9-1. 繰り返しなんだ
「あの子、無理してるわ」
煙草臭い後部座席でシェリルが呟いたのは、ラナを家に送り届けた後のことだった。エメリに襲撃され、アランが傷を負った。そんな悪夢のような夜が明け、窓の外の空は白み始めている。
娼館へと車を走らせるロウガからの返事はない。それにシェリルは眉を釣り上げ、運転席の背もたれに思い切りヒールの踵を突き刺した。
「
「えぇえぇ、そうでしょうとも。痛くしようと思って蹴ったんですからね」シェリルは両腕を組んでロウガを睨んだ。「でもね、分かってるの? ラナの方がもっと痛いと思ってるわ」
「……んなことは……」
「まさか気付いてるって言うんじゃないでしょうね? 嘘よ。気付いてたら、みっともなく口論なんかしないはずでしょ」
シェリルは早口でまくしたて、息をついた。先程別れたばかりのラナの横顔が忘れられない。ラナは傍目から見ても養父にべったりだったのだ。休息のためとはいえ、帰宅すら渋るとシェリルは思っていた。
なのに、実際はどうだ。ラナはすんなりと帰宅を受け入れ、あろうことか娼館を飛び出してきたシェリルのことを気遣ってみせた。
先程までラナが座っていた隣の座席。そこへ手を沈み込ませて、シェリルは呟く。
「ねぇ。あの子、全然泣いてないのよ。仮にも自分の父親代わりの男が大怪我してるっていうのに、少しも取り乱してない。それがどれほどおかしいことか、刑事さんなら真っ先に気づくべきだったわ」
バックミラー越しにロウガが眉尻を下げた。
「すまん。取り乱してたんだ……なんっつーか、あの魔術師さんが負けるところも想像できなかった訳だしな……」
「愚痴ばっかりお上手なこと。これだから、あんたはぼんくらなのよ」
「……面目ない」
「私はラナに協力するわよ。まさか、ここまで来て私の身が危ない、とか言わないでしょう? 元はと言えば、私達があの子を巻き込んだんだもの。きっちり落とし前をつけなきゃ」
シェリルが迷いなく言い放てば、ロウガもゆっくりと頷いた。
「あぁ、そいつぁそうだ。俺としても手助けするつもりだがねェ……」
「なによ、その煮え切らない返事は」
「実際のところ、どうやってエメリを追い詰めるか、ってぇ話だ」
「
「いや……あの薬の解析はまだ終わってなくてな……」
「はあ!? もう2週間近く経ってるってのに、まだ終わってないの!?」
「やや……その……機材とかがよ……」
ロウガのボソボソとした返事に、シェリルは眉根を寄せた。せめて返事くらいはハキハキしなさいよ。腹立ち紛れに、再び運転席の背もたれを蹴り上げようと足を動かす。
その時だった。車内に携帯端末の振動音が響く。二人はぴたりと口を閉ざした。メール受信だったらしく、振動音はすぐに止む。
シェリルは、バックミラー越しにロウガと視線を交わした。
「……早朝からメールを寄越す愛人なんて。とっても熱烈ね、刑事さん」
「おいおい、せめてそこは奥さんだろうが……いや独身だけどよ……あ、おい」
ロウガの返事が終わらぬ間に、シェリルは助手席に放り投げられていたロウガのコートへ手を突っ込んだ。携帯端末を取り出し、通知画面を覗く。
件名はない。差出人も不明。けれど本文にこう記されている。
『エメリ・ヴィンチは今晩19時に娼館に現れるT.J.』
*****
ラナがロウガから謎のメールの存在を知らされたのは、その日の夕刻のことだった。長くはない睡眠をとり、手早く身支度を整えて娼館に向かう。
裏口でロウガと落ち合ったラナは、挨拶もそこそこにロウガへ問いかけた。
「あのメール、何なんだい?」
「順当に考えれば、エメリの情報が
目の下にクマをこびりつかせたロウガは、ぼざぼさの髪を乱暴に掻きながら呻いた。
「厄介なことに送信者が分からんのさ。使われてるメールアドレスは使い捨て。件名も無し。ただ……」
「ただ?」
「そのメールを見た時にな、シェリルが言ったんだよ。TJってのは、テオドルス・ヤンセンかもしれねえって」
ラナは唾を飲んだ。テオドルス・ヤンセン。彼は娼館で薬を配っていた張本人のはずだ。学術機関の所属で、エメリ・ヴィンチの元で研究をしている。どう考えても敵側の人間のはず。
それが何故、このタイミングで連絡を寄越してきたのか。ラナは慎重に口を開いた。
「罠って可能性もあるよね……」
「ある。十分にな」ロウガがゆっくりと頷いた。「もちろん、ただの迷惑メールってことも。そっちの方がずっとマシだがねぇ……いずれにせよ、決め手に欠けるのが正直なところでな。だからこそ、こうして張ってるんだが」
そこで娼館の裏口が開き、シェリルが姿を現した。ロウガを見やり、次いでラナの方へ視線を向けた彼女は、ほっとしたように口を開く。
「よかった、ラナ。昨日よりは顔色が良いみたいね」
「心配かけてごめん」シェリルに向かって苦笑した後、ラナは問いかけた。「中で何か動きはあるかい?」
「いいえ。今のところは至って普通よ。店を開ける準備でバタついてるくらいで」
「そ、外の方も怪しい動きはないな」
シェリルの言葉に続いたのは、ヴィンスの声だった。娼館の正門の方角から姿を現した彼は、珍しく
「す、少し早く着いたから、念のためと辺りを見回っていたがね。あ、怪しげな罠も、エメリの姿も見えない」
「ヴィンスさん……アイシャは来てないのかい?」
「あ、あの娘なら昨日から部屋に篭りきりだな」
「そう……」
昨日のやりとりが思い出されて、ラナの胸がつきりと痛む。と、背中を一つ叩かれた。振り返れば、シェリルが気遣わしげな目を向けている。
ラナは咄嗟に笑んだ。大丈夫。そう意味を込めて頷けば、シェリルが少しばかり不満げに……だが目を逸らす。
「それで?」幾ばくにも満たないラナとのやりとりなどなかったように、シェリルがロウガ達を見渡した。「大勢集まったはいいけど、これからどうするっていうのよ」
素早く応じたのはヴィンスだった。
「も、もちろん、中に入るに決まっているだろう。え、エドナ、お前ならシェリル・リヴィ以外の姿を隠せるな?」
「勿論よ、神父様」一つ頷いたエドナはしかし、そこでヴィンスを見上げて己のふっくらとした唇をなぞる。「あぁでも、たまには御褒美を前払いで欲しいかも」
「……て、手短にな」
ヴィンスが憮然として呟けば、エドナはにこと笑んだ。そして次の瞬間、彼女はヴィンスへ身を寄せて、唇を奪う。
ラナが唖然とし、ロウガが目をそらし、シェリルが呆れた様子で咳払いをする。それに構うことなく、決して短くはない時間キスをしたエドナは、面倒臭そうな顔をするヴィンスから顔を離して、濡れた唇を舌先で舐めた。
「それじゃ、手っ取り早く始めましょ」
上機嫌に宣言したエドナは、黒スーツの懐から空の小瓶を取り出した。そうして、中身をラナ達へ振りまく仕草をしながら詠唱を紡ぐ。
『猫の足音 落日の残響 子らを誘い影を奪え 』
果たして、エドナの魔術は上手く機能した。互いに姿が消えたことを確認したラナ達は、唯一、術を掛けられていないシェリルに先導されて娼館の中に入る。
「……なぁ」薄暗い廊下を歩きながら、ロウガが思わずといった様子で、ラナに問いかける。「さっきの神父の兄さんと魔女さんのアレは何だってんだ……?」
「魔術の触媒ではない、と思うけど……小瓶を使ってたし……」
「聞こえてるわよ、ネズミさん達」
ラナとロウガが揃って口を閉じれば、すぐ前を歩いていたエドナが首だけ捻って冷ややかに笑む。
「ただのスキンシップじゃない。年頃の子供みたいにはしゃがないで欲しいものね」
「はしゃいではないねぇけどよ」ロウガが苦り切った声を上げた。「いや、なんだ。最近の若者は進んでるなっていうかな……?」
「む、無駄話はやめてくれ」
シェリルと共に先陣切って歩いていたヴィンスが、うんざりした声を上げた。ちょうど娼館の中庭に差し掛かったところで足を止めた一行は、ざっと辺りを見回す。
賑わいはいつもの通りだった。見通しの利かぬ薄暗い空気に、あちこちから少女達と客の笑い声がする。漂う甘い香りも、少女達が身につけた装飾品と鎖が擦れ合う軽やかな音も同じ。
視界の端で煙草の炎が揺れた。そんな気がして、ラナは思わず中庭の隅を見やった。図らずも一ヶ月前にアランが煙草を吸っていた場所。
けれどそこに、彼の姿はない。代わりにあるのは、煙草を片手に少女を侍らせている見知らぬ客で、ラナは目を伏せた。
喉の奥がきゅっと痛くなる。その痛みを、無理矢理に唾と共に飲み込んで、彼女は口を開いた。
「少なくとも、」
変わったところはなさそうだ。そう、ラナが言いかけた時だった。
時計台の鐘の音が響き始める。午後七時を告げる鐘に、ラナ達は互いに視線を交わし合った。見える景色に依然として変化はない。鐘の音に驚いたのか、どこからともなく鳥が羽ばたく音がするくらいだ。
重苦しい音がやけに大きく聞こえ、ラナは思わず身動ぎする。右手の甲が誰かに当たった。顔を横に向ければ、落ち着かない様子のシェリルと目が合う。
「……私、少し受付の様子を見てくるわ」
「私も行くよ」
シェリルが頷く。そうして二人は小走りで受付に向かった。客の姿はない。それを確認して、ラナの手のひらにじわりと汗が滲む。エメリはもう娼館の中にいるのか。それとも、やはりあのメールはデマだったのか。
そこで、受付の少女がシェリルの姿に気づいた。近づいてくるシェリルに、ほっとしたような顔をして口を開く。
「シェリルさん……ちょうどよかった。いつもご指名頂いてた子が、体調不良で出られなくて」
「指名? どういうことかしら?」
シェリルが首を傾げるが、受付の少女は表情一つ変えずに繰り返す。
「指名された子が、体調不良で出られないんです。だからシェリルさんに代わりに入ってほしくて」
「……どこに」
「お客さんのところにですよ。ほら、そこにいらっしゃるでしょう?」
少女が片手で誰もいない空間を示す。まるでそこに誰かがいるように――そこまで考えたところで、ラナの背に冷たいものがはしった。
「これ……繰り返しなんだ……」
ラナはぽつりと呟いた。シェリルが振り返る。その青い顔を見ながら、ラナは唇を震わせる。
「同じ流れなんだよ、これ。テオドルスが受付に来てた時と。あの時も、彼が指名してた女の子が出られなくて、シェリルが代わりに彼の相手をしたんだ」
シェリルが目を丸くする。
ガラス窓が割れる、耳障りな音が響いたのはその時だった。
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