9-3. 約束、してくれる?

 靄の中はどこまでも暗く、寒かった。


 ラナはそっと息を吐き出す。懐古症候群トロイメライから吹き出た黒い靄に包まれて今がある。ここがどこなのか。そもそも自分は目を開けているのか否か。そんな単純なことさえ分からない。


 それでも、エドを探さなくては。焦りに駆られたラナは暗闇に目を凝らす。視界の端で何かが動いた気がした。それを追いかけて振り返った先で、彼女は息を呑む。


 黒いの靄に、ぽつりと映像が灯されていた。そこに映るのは黒灰色の髪に褐色の肌の少年。


 幼いエドが、そこにいる。そして同時に、ラナは直感する。


 これは、十年前の彼の記憶だ。


 *****


 スープの味は完璧に整えられていた。それはスープに限った話ではなく、入れられた器も、皺一つないテーブルクロスも、二人きりの豪奢で広いだけの食堂も、全て完璧に整えられているのだった。


「子を成すことだけがお前の生きる意味である」


 はるか遠く、長テーブルの端に座る父がいつものように告げる。エドは項垂れたまま微動だにせず耳を傾けた。


「そのために全てを捧げろ。食事をとり、子を成すための術を学び、定められた時間に休息せよ。屋敷を出ることは許さぬ。外界と無用に交わることも許されぬ」

「はい」

「では食事を」


 父の許しを合図に、エドは音一つ立てずスプーンを取り上げた。


 この生活を不満だと思ったことはなかった。リンネウス家はこの世に二つしか無い純血の魔術師の家系だ。けれどもエドに魔術の才はない。ならばせめて、純血を維持するという役割を果たせと父が望むのは当然のことなのだった。


 粛々と食事を終え、食堂を辞してエドは人気のない廊下を歩く。生まれてからずっと辿り続けた道は、大人になって女と交わり、子供を作るまで永遠に変わらぬものだと思っていた。


 冬の終わりの午後、勉強を再開しようと自室を開く。その時までは。


「きゃっ……!?」

「……きゃっ?」


 誰もいないはずの部屋から声が聞こえて、エドは首を傾げた。本棚、机、大きなベッド。ぐるりと見回した後、エドは露台バルコニーへと通じる窓の片隅で目を止める。

 大きな毛布の山があった。近づいて目を凝らせば、ふるふると震えているのが見える。


 思い切って布を引っぺがしたエドは、再び固まった。少女が一人、目を丸くして自分を見上げている。


 黒灰色の髪に同じ色の目。自分と同い年くらいの彼女は、エドと目が合うなり少々裏返った声で叫んだ。


「た、探検しに来たのっ!」




 エドが詳しい事情を聞けたのは、それから幾ばくか経ってからのことだった。

 その少女の名前はラナと言うのだった。クラシオン――エドの家が代々治める街だ――の北側に広がる森に住んでいて、今日は天気がいいからと、あちこち探検していたら、ここにたどり着いたのだと言う。


 山積みの毛布の上に腰掛けながら、ラナがにこにこと言う。


「丘の上の大きなお家。一回で良いから来てみたかったの」

「大きなお家……って、ここは領主の家なんだけど……」


 エドは反論するが、ラナは聞く耳を持っていないようだった。説明は終わりと言わんばかりに立ち上がり、きょろきょろと辺りを見回す。


「何か遊ぶものはないの?」

「遊ぶもの……」


 真っ先に浮かんだのは父の顔だ。次いで、今日まで詰め込んできた知識と、目の前の珍客が少女であるということ。少し考えた後、エドは一つの結論に至る。あぁそうか。彼女は父が用意した練習相手なのかもしれない。


 ならばと、エドはラナの腕を引いた。ベッドに腰掛けさせれば、彼女は興味津々と言った様子で首を巡らせる。


「おっきなベッドだねぇ……! 私の部屋より広い!」

「君の名前は、ラナ、だったよね」


 ラナはぱちりと目を瞬かせた後、無邪気に笑った。


「そうだよ」

「ラナ。うん、いい名前だね」


 父から与えられた教本の通りに名前を褒めれば、彼女は耳元の青玉サファイアの耳飾りを揺らして、くすぐったそうに笑った。養父とうさんからもらったの。そう言う彼女の小さな肩をエドは押す。


 悲鳴を上げてラナがベッドに倒れ込んだ。黒灰色の目が不思議そうにエドを見上げる。


「私、まだ眠くないよ?」

「眠るんじゃないよ、遊ぶんだ」

「本を読むの?」

「そうじゃないよ。夜伽よとぎ。知らない? まぁ、まだ夜じゃないんだけど」

「よとぎ……?」

「じゃあ性交。子作り」


 適当に言葉を並べながら、エドはラナの身体を服の上から弄る。実践は初めてだったけれど、ちゃんと知識はある。それが唯一にして無二の、父親が自分に望むことだったのだから。


 それにしても薄くて貧相な身体だった。彼女は自分と同い年くらいで、二次性徴はもう少し先だと思う。そうと分かっていても、やっぱり彼女の身体のあちこちが骨ばっている。


 服の裾を無遠慮にたくし上げれば、ほのかに上下する褐色の肌があった。薄くて、しっとりとしていて、すべらかだ。手のひらをそっと這わせたエドは、まじまじと呟く。


「……あったかい」

「ねぇ、ちょっと!」ラナは身をよじって笑い声を上げた。「くすぐったいってば! ね!」

「え」


 エドは思わず手を離して固まった。信じられない気持ちでラナを見やる。


「気持ちよくないの?」

「くすぐったいよ!」

「……そ、うなんだ……」


 エドは呆然とする。だって、本ではこうやって触れ合って、抱き合って、女の方が気持ちよくなったところで繋がっていた。間違ってもくすぐったくなどないはずだ。


 あれ、じゃあここからどうすればいいんだろう。急に分からなくなって、エドは視線をうろうろと這わせる。


 ラナがこてんと首を傾げた。黒灰色の髪が午睡の日差しを浴びて輝く。


「ね。遊ばないの?」

「……遊べ、ない」

「なんで?」

「だって……君は気持ちよくないって、言うし」

「んー、それはそうだけど」ラナは小さな唇を尖らせて考えた後、再びエドを見上げた。「えと、んと、よく分かんないけど、気持ちいいだけが遊びじゃないよ? 楽しくないと」


 エドはきょとんとした。男女の交わりについて書かれた本に、そんな感情については書いていない。ややあって、エドは悄然と肩を落とす。きっと自分は勉強不足なのだ。同い年くらいの彼女でも知ってるようなことなのに。


「……分かんない」

「分からないの?」

「うん……だって、楽しい遊びなんて習ってないし……」

「うーん……あ! じゃあこの屋敷の中を案内してよ!」


 名案と言わんばかりの明るい声に顔を上げれば、ラナの笑顔があった。


「ここ、とっても広いでしょ! 見たいところがいっぱいあるの!」

「えっ……でも、屋敷の中を歩き回るのは……父上に見つかったら……」

「見つからないように隠れるよ! ね! かくれんぼみたいで楽しいでしょ。たくさん探検して、眠たくなったらお布団で眠ればいいんだよ!」

「わっ、ちょっと待って……!」


 制止の声を上げるエドを引きずるようにして、ラナは意気揚々と部屋の扉を開く。それが彼女の言うところの探検の始まりだった。


 果たして、エド達は父親に見つかることはなかった。すれ違う使用人達の目を、廊下にいた時は巨大な花瓶の裏に隠れ、リネン室にいた時には毛布の山に潜り込んでやり過ごす。ラナはとかく、こういう時にどうすればいいのかに詳しかった。聞けば、養父さんから隠れたい時はいっつもしてるんだよ、とクスクスと笑う。


 古びた屋敷は広かった。明かりとりの小窓から埃っぽい光が差し込む図書室、侍女たちが他の使用人たちの噂をしあうリネン室。食堂と自室、そして父の書斎にしか足を運ばなかったエドにとって、何もかも新鮮だった。


 ラナもこの探検がえらくお気に召したらしい。それからというもの、彼女は毎日のようにエドの屋敷を訪ねてくるようになった。


 屋敷の中を一通り見終わった後は、中庭を散策した。雨の日にはエドの部屋で絵を描くこともあった。エドは絵がうまいんだねぇ、と彼女が言うので、「相手の女性の趣味に合わせて、その人に気に入られるのは夜伽の条件の一つだから」と返すと、不思議そうな顔をされた。


 それでも、ラナといるのは苦ではなかった。その日の行き先でちょっとした喧嘩をすることも、広い屋敷で迷子になったラナに泣かれたこともあったけれど。結局最後には、胸の辺りがぽかぽかとするような暖かさを覚えるのだった。


 かたん、とエドはスプーンを置いた。ラナと過ごした数週間の思い出から我に帰れば、磨き上げられた銀食器に己の顔が映っている。


 今日も、目の前にはスープがあった。完璧に味は整えられていた。けれどふと、エドの胸中に過ぎるものがある。


 これは、美味しいんだろうか。


「どうした」


 冷え冷えとした父の声に、エドは身を縮こまらせるようにして頭を垂れた。


「……なんでも、ありません」


 歯切れ悪く返事をして、エドは再び目の前の液体を口に運ぶ。

 なぜだか、無性にラナに会いたくなった。


 *****


 映像がぷつりと途切れた。

 再びの黒い靄の中で、ラナは胸に手を当てる。心臓が痛いほどに鳴っていた。やっぱりこれは、十年前の記憶なのだ。だとすれば、この先にエドがいるのではないか。


 ラナが己の唇をきゅっと噛んだところで、遠くの黒い靄が揺らめいた。目を凝らせば、あちらこちらで映像が灯されている。


 ラナは耳元の青玉の耳飾りをぎゅっと握った。そして覚悟を決め、エドを探すために足を動かす。


 *****


「ねぇ、大丈夫?」


 心配そうに声をかけられて、エドは目を瞬かせた。


 いつもの自分の部屋だった。降り始めたばかりの通り雨が、勢いよく窓を叩いている。ぽつぽつと灯された明かりの下で、落書きの描かれた紙が床に散らばっていた。


 雨で、外に出ることも叶わなくて、だからラナと絵を描いていたのだ。そうだ、そうだった。エドは目を何度か瞬かせ、ぎこちなく笑む。


「なんでもないよ」エドは誤魔化すように肩をすくめる。「ちょっと疲れちゃっただけ」

「お昼寝する?」


 エドが首を横に振れば、ラナは眉をぎゅっと寄せた。しばしの沈黙の後、小さく声を上げてズボンのポケットに手を入れる。


「ええと、ここ……あっ、違う。ここじゃなくて、こっちの……あれ……」

「ラナ、どうしたんだい?」

「あった!」


 嬉しげな声と共に、ラナが何かをエドの唇に押し付ける。思わず食べれば、口の中いっぱいに甘さが広がった。


 エドは目を瞬かせて、舌を動かす。丸い飴玉なのだと、一拍遅れて気がついた。


「美味しいでしょう」得意げにラナは笑った。「養父さんがいつもくれるんだよ。本当は一日一個って決まってるんだけどね、今日はこっそり二個持ってきたの」


 あ、でも養父さんはとっても怖いから、このことは内緒ね。慌てたようにラナは小声になって唇に人差し指を立てる。


 エドは頬を緩めた。春の日だまりのような暖かさが、じわりと胸に滲む。そこまではいつもの通りで。


 でも、これで本当にいいんだろうか。小さな不安が、氷で出来た針のように胸を刺した。ぴりとした痛みと冷たさに、エドは笑みを消して顔をうつむける。


 飴玉が溶け切った口の中は空っぽだ。


「……さびしい」

「エド?」

「寂しいよ、ラナ」エドはそっと、ラナの手を握った。「お願い、帰らないで。たくさん君と遊びたいんだ。君のやりたいことで良いから」


 ラナは目を丸くした後、ややあって落ち着かなげに身動ぎする。


「んっと……エドとは沢山遊びたい、けど……帰らないと養父さんが心配するし……」

「じゃあ、君のお養父さんのところに使いを出すよ。今日ラナは僕のところに泊まります、って。それなら、君のお養父さんも安心だろ?」

「それは……でも……」


 ラナの目が忙しなく動き回る。それでも期待を隠しもせずにラナを見つめていれば、やがて彼女はおずおずと首を横に振った。


「駄目だよ、やっぱり。ごめんね、明日もちゃんと来るから」


 水を差されたエドは、ぽかんと口を開けた。ラナは申し訳無さそうに視線を床に落としている。それを見る内、エドの胸にじわと黒い何かが滲んだ。


「じゃあ、もう、来ないで」


 エドが刺々しく言えば、ラナがびくと体を震わせた。彼女の目に戸惑いがありありと浮かんでいる。その顔をエドは睨みつけた。


「来ないでよ。君が帰っちゃうなら、一緒にいたくない」

「なんで?」

「寂しいんだよ! 言っただろ!」エドは彼女の手を振りほどいて背を向けた。「こんなのおかしいよ! 君が来る前はこんなじゃなかったのに……! ちゃんと普通に生活できてたのに!」

「エド……」

「触らないで!」


 伸ばされたラナの手を乱暴に払った。乾いた音は思った以上に大きく部屋に響いた。それに少しばかり冷静さを取り戻して振り返れば、今にも泣き出しそうな彼女がいる。


 八つ当たりだ。エドは急に自分が恥ずかしくなった。目を伏せる。ごめんと、言えばいいのだ。けれど、そのたった一言が出てこない。


 ラナが目元を赤くしながら、そろりと問う。


「……エドは、私のことが嫌いになった?」

「そうじゃない」雨音の狭間で、エドは歯切れ悪く返事をした。「そうじゃないから、怖いんだよ。ラナだって気付いてるだろ。僕の家は普通じゃない。僕は屋敷から出られなくて、子供を作るための知識しかなくて、君が来なければ、楽しいがなにかも分からなかった」


 君が気づかせてくれたんだよ。ポツリと言って、エドは顔をうつむけた。古びた絨毯を見つめて、「でも、」と肩を震わせる。


「そんなことに気付いたって、どうしようもないじゃないか。僕はこの家から出られない。君はいつだって家に帰っちゃう。それが寂しいんだ。でも、そう思う自分が怖いんだ。それなら……それなら、前の僕の方がよっぽど」

「やめて」ラナはぼろりと涙を流しながら、エドの両腕を掴む。「そんなこと言わないでよ。エドはエドだよ? 前も今も関係ない」


 エドは答えられなかった。とうに消え失せた飴玉の甘さを思って泣きたくなる。自分もこんな風に消えてなくなってしまえばいいのに。


 そんなエドの願いをしかし、否定したのもラナだった。


「……ねぇ、じゃあ。この家から出ようよ」


 嗚咽の合間に囁かれた言葉に、エドは耳を疑った。ラナを見やる。彼女は泣いていて、それでも目はしっかりとしていた。


「エドが嫌なら、私の家で一緒に暮らそう?」

「そんなの、出来ないよ」

「出来るよ。私だって手伝うし。養父さんもきっと助けてくれる」ラナは鼻をすすりながら、エドの身体に両腕を回す。「だから、お願い。悲しい顔しないで」

「……僕、悲しいのかな」

「そうだよ。だから、私も悲しいの」


 そんなの、変だ。エドは思う。それでも、それを口に出すのは嫌で、代わりにぽつりと呟いた。


「約束、してくれる? 一緒に外に出る、って」


 もちろんだよ、とラナが涙に濡れた頬を動かして笑う。たったそれだけのことが、ひどく眩しくて、苦しくて、嬉しかった。


 *****


 これじゃない、とラナは胸中で呟いた。止まりそうになる足を叱咤して、荒い呼吸を何度も吐きながら黒い靄の中を駆ける。


 ここまではラナの記憶と映像が一致していた。けれど自分が探さなければならないのは、きっと別のものだ。自分が知らなくて、けれどエドを苦しめているもの。己に強く言い聞かせ、ラナは足を動かし続ける。


 ひときわ暗い映像に行きあったのは、その時だった。


 *****


「嘘だ!」


 暗い部屋で、エドは悲鳴じみた声を上げた。


 父親の執務室、その奥にある部屋だった。たった一つある小窓から差し込む月明かりが、床に倒れ伏したエドに降りかかる。


 その月明かりを遮って、父親は爪先でエドを蹴り上げた。


「随分と生意気な口をきくようになったものだな」

「っ……」腹にじわりと滲む痛みに顔をしかめながら、エドは弱々しく首を横に振る。「嘘……嘘だ。ラナが約束を破るなんて……」

「哀れな子供だな。蹂躙すべき女の言葉を信じるなど愚の骨頂だ」

「っ、ラナはそんなのじゃない!」


 エドは頭に血を上らせながら唾を飛ばした。


「だって、約束したんだ! 一緒にここから出ようって! 彼女は友達で! 僕の大切な……あんたなんかより、ずっとずっと大切な人で、」

「性交はしたのか?」


 父の淡々とした声に、エドは凍りついた。何を言っているのか、一瞬意味が理解できなかった。


 けれど目の前の父親は、エドの戸惑いこそが理解できないようだった。温度のない目がエドを見下ろす。


「アレはリンネウス家の血を繋ぐために屋敷に招き入れた雌だ。今宵の迎えで養親共々逃げられたのは癪だがな。きちんとお前が子種を入れたのであれば、探すのに少々時間を要しても問題はない」

「ば、かなことを言わないでください、父上」ややあって、エドは乾ききった喉を何とか動かした。「何を言ってるんです? ラナはこの屋敷に探検に来たって言ってたんだ。なにより、彼女は魔術師なんかじゃ、」

「魔術師だよ、アレは。だからお前が雌と何をしようと見逃していたのだ」

「そんな……」

「それで、お前はあの雌と交わったのか」


 エドは弱々しく首を横に振った。そんなこと、出来るはずがない。だって彼女は大切で、そういうことをする仲なんかじゃなくて。


 父親の目が、ぐっと細まった。


「愚図が」


 吐き捨てるような声とともに、父親が再び蹴り上げる。エドは冷たい床に半身を強かに打った。鈍い痛みに顔を歪める。その耳に届くのは、低い声で唱えられる詠唱。

 エドは顔を青くした。


「待って、父上……! それは、」


 嫌だと、エドが言いかけた声は、右脚に走った激痛のせいで絶叫に変わった。固い床の上で身を捩る。そのエドを、父親は冷淡に見下ろす。


「たかが脚の骨を折っただけだ。あの雌を取り逃がした罪に比べれば遥かに軽い」

「……っ、いやだ……やだ……父上、やめて……」

「耳障りな泣き言はやめろ」


 父が再び、短く詠唱する。次いでエドの左足に激痛が走った。エドは悲鳴を上げる。痛みと恐怖と冷たさでエドの意識が一気に曖昧になる。


 髪を無造作に掴まれ顔を上げさせられた。それは確かに父であるはずだった。けれど歪む視界では表情など判別できようはずもない。黒い人影が、ただただ、エドに冷淡な眼差しを向けて囁く。


「恨むならば、お前を捨て置いた雌を恨め。アレがここに留まりさえすれば、お前はこんな罰を受ける必要などなかったのだから」


 それが、真っ暗な時間の始まりだった。


 そんなはずはないと、最初こそエドは否定していたはずだった。ラナは自分を見捨てるような子ではない。きっと何か事情があって来られなくなっただけなのだ。だから耐えていれば迎えに来てくれる。約束をしたんだから。エドは必死に言い聞かせて彼女を待った。待ち続けた。


 けれど、ラナが現れることはなかった。部屋は暗い。暗くて寒い。出ることも叶わない。傷が癒えれば新たな傷を与えられ、痛みは永劫続く。


 彼女は来てくれるはずだ。エドは思う。信じている。あぁけれど、もしも約束が嘘だったのなら? 激痛に意識が落ちる寸前、何日も食事を抜かれて朦朧とする意識の片隅で、不安は音もなく訪れる。自分はラナのことを大切に思う。けれど彼女はそう思っていないんじゃないか。だから、約束のことなんて忘れて、ここに来てくれないんじゃないか。


 だとしたら不公平だ。そんなの、おかしい。彼女ばかり幸せになって、自分はここで一生痛みに怯えて暮らすのだ。


 息をする度に暗闇と激痛が身体の中に入ってくる。エドはそれに溺れて、飲み込まれた。諦めて受け入れてしまえば、あっという間だった。



 自分は、僕は。



「……俺は、君が憎い」



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