# 月光

「おかしいだろ……!」

「落ち着きたまえ、テオドルス」

「これが落ち着いていられるかよ!」


 テオドルスはエメリの書斎机を乱暴に叩いた。日付を超えた教授室に響く音は虚しい。そしてエメリは、デスクトップの画面モニタに目を向けたままだ。


 机の上の拳を握り、テオドルスはぐっと息を吸った。自分たちの教授の反応が薄いのはいつものことだ。だが、今日ばかりは引き下がってはいられない。


「――あんた、エドに何をした」

「何もしていない」

「笑わせんな」机上の懐古時計を見やり、テオドルスは吐き捨てるように言った。「それを回収する時に、何かをしたんだろ。そうじゃなきゃ話があわない」


 少なくとも、今日の夜――エドが学術機関アカデミアを出発する時に話した限りでは、彼は普段どおりの様子だった。クソ生意気な後輩は、いつもの通りに研究室に缶詰で、いつもと変わらずテオドルスの行動に嫌味を連ねていたのだ。


 それが、今やどうだ。先程目にしたばかりのエドの様子を思い出し、テオドルスの胸に苦いものが広がる。黒いもや、地面に打ち捨てられた短剣、割れた仮面。虜囚のために設けられたような小さな部屋だった。そこで床にうずくまったエドは、定まらぬ視線のまま、うわ言を繰り返す。


 哀しいのに嬉しい。たのしいのに苦しい。殺したいのに守りたい。


 テオドルスは歯噛みする。あれじゃあ、まるで。


懐古症候群トロイメライだ」


 事も無げに言い放たれたエメリの言葉に、テオドルスの喉が急速に乾いていく。


「……ありえない」

「ふん、見知らぬ病に対する一般人の反応とさして変わらんな」エメリは鼻を鳴らした。「発症しない内はあれこれと騒ぎ立てるくせに、いざ当事者となれば否定したがる。論理的になりたまえよ、テオドルス。懐古症候群は人間である限り、等しく発症しうる病だ」

「分かってるよ、そんなことは! けど、エドに懐古症候群の予兆なんて無かっただろうが……!」

「本当に、無かったのかね」

「……なんだと?」


 椅子を軋ませ、エメリがテオドルスの方へ顔を向けた。銀縁眼鏡の奥で、青鈍色スチールブルーの目が冷たく光る。


「頻繁に生じる頭痛、繰り返し見る夢、特定の事柄に対する異常な執着――エドワード君の場合は、これらの症状が半年前から続いていた」


 妙な夢を見る。そう言っていたエドのことを思い出し、テオドルスは血の気が引いた。そうだ、彼は確かに言っていた。灰色の街の夢を見る、と。雨が降りしきる中で探し当てた幼馴染は、いつだって死んでいるのだ、と。


 あれが予兆だったというのか。愕然と思うと同時に、テオドルスはある可能性に行き着いて、ぞっとする。


「待てよ……じゃあ、なにか? 教授ドク、あんたはエドの調子が悪いってことを知ってて、連れ回したっていうのか?」

「研究というのは、何千何万という事象の観察から成立する。まして懐古症候群に治療法はない。ならば、患者の限りある生を正しく利用するのが我々の使命だろう?」


 鈍器で殴られたような衝撃に、テオドルスは目眩がした。エメリの言うことは正しく真実だ。まさにテオドルスの信じるところでもある。


 だが、じゃあ、自分は受け入れられるのか。懐古症候群に罹ったエドを、このまま利用し続けられるのか。喉元まで競り上がった吐き気に痛感する。


 自分は、この期に及んでも傍観者気取りでいたのだ。とっくの昔に当事者であったというのに。少し考えれば、こうなることは予想できたはずだというのに。


 エメリが目を眇める。


「実際のところ、エドワード君のデータは大変に貴重なものだ。彼の場合は、症状が一気に進行した。言動から鑑みるにラトラナジュが執着の対象であることは間違いない。加えて言うならば、彼の中では二種類の記憶が混在しているようでね。一つはラトラナジュに裏切られたという憎悪の記憶。こちらは彼の過去と一致する。そしてもう一つは、ラトラナジュが殺されるという後悔の記憶――だが、こちらは本来ありえない記憶だ。ラトラナジュは生存しているのだから」

「…………」

「さぁ、ここからが本題だ。テオドルス」エメリは静かに問いかけ、唇の端を僅かに上げた。「エドワード君の持つ二つ目の記憶は、一体どこから来たものだと思うかね?」


 青鈍色の目の底知れなさに、テオドルスはぐっと息を詰めた。氷塊が喉に引っかかり、言葉はおろか呼吸さえも詰まらせる。


 答えられるはずなど無かった。さりとて、知らない、という返答をする余裕さえ、今のテオドルスにはない。


 テオドルスは逃げるように部屋を飛び出した。深夜の学術機関の廊下を闇雲に歩く。時計台の鐘の音が鳴り響き、暗い廊下に虚ろに響いた。陰鬱なそれにテオドルスの胸がますます重くなる。


 その足が止まったのは、隣接する病院と学術機関を繋ぐ渡り廊下に差し掛かった時だった。


「あれ、テオじゃねぇの」


 軽やかな声に、テオドルスは深緑色モスグリーンの目を開いた。


 廊下の壁に背を預けるようにして、マリィが立っている。腰まで届く金の髪が、窓から差し込む月光を弾いて輝いた。暗闇のせいか、はたまた身につけている白の病院着のせいなのか、ひどく顔色が良くない。


 テオドルスが慌ててマリィの元に駆け寄れば、彼女はにんまりと笑って片腕を突き出した。


「っへ……?」

「やーい、かかってやんの」呆然とするテオドルスに、マリィはからりと笑う。「具合悪そうな病人のフリ作戦、大成功だな」

「っ、お前……いい加減にしろよ……」


 あぁそうだ、マリィは確かにこういう女だ。だが、だからってタイミングが悪すぎる。テオドルスが思わずその場に座り込めば、マリィがおどけた調子で彼の黒髪をぽんぽんと手で叩いた。


「なんだなんだ、全然元気ね―じゃん」

「お前が元気すぎんだろ、マリィ……大体、なんでこんなところに……」

「だって、なかなか夜眠れなくてさぁ」

「入院中だろ」

「う、そりゃそうだけど」マリィは唇を尖らせた。「運動不足だと眠れねーじゃん」

「阿呆らし……俺の心配返せよ……」


 テオドルスは深々と息を吐いた。マリィはくすくすと笑いながら隣に座り、投げ出されていたテオドルスの手をそっと握る。


「なぁ、テオ? なんかあったのか?」

「なんでだよ」

「んー? 勘ってヤツ?」

「……なんだそれ」


 のろのろとテオドルスが視線を横に向ければ、マリィが月明かりの中で得意げに胸をそらした。


「だてにテオドルス君の幼馴染をしてるわけじゃないので」


 なんだそれ。もう一度胸中で呟いて、テオドルスは顔を再び俯けた。


 マリィは何も知らない。エドがどうなってしまったのか。エメリが何をしようとしているのか。そして、テオドルスがどれほど情けないのか。


 でも多分、何も知らなくても、何かがおかしいことには気付いているのかもしれない。それこそ、お得意の勘というやつで。


 思えば、彼女は昔からそうだった。何も知らないフリをして、誰よりも一番何かに気付いている。


 テオドルスは目を閉じた。繋いだ彼女の手は冷たく、なのに、ほんの少し汗ばんでいる。


「なぁ、マリィ」

「ん。なんだ?」

「お前さ、前に言ってたじゃん。俺たちのこと信じてるって」

「うん」

「あれって、今もまだ有効か?」

「もちろん」

「……そうか」


 返答は、小気味良いまでにあっさりしていた。そしてだからこそ、テオドルスを勇気づけるものでもあった。


 テオドルスは目を開ける。間近に見る彼女の横顔。その額にうっすらと汗が滲んでいるのが見えた。やはり、彼女の体調は思わしくないのだろう。それが分かって、テオドルスは目を伏せる。


 心臓に病を抱えたマリィは、戦うこともままならない。けれど自分はどうだ。戦える。頭だって働く。状況は悪くなる一方だが、まだ何とかなる。


 そっとマリィの手を解けば、彼女は唇の端に笑みを浮かべた。


「お、元気になったな?」

「おかげさまで」

「ふふ、どういたしまして」


 お代はハミンスのアイスクリームでいいよ。のんびりとしたマリィの言葉に、テオドルスは胸に決意を秘めたまま、小さく笑って頷いた。

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