7-1. 子供だましの人形よ
「そ、それで……き、君はこんなところで何をしているんだ……」
「……別に、なにも」
ぼそぼそと呟くラナの頭上から、ヴィンスのため息が降ってきた。
教会の片隅に設けられた狭い
投げ出した両腕の中に顔を埋めた。そのラナの後ろをヴィンスが通り過ぎていく。冷蔵庫が開かれ、中に入った酒瓶が擦れあって軽やかな音を立てる。
「……今日もお盛んだったわけ」
ぐっと濃くなった夜の匂いにラナが呟けば、罰の悪そうな沈黙が落ちた。ちらと目を上げたラナは嘆息する。
あろうことか、今日のヴィンスは上半身に何も羽織っていなかった。その肌にある赤い跡はなんだ。白けた視線を送れば、酒瓶片手に固まっていたヴィンスがぎこちなく背を向ける。
「い、いつものことだ」
「へー、そう。まぁそうだね、いつものことだよね」ヴィンスの右肩に彫り込まれた
ヴィンスは咳払いした。景気づけと言わんばかりに酒を飲んだ後、流しに置いていた上着を羽織って腕を組む。
「ら、ラトラナジュ・ルーウィ。き、君はまだ俺の質問に回答していない」
目元を隠す前髪の奥から視線を向けられ、ラナは目をそらした。
「……アイシャに会いに来たんだよ」
「そ、それは知っている。こ、この一週間毎日そうだったからな。と、
「そういうこと」
「だ、だがアイシャがいるのは礼拝堂だ」
「……そうだけど……」
「と、ところが君は、いつも真っ先にここに来る」
「……うっ……」
「あ、あの娘と何かあったな?」
ラナは青玉を握りしめた。沈黙に、ヴィンスがため息をつく。
「き、気にする必要はない。あ、あの娘の言うことはデタラメばかりだ」
「……これは、デタラメなんかじゃないよ」
「そ、そういうのなら」ヴィンスが若干迷惑そうに酒瓶を指先で叩いた。「だ、誰かに相談すればいいだろう。ゆ、友人、家族、兄弟姉妹。は、話せる相手はいくらでもいるんじゃないか」
「……近いからこそ、相談したくない、ってこともあると思わないかい」
可能な限り強がって、それらしい答えを口にすれば、ヴィンスが苦々しそうに呟いた。
「……ま、まぁ……そうだな。お、俺も弟に相談しようとは思わない」
「あれ、神父さん」単純な興味から、ラナは目を上げた。「兄弟がいるのかい?」
「で、出来損ないの弟だ」
ヴィンスの声に棘が混じる。ぴしゃりとした物言いに、ラナはまじまじとヴィンスを見つめた。何が気に入らないのか、彼は酒瓶を握りしめ頭を何度か振る。
「む、昔の話だ」ヴィンスは何かを言い聞かせるように呟いて、ふらと歩き始めた。「き、君もいつまでもここに居座るな。そ、そろそろ礼拝も終わる時間だろう」
それだけ言って、ヴィンスは炊事場を後にした。なんだい、自分からいいだした話じゃないか。再び独りになった部屋で、ラナが口をすぼめた時だった。
白銀の髪を揺らして、アイシャがひょっこりと顔を覗かせる。
「あ! ラナったら! こんなところにいた!」
「……あー……うん」この子はどうしてこうも変わらないのだろう。アイシャの顔を見れば再び気が重くなってきて、ラナは目をそらして息をついた。「こんにちは」
*****
アイシャに案内されたのは、時計台の東側に位置する地区だった。
時刻は昼過ぎ。常のとおりにラナの支払いでパスタとケーキを腹に納めたアイシャは、ベンチに腰掛け苺のアイスクリームを舐めている。もちろんこれもラナの支払いだ。
ずいぶん軽くなった財布を握りしめ、ラナはため息をついた。ここ一週間の、連日の出費は痛い。さりとて、アイシャといるだけで懐古症候群の人間と出会えるのだから文句もいえない。
アイシャのそれは予言であるが、懐古症候群が起こる場所を指定するばかりで詳細は分からないことが常だった。ゆえに行ってしまえば待つしかない。けれど待つ時間がラナにとっては苦痛でしかない。
「ねぇ、ラナは食べないの」
アイシャの問いに、ラナは肩をすくめて財布をしまった。曇天の下、びゅるりと吹いた肌寒い風に服の襟を引き寄せる。
「食べないよ。寒いんだから」
「えぇ、もったいない。こんなに美味しいのに」
「あぁそう。それは良かったね」
「…………」
「…………」
「……ねぇ、ラナ」赤い舌でアイスクリームをぺろりと舐め、アイシャがじろとラナを横目でみやった。「あなた。もしかしてまだ、私が言ったこと気にしてるの?」
「……気にしてない」
「気にしてるじゃない!」
呆れた、と言わんばかりにアイシャが目を丸くした。苛立ちと不甲斐なさをないまぜにして、ラナは足元の石を蹴る。音を立てて転がっていくそれを見つめながら、ラナはぼそぼそと口を動かした。
「反省してるんだよ。気にしてるわけじゃない」
「同じことじゃない。いやね。道理でこの一週間、空気が湿っぽいんだわ」
「アイシャは、全然変わらないよね」
八つ当たり気味にラナはぼやいた。コーンカップが割れる乾いた音の後に、アイシャが「当然よ」とのんびりと口を開く。
「だって、アイシャは事実を言っただけだもん」
「……そりゃ、そうだけど。もうちょっと気遣いとか」
「なんで気遣いしなきゃいけないの? 私は私の言いたいことを言っただけ。だから、ラナはラナの好きなようにすればいいのよ」
ラナは沈黙した。ぱりんという音を立てて、アイシャがコーンカップの最後の欠片を口に放り込む。
遠くから鐘の音が響き始めた。羽音を立てて鳩が飛び立っていく。鬱屈とするラナの気持ちとは裏腹に、世界はどこまでも平和だった。
「アイシャは……」ややあって、ラナは重い口を開く。「アイシャは、なんでそんなに自信満々なんだい?」
「そんなの決まってるじゃない」
アイシャは黒のワンピースに零れた破片を払い落とし、ヒールを響かせて立ち上がった。裾をふわりと揺らして振り返る。
「アイシャは特別なのよ? 特別な人は悩まないの。だってみんなに愛されてるんだもの!」
「愛される、なんて……」
自分には一番縁遠い言葉な気がした。アランの顔がよぎるが、それは何か違うような気がするのだ。
アイシャが腰に手を当て、胸をそらす。誇らしげな態度はいっそ眩しくて、ラナは目をそらした。再び落ちた沈黙に、アイシャが面倒くさそうに目を回す。
「あれ?」という男の声が響いたのは、その時だった。
「もしかして、キセキの魔女様じゃないか?」
ラナ達は揃って顔を上げた。紙袋を腕に抱えた男がこちらを見ている。赤い癖毛、そばかす混じりの頬。鼻の上にのった丸眼鏡の向こうで、人好きしそうな目が輝いた。
「あぁやっぱりそうだ! 魔女様じゃないか!」転がるように駆けてきた男は、二人の前で立ち止まって顔をほころばせた。「まさか、こんなところでお会い出来るとは光栄だなぁ……!」
思いの他、男の身長は高い。見下されるのが気に食わないのか、アイシャは小さな顎を引いて男を睨みつけた。
「あなた、誰?」
「あ! 僕の名前はヒルです。ヒル・バートン」
「いや、そういうことじゃなくて……」そこまで言いさしたところで、アイシャは眉を寄せた。「……もしかして貴方、礼拝堂にいつもお祈りに来てる?」
「そうそう!」
彼はぶんぶんと首を縦に振った。その拍子に眼鏡がずり落ちるが、そんなことが気にならないくらい興奮しているようだった。
「いや、本当、今日はツイてるよ。うん。僕、ずっと魔女様とお話したいと思ってて」
「お話なんて……」アイシャは迷惑そうにしながらも、どこか嬉しさを隠しきれない様子で、ラナをちらと見やる。「ごめんなさいね。今はちょっと忙しいの。色々と」
「あぁ知ってるよ。そっちの子も。最近礼拝堂に来てる子だよね」
ヒルにひょいと視線を向けられ、ラナは慌てて会釈した。彼はにっこりと笑む。
「こんにちは、お嬢さん。もちろん君も招待するよ。ちょうど美味しい紅茶が手に入ったんだ。今日は肌寒いし、僕の家も近いから、寄っていかないかい?」
「紅茶!」
アイシャが目を輝かせた。ラナが嫌な予感をする間もなく、彼女はヒルへ詰め寄る。
「今、紅茶って言った?」
「え? あぁ、うん。そうだけど……」
「行くわ」
「ちょっとアイシャ!」
ラナは慌ててアイシャの服の裾をひっぱった。ところが、振り返ったアイシャはどこまでもすました顔をしている。
「ラナ。これはアイシャの使命なのだわ。キセキの魔女様は悩める子羊さんのお話を聞かなくちゃ」
「なにが使命だよ! 紅茶が飲みたいだけだろ!」
「んんっ、ち、違うもん。大丈夫よ。懐古症候群が起きたら、すぐに行くもの!」
「そういう問題じゃ、」
「さ、ヒルさん。行きましょ!」
ラナの拘束を引き剥がしたアイシャが、上機嫌で歩き出す。ヒルもにこにことしながらずり落ちた眼鏡を手の甲で押し上げ、彼女を追いかけた。
あぁもう、どうしてこんなことに。悪態をつくが、このままアイシャを放っておくという選択肢もない。ラナはこれ見よがしにため息をつき、仕方なく足を動かした。
路地の一つを歩きながら、アイシャが軽やかな声で問う。
「ヒルさんは、どういうお仕事をしてるの」
「僕は医者なんだ」
「まぁ、お医者様」
「といっても、しがない町医者なんだけどね」赤の癖毛をふわふわと揺らしながら、ヒルが苦笑いをする。「診療所も小さいから、看護師さんにぶうぶう文句を言われながら働いてるとこ」
「その紙袋は? 全部紅茶なの?」
ヒルは声を上げて笑った。
「これは病院に来てくれる子どもたちへのプレゼントだよ」ヒルは紙袋から取り出したのは、灰色の猫の人形だ。それを片手で器用に動かし、ヒルは一段高い声を出す。「やぁ、僕の名前はニャン太ですにゃ。皆さん、元気にしてるかにゃ?」
ラナとアイシャが揃って沈黙すれば、ヒルはバツが悪そうに人形を紙袋に戻した。
「今流行ってるアニメの主人公なんだよ。知らない? 名探偵ニャン太。この前、映画にもなったんだけど」
「知らない」
アイシャは何故か苛立ったようにそっぽを向く。
「子供だましの人形よ。そういうの、アイシャは嫌いなの」
「……はは、ごめんごめん。そうだよね」
ヒルは眉尻を落として笑った。ラナが同情の目を向ければ、気にしないで、と言わんばかりに肩をすくめる。
ずんずんと歩き始めるアイシャの背を見ながら、ラナは仕方なく頭を下げた。
「すみません……彼女、気分屋で」
「いいんだいいんだ。あれくらい元気な方が見てて楽しいし」
「ヒル先生は、一体どうしてアイシャの話を聞きたいんです?」
やっぱり家族に懐古症候群の人間がいるのだろうか。伺うようにラナがヒルを見上げれば、彼はゆったり笑んだ。
「僕は医者だって、さっき言っただろ」
「はい」
「職業柄、懐古症候群のご家族と会うことも多いんだ。でも、あの病気に治療法はない。それを告げるのが心苦しくてね」ヒルは眩しいものを見るように、アイシャの背を見つめる。「それで悩んでる時に、彼女に会ったんだ。彼女、すごいよ。きちんと家族の方の心に寄り添ってる。それを見た時に、あぁ、彼女はヒーローみたいだなぁって思ったんだよ」
「ヒーロー、ですか……?」
「そう」胡乱げな顔をするラナに、ヒルは微笑んだ。「くじけないで、負けないで、って真っ直ぐ励ましてくれるのは、何よりも強い力になる。君も、お祈りの時にそう感じなかったかい?」
ヒルに穏やかに問われ、ラナは改めてアイシャをまじまじと見やった。舗装の剥がれかけた路地を行く彼女の足取りは軽く、ゆらりゆらりと揺れる白銀の髪もいつものとおりだ。きっと今だって紅茶のことで頭がいっぱいなのだと思う。
ヒルの思うほど、彼女は聖人君主ではない。ラナはそう思う。けれど。
そこでアイシャがぴたりと足を止めた。彼女の前で道が二手に別れている。
「あぁ」紙袋を抱え直したヒルが声を上げ、アイシャに向かって大股で進んだ。「ごめんごめん。そこの道を右に進んでくれるかい? もう診療所の看板は見えてくると思うか、」
「来ないで」
「へ?」
アイシャが片手を上げてラナ達を制した。ヒルが戸惑った声を上げて足を止める。突然のことにラナも眉を寄せた。また彼女の気まぐれだろうか。空を見上げているアイシャを呆れ半分で見やったラナは、一拍遅れて身を固くした。
道の分岐点に建つ二階建ての建物。そこに人影が二つある。
脱力しきった様子で立ち尽くした女が一人。
そしてもう一人は、仮面をかぶった黒灰色の髪の少年。
「エド……」
ラナが声を震わせる中、アイシャが一歩前へ踏み出した。
「――紅茶は、少しばかりお預けね」アイシャが緊張と愉悦の混じった声で呟く。「まずはこれを片付けてから、なのだわ」
戦うのか。当たり前のことを思って、けれどラナは頭を振る。当たり前だ。戦うのだ。彼の纏う空気は話し合いを求めるような、そんな生易しいものではない。胸元の懐古時計をぎゅっと握る。震える身体を無視して、口を開く。
「アイシャ、私も」
「ラナはそこのお医者さんのお守りでもしてなさい」
「でも……!」
「私は戦えるわ」振り返ったアイシャは、冷ややかな目でラナを見据えた。「でも、あなたは戦えない。なら、足手まといでしかないの」
何もかも見透かされて、ラナは痛いほどの力で拳を握った。言い訳など浮かばなかった。浮かぶはずもなかった。
ばさりと、不吉な羽音が響く。エドの肩に一羽の鴉が舞い降りた。
「――標的を確認」エドの低い声は、奇妙なほどによく響いた。「これより回収行動を開始する」
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