8-1. さほど驚くことでもあるまい
「っ……!?」
暗闇の中で、ラナは引き攣れた呼吸を漏らした。路地に叩きつけられた背中がじんと痛む。霞む視界で、己を見下ろす黒い人影を見やる。
それは影そのものだった。黒い霧を無理矢理に圧縮して、なんとか人の形を呈している。顔に当たる部分は闇が蠢き、獣のような紅の目からはギラギラとした眼光が注がれる。
「おや、もう捕まったのか」
杖が地面を叩く音と共に、老いた声が聞こえた。黒い人影の肩越しに見えたのは初老の男だ。鷲鼻に銀縁眼鏡。肩に一羽の
「他愛もないな。こんなものに手こずっていたテオドルス達の気が知れん」
「っ……エメリ……」
ラナが声を震わせれば、鴉が一声鳴いた。黒い影が脅すようにラナのこめかみ近くの地面を叩き、彼女は青ざめる。
ラナは、鴉の鳴き声で目を覚ましたのだった。なんとはなしに見やった窓の外、そこにエドの姿を見かけたのは数分前だったか、数十分前だったか。いずれにせよ彼を放っておくことなどできず、少しだけと言い訳して外に出た。
それが罠であると気付いた時には遅い。黒い人影に襲われ、逃げを打っているところで目の前の男が現れた。
エメリ・ヴィンチと名のる男が。
黒い影が、ラナの方へぐっと顔を近づける。その口から漏れた冷気が肌を撫で、ラナはぞっとした。哀しみ、痛み、苦しみ。黒々とした感情が冷気を通してじわりと滲む。
ラナは咄嗟に胸元の懐古時計を掴んだ。駄目だ。この懐古症候群は今までのものと決定的に違う。ここで倒さなければ。そう考えたところで、男の――エメリの揶揄じみた声が聞こえた。
「お嬢さん。そう怖い顔をしているが、いいのか? ソレは君の幼馴染だろう?」
ラナの思考が凍りつき、懐古症候群が咆哮した。ラナが我に返った時には遅い。黒い腕が乱暴に振るわれ、懐古時計が男に向かって弾き飛ばされる。
「っ、あ……っ!?」
悲鳴を上げるラナの手を掴み、懐古症候群が地面に縫い付けた。砕けるような痛みにラナが悲鳴を上げる中、時計を拾い上げたエメリが肩をすくめる。
「ほどほどにしたまえよ、エドワード君。言っただろう、今回の目的は時計回収のみであると」
「あ……ぁ……」
「ふむ」呻く懐古症候群を見据えて、エメリが肩をすくめる。「随分と制御が利かない。やはり症状が進行すれば難しいか」
ラナはふるりと首を振った。こんな状況にあっても淡々としている男が信じられなかった。黒い人影を見上げる。エド。これが幼馴染だというのか。この真っ黒な塊が。でも、どうして。
黒い影が一層強くラナの手首を握り、彼女は顔を歪めた。
「エド……やめて……」
「…………」
「エド……っ……!」
「……ぁ、ら、な……」
黒い人形が微かに揺れた。口から漏れる冷気に紛れて聞こえた声に、ラナは必死に頷く。
「そうだよ、私だよ……っ! エド……っ、どうしてこんなっ……」
「お、れ……俺は……君を助けて……たすけたかったんだ……なのに君は死んだ……違う、俺は君を恨んで……だって君は俺を…おいて……ちがう……違う、俺は……あぁ……」
「っ!?」
ラナの手を離した黒い影は、頭を何度も振る。ぼたりと、ラナの上に何かが落ちた。黒い雫は冷たく、触れるだけで凍えるような痛みがじわりと滲む。
ぼたぼたと、それは黒い人影の眦から零れるのだった。
それでも彼はラナに向かって腕を振り上げる。
その先端が蠢き、刃と見紛うほどに鋭利な爪と成す。
「ラナ……らな……」
助けて。憎悪と悔恨と悲哀と喜悦と、全てがごちゃまぜになった声と共に黒い影の腕が降り下ろされる。
全ては一瞬だった。鈍い音がラナの鼓膜を揺らした。視界が暗くなった。誰かに抱きしめられた。
痛みはない。
なのに、煙草と香水の香りに混じって、血の臭いがする。
「と、うさん……?」
ラナは目を見開いた。自分と黒い影の間にアランがいる。その脇腹に爪が深々と突き刺さっているのが見えた。黒い影が唸り、爪を引き抜いてエメリの方へと後退する。鮮血と肉を断つ音が生々しくラナの耳を打って、彼女は声を震わせた。
「ぁ……いや……とうさん……」
「あぁ、ラトラナジュ」脇腹から鮮血を零しながら、それでもアランは常のように微笑んだ。「良かった。間に合った」
間に合った。間に合ったって何が? ラナは首を何度も横に降った。アランが動く。それを止めたくて彼の脇腹に手を当てる。だってひどい怪我だ。血が止まらない。手を濡らす生ぬるい感覚に耳鳴りがした。
冬の森、飛び交う松明、男たちの声。十年前の光景がまざまざと蘇った。そうだ、あの夜も養父は傷だらけだった。ラナ達を狙った追手は、
ラナの喉が引き攣れたように震えた。なおも動きを止めないアランの身体を必死に掴む。
「いや……待って、やめて、動かないで、
死んじゃう。ラナの震える声を無視して、アランが振り返った。激痛のはずだ。だというのに呻き声一つ漏らさず、彼が低い声で呟く。
『冠するは雷』
詠唱と共に輝石が砕け、稲妻が生まれる。深手を負っても尚、威力の衰えぬ白光にラナは思わず目を奪われた。それは彼女が産む雷よりもずっと強く、美しく、速く。
だというのに、エメリは笑み一つ崩さず口を動かす。
「先に戻りたまえ、エドワード君」
肩に止まった鴉が飛び立つ。黒い影が夜闇に消える。そしてエメリが杖で地面を叩く。
『誘雷』
エメリの声と共に、鴉が羽ばたいた。無数に舞い散る黒い羽。それに触れた瞬間、稲妻がエメリを避けるようにして軌道を変え、周囲の地面を穿つ。
ラナは息を呑んだ。アランの横顔が険しくなる。
「おや、おや、おや」僅かに白煙の上がる地面を杖で鳴らし、エメリは唇の端を吊り上げた。「さほど驚くことでもあるまい。雷は古来から人間が最も恐れた自然現象だ。なれば、それに対抗するための策も研究されていて然るべきだろう?」
「何を、した? エメリ・ヴィンチ」
「策は無限にある」アランの問いに、エメリは愉快そうに笑った。「避雷針然り、今回のようにレーザーで雷の軌道を誘導する方法然りだ。あぁそういえば、先程の幻影は楽しんで頂けたかね? 霧に照射した映像にしては、よく出来た代物だったろう?」
「……っ、お前は……本当に悪知恵が回る……」
「養父さんっ……!」
ぐらりと傾いだアランの身体を、ラナは慌てて支えた。彼は何度か咳き込み血を吐き出す。その体はひどく冷たかった。顔からは血の気が引いている。だというのに金の目は恐ろしいほどの怒りに満ちていて、ラナは寒気とともに直感した。アランは、目の前の男を殺すつもりだ。
「だ……め、駄目だよ、養父さん……」ラナは真っ白な唇で呟いた。「そんなことしてる場合じゃない……っ! 早く手当をしないと……っ!」
「っ、どけ」
「養父さんっ……アランっ……! お願い……っ!」
邪魔だと言わんばかりに、アランがラナの支えを押しのけた。ばたばたと鮮血が零れて彼女の頬を濡らす。それが怖くて、けれどなんとかしてアランを止めたくて、ラナは必死にアランの服の裾を握る。
エメリが鼻を鳴らした。腕時計をちらと見やり、肩をすくめる。
「なかなかに感動的な場面だがね。こちらも暇ではないんだ。失礼させていただくよ」
踵を返したエメリは、無防備に背中を晒して歩き始めた。アランが
それを阻んだのは、艷やかな女の声だった。
『
アランの身体が今度こそ力を失って倒れる。それを抱きとめ、ラナはずるりと力なく地面に座り込んだ。視界の端を掠めたのは銀の蝶。それがかき消え、遠くから複数の足音がする。エメリが悠々と遠ざかる足音も。
けれど、それが何だというのだろう。アランの手を握り、ラナは滲む視界で目を凝らした。彼の目は閉じられ、その額に脂汗が滲んでいる。呼吸は浅く、脇腹からの出血が止まらない。
「養父さん……」
ラナは声を震わせ、顔を俯けた。
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