7-2. 勇気を持てるかどうか。それだけの話だよ
屋根の上で人影が動いた。動いたのは女の方だ。無造作に歩を進めた彼女は、実に自然に屋根から足を踏み外し、アイシャ達の元へ落下する。その姿は地面に着く寸前で溶けるようにして消えた。
ラナは呆然としているヒルの手をとった。
「こっちだよ……!」
「え、でも、魔女様が!」
「あの子なら大丈夫だから!」
ぐいとヒルの手を引っ張って走り出す。同時に、アイシャの軽やかな声が響き、鮮紅色が舞った。
大通りにいれば良い的になる。走りながら幾つかの脇道を見やり、その中でも一番細い路地に飛び込んだ。さらに進んだところで足を止める。誰かが追ってくるような気配はない。
地面に座り込んだヒルが、荒い息をついた。
「一体なんなんだ、今のは……?」
「懐古症候群だよ」
「懐古症候群? あれはただの精神疾患だろう?」
ラナは息を無理矢理整えながら首を横に降った。
「違う。いや、最初はそうかもしれないけど……最後にはあぁなるんだ。なんというか、狂うっていうか」
「そんな……」
言葉を詰まらせるヒルから目を離し、ラナは再び路地の外へ目を向けた。曇天の通りに、黒い靄が立ち込めていた。けぶる視界に苛立ちながらも目を凝らせば、アイシャとエドの姿がぼんやりと見える。
二人の力は拮抗しているようだ。紅をまとったアイシャの体術は荒々しくも美しく、仮面をかぶるエドの身のこなしは野生動物さながらに猛々しい。
「……君も、行ってきていいよ」
ヒルが呻くように呟いた。ラナが振り返れば、彼は未だあえぐように呼吸をしながら――それでもまっすぐにラナを見つめる。
「魔女様と一緒にいて、でもあの状況に動じてなかった。ってことは君も魔術師なんだろう?」
ヒルの揺るぎない信頼がラナの胸に刺さる。でも。けれど。胸中で浮かび上がる弱音に、ラナは顔を俯けた。ヒルが首を傾げる。
「お嬢さん?」
「……私は、駄目だ」
「え?」
「……その、役立たずで……」
ラナの声は尻すぼみになって消えていった。何を馬鹿な、と己を笑いたかった。輝石はある。懐古時計だってある。戦う準備はできている。なのに、エドの姿を見ただけで震えが止まらない。あと一歩、戦うということへの勇気が持てない。
貴方は弱くて、役立たずなのね。そんなアイシャの声が、響いて。
「お嬢さん、君は……」
ラナの様子をじっと見ていたヒルが口を開いた。何事かを迷うように口を閉じ、けれど結局、もう一度口を開く。
「役立たずな人間なんかいないんだよ」
ラナは顔を上げた。ヒルは真剣そのものの目でラナを見つめる。
「人間、違って当然なんだ。弱い奴もいれば強いやつもいる。でも、同じ人間はいない。だからこそ、人によって何が大切で、何ができるかが違うんだ。ある人にとっては役に立たないように見えても、他の人にとっては役に立てることだってある」
「…………」
「……ってまぁ、うん。これは好きな映画の受け売りなわけだけど」ヒルは苦笑いして、ラナを見つめた。「でも僕は、真実だと思う。誰かの言う、役に立たないを信じちゃいけないんだよ。大切なのは、君自身が自分を信じてあげられるかどうかだ」
ラナはラナのしたいようにすればいいのよ。唐突に思い出したアイシャの言葉に、ラナは胸元の懐古時計をぎゅっと握りしめる。ヒルも、アイシャも、言っていることは結局同じなのかもしれない。
ラナは目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、エドの冷たい眼差し、振り上げられた短剣と激痛、そして十年前の記憶。
「……やりたい、ことをするのは」ラナはそろりと目を開いた。「自分がやりたいことをするのは、怖くないですか」
唐突な問いだった。事情を知らぬヒルが、どこまでラナの気持ちを汲んだのかも定かではなかった。
それでも、彼の目は揺らがない。
「怖いよ。僕だって、患者さんの手術をする時は怖い――でも、怖いけど、やりたいんだ。だったらあとは、勇気を持てるかどうか。それだけの話だよ」
*****
「ほらほら、オニーサン! 動きが止まりそうよ!」
黒い靄が立ち込める世界で少女が軽やかに笑い、紅の鱗で覆われた脚を振るった。一度、二度、三度。紅の軌跡を描く乱舞を短剣でしのぎ、エドはじりじりと後退する。
少女――アイシャ・カディルの魔術は身体強化だ。動きは敏捷。鱗で覆われた脚の硬度は刃と同様。エドは仮面の奥で目を細めた。ならば。
アイシャの脚がエドの短剣を払った。背が壁につく。アイシャが笑む。紅の脚が振るわれる。
エドは紙一重で身をかがめた。頭上の壁が抉れてモルタルの欠片が散り、アイシャの体が流れる。その最中にエドは仮面のこめかみを叩く。
『
仮面の駆動音と同時に、エドはアイシャの横腹めがけて踏み込んだ。
一閃を、アイシャは身を
『
エドの仮面が再び組み変わる。振るった短剣は再びアイシャの脚に阻まれ――けれど鈍く軋んだ音を立てた。アイシャが小さく悲鳴を上げた。当然だった。熊の腕力は人間を凌駕する。外装を強化しただけで、どうにかなる問題ではない。
数合打ち合う。アイシャの動きが明らかに大ぶりになった。
「あぁもう! なんなのよ、鬱陶しい!!」
アイシャは耐えきれなくなったのか、指先を口元にあてがった。花弁のごとく鮮血が舞う。
血の魔術。炎を呼び出そうというのか。それが分かって、エドは短剣を強く押し込んで、後方に飛び退る。
「クロウ!」
しわがれた
エドはゆるく短剣を振るった。羽ばたきの音と共に鴉が肩に舞い降りる。しわがれた鳴き声に、エドは肩をすくめた。
「分かってる。懐古時計の回収だろう」
エドは自身の教授からの指示を復唱した。些かの疑問を持って。エメリの指示はいつだってシンプルだが、そこに隠された真意を汲み取ることは難しい。ラトラナジュ・ルーウィの懐古時計の回収など、とりわけ今回は意味が分からなかった。さりとて、これが懐古症候群にまつわる謎に迫るためならば、躊躇などしていられない。
ともあれ、まずは黒い靄から抜け出ることが先決だ。大蛇は便利だが、延々と吐き出し続けるこの黒い霧だけはいただけない。ぼやきながらエドが踵を返す。
その背後で、硝子の砕ける音が響いた。
「――どこに行くつもりだい」
中性的で、耳馴染みのある声に振り返る。
アイシャを庇うようにして、ラナが立っていた。彼女の眼前で、雪のような煌めきを残して砕けた盾が消える。
ラナ達から距離を置いた大蛇が、低い威嚇音を漏らした。
エドは静かに口角を上げる。
「これはこれは。まさか君の方から来てくれるなんてね、ラナ。良かった、手間が省けたよ」
「エド」静かに名前を呼び、ラナは黒灰色の目を陰らせる。「一つ、訊かせて。どうしてこんなことをしてるんだい?」
悠長な質問に、エドは鼻を鳴らした。馬鹿らしかった。愚かしくもあった。だからこそ、どこまでも彼女らしいとも言えた。
くるりと短剣を持った手首を回して口を開く。
「懐古時計が必要なんだよ。君の」
「どうして」
「研究のために」
「研究?」
「そうさ」エドはぐっと身を屈めた。「当然だろう? 俺は
エドは地を蹴った。同時に大蛇もラナ達へ襲いかかる。
『冠するは不変 純潔の祈りにて一切の穢れを退けよ』
『巡りの血の環 修羅の果実』
ラナとアイシャの声が同時に響いた。次いで、アイシャの赤光帯びる脚が大蛇のあぎとを、ラナの喚び出した真白の盾がエドの短剣を受ける。
掌大の小さな盾はエドの短剣を受けるたびに砕け、彼が次に刃を振るう先で再び盾を成した。器用な芸当だったが、ラナ自身は維持で精一杯のようだ。硬い面持ちのまま、ゆっくりと後ずさる。
短剣を振るう手を止めぬまま、エドは唇を歪めた。
「前より随分、顔色が良さそうだな」
「っ……! エド、攻撃をやめて!」
「残念だよ、ラナ」斬撃の間に、エドはわざと短剣を直上に投げた。「吐き気がするくらい陳腐な言葉だ」
ラナの視線が逸れた。がら空きになった彼女の脚を払って、地面に押し倒す。落下した短剣を右手で受け止めたエドは、そのままラナの喉元に当てた。
仰向けになったラナが息を詰める。エドは首を傾げ、己の仮面をこつと指で叩いた。
「これを使うまでもない」
「……っ、エド……」
「今度は、どこを傷つけて欲しい?」エドはせせら笑った。「前回の痛みだけじゃ足りなかったみたいだし、今度は傷に残るくらいの力で切った方がいいかな」
見開かれたラナの目が大きく震える。前回とまるで変わらぬ光景に、エドの胸に落胆めいた侮蔑が浮かんだ時だった。
私は、という、微かな声がする。
「……私は、あんたを止めに来たんだ」ラナの怯えの残る目は、それでも真っ直ぐにエドへ向けられた。「それに、謝りに来た。あんたに」
「――笑わせるなよ」
「っ!?」
エドは笑みを消した。降り下ろされた短剣がラナの指先を掠め、彼女が悲鳴を上げる。
「はっ、君はいつまでたっても偽善者ってわけだ」地面に突き立った短剣を引き抜きながら、エドは低く呟いた。「謝れば、それで済むと思ってる」
「思ってない!」ラナはエドを睨んだ。「私はあんたを置いて、あの街を出た。その罪は変わらないよ。迎えにいくって、約束したのに。あの家にエドが残れば何が起こるかなんて、ちゃんと分かってたはずなのに!」
「だったら、大人しく黙ってろよ!」
「いやだ!」
投げ出されたラナの手が、地面を掻いて握られる。無駄なあがきだ。みっともない喚き声だ。何もかもエドを苛立たせるばかりのものだ。
だというのに、ラナの強い視線がエドを射抜く。
「黙ってなんて、いられるはずないだろ! たしかに私はあんたを助けられなかった! でも……だけど! それが、私の友達を、見捨てる理由にはならないんだ!」
「いつまでたっても綺麗事ばかりだな、君は!」エドは短剣を握りしめながら吐き捨てた。「はっきり言えばいいだろ! 俺ではなくて、即席のトモダチとやらが大切なんだって!」
「そんなこと……っ」
何事か言いかけたラナが、弾かれたように顔を横に向けた。一拍遅れて彼女の視線を追いかけたエドは舌打ちする。
大口を開けた大蛇が、二人に迫っていた。相手取っていたアイシャはどこにいったのか。そもそも、懐古症候群を制御していた鴉はどうしたのか。浮かんだ疑問を苛立ちと共に一蹴して、エドは仮面のこめかみを叩く。距離は近い。けれど、仮面を使えば十分に避けられる。そう判じたエドの耳に、耳障りな音が響く。
異常発生。強制停止。
音を立てて仮面が外れ、元の鉄片に戻る。突如明るくなった視界に、間抜けなことにエドの思考は一瞬飛んだ。動きが止まる。大蛇の影が頭上から降りかかる。
そのエドの体を、強く引き寄せたのはラナだった。エドの構えた短剣が彼女の頬を薄く裂く。血が飛ぶ。それに身を固くするエドの耳元で、懐古時計を掲げたラナの決然とした声が響く。
『冠するは時 千切れた運命を手繰り寄せ 廻る世界へ引き戻せ!』
カチリ、と歯車の噛み合う音が空気を鳴らした。懐古時計から月白の光が漏れ、一気に輝きを増して大蛇を迎え撃つ。
大蛇が絶叫した。大きくうねった巨躯が揺れ、光に触れた傍から黒を散らしていく。中から青白い顔をした女が現れるのに、そう時間はかからなかった。
そして声がふつりと止む。ほっとしたように表情を緩ませたラナが、エドの方へ顔を向けた。
その頬から、血が一筋流れる。
「……っ」
エドは我知らず息を呑んだ。血など見慣れたもののはずだった。だというのに、心臓が不自然に鼓動を打つ。エドの耳に雨音が響く。
ずきりと、頭が傷む。
「どうしたんだい……?」
眉を潜めるラナを、エドは弱々しく突き放して立ち上がった。
雨、雨だ。雨の音がする。エドは額を押さえた。視界がブレる。世界が混濁する。鬱屈とした土の匂いが鼻をつき、濡れて淀んだ空気は肺の奥に凝るようだった。
どれほど追いかけても追いつけない彼女の背中。陰鬱な鐘の音が響く灰色の町。駄目かもしれないと、そう思っても足は止まらない。
「お……れは……」
彼女を探さなければ。どうしてもっと早く真実を知ることができなかったのか。手元に仮面さえあれば。もっと自分が状況を理解していれば。滲む後悔と共に冷たくなった指先を握る。裏路地を入って、角を曲がる。そこに横たわっていたのは誰だ。
血を流して、息絶えていたのは。
「……た、すけられなかった……」
ぽつと呟いたエドの言葉に、目の前の少女が胡乱げな顔をした。それはまさしく、記憶の中で息絶えていた彼女と同じだった。
そう同じだ。どうして、なぜだ。なぜ。
「俺は、ラナを助けられなかった……助けられなかったはずなんだよ……なのに……」
「っ、エド……!?」
駆け寄ってきた彼女へ、エドは震える指先を伸ばす。それが触れる寸前で、しわがれた鴉の鳴き声が響いた。迷いをはらうような鋭い声。耳障りな羽音と共に鴉がエドの肩に止まる。痛いほどに食い込んだ爪先に、エドはぼんやりとだが我に返った。
違う……違う。自分はなにをしているんだ。あれは夢だ。目の前にいる女は自分を捨て置いて逃げた憎むべき相手だ。哀しみも後悔も、すべて幻だ。まやかしだ。ありえぬ感情だ。
鴉が肯定するように一鳴きする。それに背を押されるように、エドは僅かな理性で踵を返し、ふらりとその場を後にした。
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