?」

「……君がそれを言うんだ」

「そうだね」ラナは自嘲気味に笑った。「私があんたを苦しめてる原因なんだ。どの面下げて、こんなこと言ってるんだ、って感じだよ。こんなんじゃ、嫌われても文句言えない」


 でもね、とラナは言いながらエドの頬へと手を伸ばした。


「それでも、やっぱり言わせて。エドの気持ちは、きっとどれも正しいんだよ。だからどれか一つを否定しないで。自分が駄目だって、思わないで」


 ラナの指先がエドに届いた。ぽつんと灯された暖かさはじわりと滲むようで、彼はぼんやりと思い出す。

 そうだ。初めて彼女に触れた時も、暖かいと思ったのだった。

 違う、あの時だけじゃない。君は、いつだって。


「遅くなって、ごめんね」祈るように囁いて、ラナはエドの身体に腕を回した。「でも、今度こそ迎えに来たよ」


 *****


 黒い靄が、揺らめいた。


 暗い部屋でそれを観察していたエメリは、思わず手に持った杖から手を離し、椅子を軋ませパソコンへと身を乗り出す。娼館中を飛び回るカラスから送られた映像を手際よく拡大した。


 前回の魔術発動時に観察された光はない。風らしきものも吹かない。それでも水滴が落とされた水面のように靄は揺らめいて、やがては薄くなって消滅する。


 残されたのは床に座り込んだラナと、彼女に抱きとめられたエドだった。彼の意識はないらしい。そして周囲に懐古症候群トロイメライと思しき黒い影もない。


「……素晴らしい」


 エメリが思わず声を上げる。その時だった。


「何が素晴らしいのか、尋ねてもいいか? エメリ・ヴィンチ」


 扉が開く音と共に、娼館の一室に明かりが差した。降り掛かった男の声にさして驚くこともなく、エメリはパソコンから記録媒体を抜き取り振り返る。


 訪問者は二人だ。一人は息を切らした冴えない刑事。そしてもう一人は、先程の声の主である薄金色の髪の男。


「おや。君の怪我は全治二週間ほどだったはずだがね、アラン・スミシー」エメリは朗らかに返す。「まぁ何事も誤算はつきものだ。そう、私が素晴らしいと言った理由もまさに、そこに尽きる」


 胡乱な目をするアラン達を見据え、エメリは左手に握った懐古時計を揺らした。


「何歳になっても仮説が覆される瞬間というのはたまらんよ。私の立てた説では、懐古症候群を治療する魔術の発動にはコレが必要だった。ところがラトラナジュ・ルーウィはそれを否定してみせた」


 エメリは薄く笑む。


「ならば、魔術の本質は彼女自身にあるのか? そうであるとするならば、この時計が果たすべき役割とは何だ? この二つを研究すれば、懐古症候群の治療法を確立させることが出来るかもしれない」

「それで、ラトラナジュを実験動物モルモットにしようというのか」

「研究に多少の犠牲はつきものだろう?」


 エメリは杖で床を叩いて立ち上がった。暗闇がうごめき十数の鴉が飛び立つ。


 刑事の顔が歪む。アランは微動だにしない。その二人に向かって、エメリは「そういえば」と天気でも聞くような調子で尋ねた。


「私が娼館にいると気付いたのはどちらだね」

「……俺たちじゃねぇよ」顔を青くしながらも返したのはロウガだった。「シェリルとアイシャだ。客としてアンタがここに出入りした記録はなかった。だが、普段から娼婦の健康状態を確認するために医者が出入りする。あんたはそれを利用して、裏口からここに入った」

「素晴らしい推理だ」エメリは両眉を上げた。「もし無事に生き残れたならば、次回は是非にそのお嬢さん方を連れて来てくれ」


 鴉が一斉にアラン達に襲いかかった。


 アランが動く。口づけと共に輝石を掲げる。暗闇の中で鮮やかに輝く紅色の光を、エメリは嘲りの目で見やった。


 あの色は炎の魔術だろう。驚きはなかった。なるほど、魔術がどのような理論で炎や雷を生み出すのかは不明である。だが、結果として生まれた現象が自然界で観測されうる物であるならば、何一つ恐れるに足りない。


 エメリは杖で床を叩いた。同時にアランが輝石を指先で弾く。


『永久の炎はくびきを砕き 一切の敵を慈悲なく穿つ』

『滅炎』


 アランは歌うように、エメリはどこまでも厳格に。それぞれの指示を受けて、砕けた輝石が炎を生み、飛び交う鴉が小さな体躯にあるまじき低音で一斉に啼いた。


 業火がエメリに向かって疾走はしる。それはしかし、鴉が吐き出す低音で揺らされた空気に当たって掻き消えた。ロウガが驚いたように目を見開く。だが、エメリは眉を僅かに潜める。


 炎は空気があるからこそ燃える。逆に言えば空気を音波で揺らせば炎は届かない。単純な論理だ。ゆえに、目の前で消えゆく炎に興味はない。


 問題は、先程聞いたアランの詠唱が耳慣れないものであったということだ。エメリが違和感を追求しようとする。そして次の瞬間、彼は己の失策を知る。


 鴉が甲高い悲鳴を上げて次々と撃ち落とされた。


「すまないな。そこの鴉が何かと邪魔だったものでね」


 アランの軽やかな声と共に、エメリの手に鋭い痛みが走った。思わず懐古時計を取り落したエメリは、手の甲に薄く滲む血を見て唇を歪める。


「……炎に何かを混ぜたな」

「散乱石さ、教授。これは急激に熱せられると砕けて四方に散らばる」アランは灰白色に輝く破片の一つを指先で弄んだ。「そこの鴉は随分と繊細な機械のようだ。こんな異物が入れば、さぞ大変だろう」


 エメリは杖を握り後退した。アランが金の目を眇めて笑う。それにエメリは、図らずもラナの笑みを思い出した。なるほど、この親にして、あの娘ありということなのか。目の前の男の方が、何倍も厄介なわけだが。


 最後の鴉が撃ち落とされる。窓際まで追い詰められる。開かれた大窓から吹き込む風は生臭く陰気だ。


 老獪の教授はしかし、すぐに切り替えた。確かに鴉は失った。されども、失われたならば作り直せばいい。肝要なのは学術機関アカデミアにデータを持ち帰ることだ。


 恐れを知らぬ思考が回転する。それを読んで、声を上げたのはロウガだった。


「学術機関には帰れないぜ、エメリさんよ」


 なんの戯言だ。そう笑い飛ばそうとしたエメリはしかし、ロウガが差し出した携帯端末を見て動きを止めた。通話中を示す画面に、TYという文字が浮かび上がっている。


「……テオドルスか」

「あんたのそんな声を聞ける日が来るなんてな」端末の向こうで、テオドルスの硬い声が聞こえた。「だがまぁ、悪くない。それでこそ、あんたが学術機関で溜め込んでた情報をこいつらに売った甲斐があるってもんだ」

「この私と敵対しようというのかね? 君も随分と凡人に堕ちたようだな」

「俺は元々凡人だ。だから色々考えて行動してんだよ」


 エメリが目尻を引くつかせる。静かな足音と共に、アランが駄目押しとばかりに一歩前へ踏み出した。指先に掴んだ輝石を光らせ、彼は静かに宣言する。


「エメリ・ヴィンチ。お前は危険だ。ゆえに排除する」

「……笑わせてくれる」エメリは青鈍色アイアンブルーの目を鋭く光らせた。「誰にとっての危険かね。え? アラン・スミシー?」

「それをお前に説明する必要があるのか?」

「ふん、魔術師らしからぬ的を射た指摘だ」


 エメリは皮肉っぽく笑った。そして次の瞬間、後ろ向きに窓から外へと身を投げだす。


 *****


 暗闇の中でエメリが窓の向こうに消えていく。ロウガは慌てて窓辺に駆け寄った。見通しは利かない。けれど折よく小さなトラックが眼下の細道を走り抜けていく。


 携帯端末の向こうでテオドルスが「どうした」と尋ねる。ロウガは顔をしかめた。


「逃げられた」

「はぁ?」

「窓から飛び降りたんだ。どうも下に車が待機してたらしい」そこまで言って、ロウガは僅かばかりの疑念と共にテオドルスに問う。「まさかとは思うが、お兄さんの手引じゃあないだろうな?」

「流石にそこまではしねぇよ。学術機関にだって、あの教授に従うやつがいるかどうか……クソ。それか学術機関の外に協力者がいるのか」


 苛立たしそうにぼやいたテオドルスは、後から連絡するとだけ言いおいて通話を切った。


 背後で鈍い物音がしたのはその時だった。慌てて振り返ったロウガは、壁に背を預けるようにして座り込むアランに駆け寄る。


 常に飄々としている魔術師はしかし、この時ばかりは暗闇でも分かるほどに顔色が思わしくなかった。長い睫毛に縁取られた瞼を半分ほど下ろし、荒く息をつく。


「行き先は、分かるのか」

「あぁ心配するな」ロウガは頭を掻いた。それでも笑みを浮かべる。「これでも目だけは良くてね。車両番号は確認した。テオドルスから提供してもらった情報の量も十分だ。俺の上司連中も重い腰を上げるだろうさ」

「刑事殿が言うと説得力の欠片もないが」

「はは、違いないねぇ」


 ロウガは弱りきった笑みを引っ込めて、アランの隣に腰掛けた。


 心配は、さほどしていなかった。警察には既に、全ての情報を渡してある。学術機関には捜査の手が及んでいることだろう。プレアデス機関の情報も出てくるに違いない。なにより懐古症候群は消滅し、娼館の少女達の動きを封じることが出来た。


 上出来じゃないか。廊下の外から響くシェリルの声に耳を傾けながら、ロウガは乱れた髪をぐしゃぐしゃと掻く。どっと押し寄せてきた疲労感に苦笑いしながら、天井を振り仰いだ。


「いやぁ、煙草の一つでも吸いたい気分だわな」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る