7-3. 今でも、その気持ちは変わってないよ

「エド……!」


 ふらりと駆け出したエドを追いかけようと、ラナは足を踏み出す。だが、同時に全身から力の抜けるような疲労感に襲われ、彼女は座り込んだ。

 顔をしかめる。懐古時計を使った反動だ。あぁでも、よりによってこんな時に。


 エドの消えた方角を見つめ、ラナは目を曇らせた。明らかに彼の様子はおかしかった。まるで何かにとりつかれたような。頬から流れる血をぬぐいながら考えたところで、ラナの腹の底がうっすらと冷える。


 懐古症候群トロイメライの人間は戻らぬ過去を嘆くように悲嘆に暮れ、異常行動をとるようになり、挙げ句の果てには死に至る。


「まぁまぁ、やるじゃない」


 軽やかな声に顔を上げれば、アイシャと目があった。少しばかり疲労の滲む表情をした彼女は、おもむろに右手を差し出す。

 ラナは反射的に手を差し出した。ひらりと落とされたのは一枚の絆創膏だ。


「あげるわ」アイシャがにこりと笑った。「ご褒美よ」

「……ご褒美って」

「さっきより、ずっといい顔になってるもん」


 まじまじと絆創膏を見やったラナは、ややあって吹き出した。あぁそうか。アイシャは心配してくれていたのか。

 アイシャが頬を膨らませた。


「なによう、笑っちゃって」

「ごめん。心配してくれてありがとう」

「むぅ! アイシャは真面目に話してるのよ!」

「分かってるよ」


 ラナは頷いた。

 背中を押してくれたのはヒルだけれど、きっかけを与えてくれたのはアイシャに違いなかった。彼女の言葉がなければ、ラナは自分の弱さに気づくことさえなかっただろう。

 感謝と眩しさと、少しだけの憧れを混ぜた気持ちをなんと言えば良いのか。考えて、けれど結局出てきたのはありきたりな言葉だった。


「ただ……そうだな、うん。アイシャはすごいな、って思って」


 ラナが絆創膏をそっと握って呟けば、アイシャは目を瞬かせた。

 次いで、ふいと顔を背ける。


「そ、そう!」上ずった声で、アイシャは尊大に頷いた。「ラナもやっとアイシャの偉大さが分かったってことね! それって、とっても良いことだわ!」

「うーん? 偉大、とは違う気がするんだけど……」

「じゃあ、尊敬かしら? それとも崇拝?」

「友達とか?」

「とっ、友達!」


 アイシャの声が裏返った。赤くなった頬に両手を添え、ぽかんと口を開ける。なにか変なことを言っただろうか。ラナが首を傾げたところで、ヒルの声がした。


「おーい! 大丈夫だったかい、二人とも!」駆け寄ってきた若き医者は、ラナ達を見るなり苦笑めいた表情を浮かべる。「あぁいや、僕が心配するまでもなさそうだな」

「ご心配おかけしました、ヒルさん」


 まだ少しばかりぼうっとしているアイシャを尻目に、ラナはさっと頭を下げた。彼の方も目立った怪我はなさそうだ。ざっとヒルを見やって安堵すれば、目があった彼が小さく親指を立てた。

 ラナは微笑んで、再び一礼する。


「あ、それで」ヒルに向かって、ラナは地面で気を失っている女性を示した。「あの……可能であれば、そこの女性の様子を診てもらってもいいですか?」

「え」


 言われて初めて、ヒルは女性の存在に気付いたらしい。ぶんぶんと首を縦に動かしながら、女性の傍に膝をついた。


「わわわっ、もちろんだよ! というか、このご婦人はいつの間に……?」

「それは、ええと……」


 ラナは頬を掻いた。彼女の懐古症候群は消えたと思う。さりとて、それを一から十までヒルに説明すべきかどうか。


 助け舟を出したのはアイシャだった。頬は赤いまま、いくぶんか平静を取り戻したらしい彼女は、ラナを見やって言う。


「巻き込まれたのよ。私達が戦ってる時にちょうど通りがかって」


 意味ありげに目配せされて、ラナは小さく笑った。この、ちょっとした秘密を共有している感じは、胸をくすぐられるようで悪くない。

 ヒルが「なるほどなぁ」と頷いた。


「そうだったんだね、気の毒に……あぁでも、この感じだと外傷はなさそうだな。呼吸も安定してるし。大事を取って、うちの診療所で付き添うようにはするけど」


 ヒルが女性の様子をてきぱきと確認する。その最中、かさりと乾いた音を立てて何かが地面に落ちた。錠剤の包み紙だった。ほとんどが空になっているが、一錠だけ中身が入っている。


 ラナの心臓がどきりと鳴った。慌てて腰を折り、包み紙を拾う。中に入っているのは楕円形の白いカプセルだ。薬の表面にも、包み紙にも、印字はない。

 ラナの手元をひょいと見やったヒルが、弱りきった声を上げた。


「あぁ、またその薬か」

「また、って」ラナは包み紙を握りしめ、ヒルを見つめた。「ヒルさん、この薬のことご存知なんですか?」

「え、や、知ってるってほどでもないけど」


 ラナが身を乗り出せば、ヒルは戸惑ったような声を上げた。


「うちに来る懐古症候群の患者さんがよく持ってるんだ。その得体のしれない薬」



 *****



 ヒル曰く、その薬は出どころ不明のものだった。


 本来ならば包装紙に印字されているべき薬の名前も書かれていない。薬局で売られている節もない。薬を持っているのは決まって懐古症候群が進行した患者で、薬の入手先を尋ねても、まともな返事が得られた試しがない。


 ただ、患者が決まって繰り返すのが薬の効用だ。懐古症候群を緩和する薬なのだという。ところがヒルが調べた限り、そんな薬が世に出回っている形跡はない。


「これが、シェリルが見かけたっていう薬なのかも」


 一通り話し終えたラナは、アランの掌の上に薬を置いた。


 時刻は午後八時を回ろうかというところだ。夕飯を終え、機を見てラナは薬を見つけた経緯を切り出した。


 ラナ同様、ソファに腰掛けたアランが小さな薬をじっと観察する。彼の指先が動く度に、かさりという包み紙の音が響き――やがて、その目元が緩まった。


「悪くないな」アランが口元の端を上げて、ラナを見つめる。「少なくとも、ロウガ刑事の報告にあった薬の形状とは一致しているようだ」


 ラナは顔をほころばせた。じんわりと胸に温かい物が広がるのを感じながら、ソファの上に片手をつき身を乗り出す。


「ええとね、この薬なんだけど。ヒルさんから患者の住所も教えてもらってるんだ。だから、明日にでも患者さんの場所を地図と照らし合わせてみようと思って。そうしたら、娼館と同じことが起こってるかどうか、確認できると思うんだ」

「いい考えだな」

「シェリルにも勿論連絡するつもりだよ。なんだったら、娼館の方にも行くかもしれない。ほら、彼女はちょっとせっかちなところがあるし」

「あぁ」

「アイシャも、もう少し協力してあげるって言ってくれてね。ふふっ、あの子ったら、相変わらず喋り方が上からなんだけど、ちょっとだけ優しい感じになったんだ。それでね、」

「ラトラナジュ」


 アランに静かに名前を呼ばれ、ラナはぴたりと口を止めた。我に返れば、アランの目が面白がるような光を帯びている。

 ラナは顔を赤くした。


「ご、めん……私……」

「謝る必要はないさ、ラトラナジュ」引っ込めかけたラナの手の上に己の手を重ね、アランが笑みを深める。「むしろ安心したよ。ここ最近の君は、随分と元気がなかったから」

「……うん」


 ラナは顔を俯けて頷いた。

 一週間前、心配するアランの手を遠ざけたのは他ならぬ自分自身だ。気を使ってくれていたのか、はたまた養父自身も忙しかったのか、今日に至るまでろくな会話もできなかった。

 ラナは目を伏せ、息をつく。少し言葉に迷い、けれど結局口を開いた。


「あの時は、ごめんなさい。でも、もう大丈夫……だと思う」

「なんだ、自信がないのか?」

養父とうさんみたいに、自信満々にはなれないよ」苦笑いした後、ラナは付け足した。「でも、うん。ちょっとずつ自信を持てたらいいなって……思ったかな。今日はそれを痛感したところ」


 そうやって、少しずつ誰かの役に立てればいい。積み重ねていった先で養父の手助けができるならば、尚のこと嬉しい。重ねられたアランの左手には未だ装飾腕輪レースブレスレットがなかった。相変わらずそれが不安で、けれど少しだけ思う。


 不安だと思うのなら、アランの手助けができるくらいに自分が頑張ればいいのだ。その指先をぎゅっと握って、ラナは思う。


 アランが苦笑めいた息を漏らした気がした。彼の右手が伸び、ラナのイヤリングにそっと触れる。


「懐かしいな。そういえば、このイヤリングを贈った時も似たようなことを言っていたか」

「結婚式の真似事のやつ?」

「それもそうだが」アランはからかう素振りも見せず、目を細める。「青玉サファイアの石言葉を教えただろう? あの時」


 言われて、ラナも思い出した。


 青玉の石言葉は、『誠実な祈り』『守護』『一途』。そう言いながら耳飾りをつけてくれた養父に、「じゃあ」と幼い自分は無邪気に言ったのだ。


 私がお養父さんを守ってあげるね、と。今にして思えば、変な話だった。青玉を贈られたのはラナの方だ。守られるのはラナの方であって、アランではない。


 あぁでもあの時の自分は、とにかく嬉しかったのだった。養父と揃いの装飾品アクセサリを身につけられたことが。血は繋がっていないけれど、ほんの少し距離が近くなったように感じられて。


 あの頃は、まだ何もラナが知らなかった頃で。故郷の森は平穏で、街に出れば幼馴染が遊んでくれて、本当に幸せに暮らしていた頃だった。


 ラナは目を伏せる。暖かさと気恥ずかしさと郷愁を混ぜて、息をつく。


「今でも、その気持ちは変わってないよ」


 たくさんのことがあったけれど、その気持ちだけは、変わってない。心の中だけで付け足して、指先を絡める。衣擦れの音がした。耳飾りを撫でていたアランの指先がするりと頬を伝い絆創膏をなぞって、ラナの顎を上げる。


 促されるまま顔を上げれば、金の目が間近にあった。憂いと優しさをないまぜにした目は星のように綺麗で、その目に自分が映っていることが密かに嬉しくて。胸によぎった感傷を誤魔化すように、ラナはへにゃりと笑い、アランの指を三度撫でる。


「養父さんの手は、いつだって冷たいね」


 アランの目が微かに揺れ、ゆっくりと閉じられる。そうだな、と穏やかに呟いた彼は、ソファを僅かに軋ませて身を乗り出し、ラナの額に口づけを一つ落とした。

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