6-3. なんでもない

 音を立てて、ラナは日記を閉じた。


 ペンを置き、ベッドの上で身動ぎし、ゆっくりと部屋を見回す。アランと住む小さなアパート。窓から差し込む黄昏色の光が部屋を陰鬱に染めている。光がかろうじて届くその場所で、壁にはめられたデジタル時計が17:56を示した。


 もう6時だ。アイシャと別れて、逃げるように家へ帰ってから、3時間も経っている。


 ラナは息をついた。日記の表紙を撫で、枕の下にしまう。


 重い頭を抱えたまま部屋を出た。夕闇の迫る台所へ足を踏み入れる。洗い場からコップを一つ取り上げ、水道の蛇口を捻った。軋んだ音と共に取っ手が回り、水がコップに注がれる。


 アイシャとは、ほとんど喧嘩別れのようにして別れた。喧嘩――いや、それには語弊がある。ラナは目を曇らせた。アイシャは間違ってない。おかしいのは自分の方だ。弱いのも、自分の方。


 ゆらりと揺れる水面を見つめながら、ラナは無性に養父が恋しくなった。煙草と香水の混じった香り。低く艶のある声。自分を映す金の目。


 アイシャのこと、ヴィンスのこと、エドのこと、あるいは十年前のこと。全て打ち明ければ、じっと耳を傾け、抱きしめてくれるに違いなかった。どこまでも優しく、きっと何もかもを隠して、遠ざけてくれる。


 痛みも、苦しみも、哀しいと思うことも。


 ――でも、それで本当にいいんだろうか。


「ラトラナジュ」

「きゃっ……」


 耳元で密やかな声がして、ラナは首をすくめた。

 背後から伸びてきた手が、蛇口を閉めた。次いで、ラナは後ろから抱きすくめられる。誰と問わずとも分かった。煙草と香水が、これほど似合う男は一人しかいない。

 ラナはおずおずと背後に体を向けた。


「……養父とうさん」

「何か心配事か?」ラナの顔を見るなり、アランが金の目を曇らせた。「君がここまで呆然としているのも珍しい」


 アランの親指がラナの目元を撫でる。触れるか触れないかというぎりぎりの距離で動く指は妙にじれったかった。じれったい。あぁそんな感情、養父に抱くものではない。ここ数年で何度したか分からない叱責をし、ラナは唇をきゅっと噛んだ。それでも、やめろとは言えなかった。


 このまま、全部打ち明けてしまったらどうだろう。ラナの心が再び囁く。養父さんなら――アランなら、話をきいて、何とかしてくれるはず。


 ラナは目を伏せた。そこでようやく気がついた。


 アランの左手に装飾腕輪レースブレスレットがない。じれったさも甘えも吹っ飛んだ。胸の中でざわりと音を立てて風が吹く。舞い上がった不安の欠片が、細かな破片となってあちこちを突き刺すようだった。


「……腕輪」ラナの唇の隙間から漏れた言葉は、想像よりも随分ずっと震えていた。「どうしたんだい? 修理しに行ったんだろ?」


 恐る恐る、アランの左手に触れる。筋ばった手をラナが何度も撫でれば、彼は肩をすくめた。


「どうにも部品が足りないようでね。仕上がりは一週間後になるそうだ」

「そんなに、壊れてたの……?」

「あぁラトラナジュ」アランの右手がラナの顎をすくった。常のように甘く、けれどどこかきっぱりとした声音で言う。「そんな顔をするな。心配することは何もないさ。輝石を持ち運ぶ方法だけ考える必要はあるだろうが、君を守るには十分だ」


 そういう、心配をしているんじゃない。ラナは思うが、痛ましそうに細められた金の目を見れば何も言えなくなってしまった。目をそらす。自分は彼に、何も言えない。そして恐らく彼も、自分に何を言う気もない。


 分かっていたことじゃないか。もうずっと、前から。


「ラトラナジュ」


 静かに腰を追ったアランは、耳飾りを微かに揺らしながら案じるように首を傾ける。


「本当に、どうしたんだ? 顔色が良くない」

「……なんでもないよ」

魔術協会ソサリエで何かあったのか?」


 返答を無視して重ねられた質問に、ラナは閉口した。アランがため息をつく。


「あぁ、愛しの君」悲しげに眉尻を下げ、アランはラナを抱き寄せる。「すまない。やはり俺も一緒に行くべきだった」


 香水と煙草の香り。優しい体温。それはまさしくラナの望んでいたものに他ならなかった。けれどなぜか、ラナの心がささくれ立つ。


 彼の声音に滲む哀れみと後悔は、不甲斐ない娘を想ってこそのものだ。分かっている。いつもの優しい声だ。なのに。


 誰かに依存してばかり。そんなアイシャの声が響いて、消える。ラナは弱々しく首を振った。


「大丈夫。なにもないよ。魔術協会でも、なにもなかった」

「無理をするな。俺は別に怒っているわけではないし」

「無理なんてしてないさ。それより、アイシャが懐古症候群トロイメライを予言できるらしいんだ。彼女と協力すれば、」

「ラトラナジュ」

「だから、何もなかったんだってば!」


 ラナは力任せにアランを突き離した。そうしたところで、我に返る。


 アランの体はびくともしない。だが、その金の目は意外そうに開かれていた。月のようなそれは綺麗なままで、だからこそラナの胸にじわりと後悔が滲む。


「……ご、めん……」


 ラナはぽつりと返した。


 養父のことを心配した口で、彼を拒絶して。自分は一体何をしたいんだろう。こんなの、ちっとも娘らしくない。少しも。全然。


 ラナは服の裾をぎゅっと握った。考えれば考えるほど、目頭が熱くなる。さりとて、こんな身勝手な理由で泣くのも悔しかった。震える息を何度か吐いて、顔を上げる。


「あの……本当に、なんでもないから……」


 ラナはぎこちなく笑みを浮かべた。アランの金の目が細められる。その視線から一刻も早く逃れたくて、ラナはアランに背を向けた。


 シャワー、浴びてくるね。そんな言い訳にもならない言い訳を呟いて、彼女は逃げるように部屋を飛び出した。



*****



 鮮紅色が舞って、映像が途切れる。デスクトップの画面モニタでそれを観察していた彼は、カチリとマウスを動かした。


 映像が閉じられ、一度暗くなった画面が鏡のように姿を映した。整えられた顎髭と白髪、鷲鼻にのせられた黒縁眼鏡、レンズの奥で細められた青鈍色アイアンブルーの目。


「お待たせしました、エメリ教授ドクター エメリ。機材の準備に手間取ってしまって」


 明るい声に、エメリはすいと目を上げる。


 殺風景な教授室は、珍しく乱雑に散らかっていた。床を走るケーブルの束。それらの先には巨大な照明と撮影用の機材があり、カメラマンの男がしきりにツマミを弄っている。エメリに相対するように座るのはテレビ局のリポーターだ。若い彼は電子端末を膝にのせ、人当たりの良い笑みを浮かべている。


 エメリは男の方へ安楽椅子を回した。『19:07』を示すデジタル時計――撮影開始予定時刻から既に7分経過している――とカメラマンを順に見やり、肩をすくめる。


「別に構わんよ。機材だけは立派なようだ。さぞかし組み立てにも慎重を要したのだろう」


 カメラマンは首をすくめて目を逸らした。リポーターは貼り付けたような笑みを浮かべたまま、折り目正しく頭を下げる。


「エメリ教授、本日は我々の取材を受けてくださり感謝いたします」

「無知な一般人に適切な情報を与えるのも、科学者の役目の一つだ。礼を言われる筋合いはありませんな」

「そう言って頂けると助かります。事前にお知らせしましたとおり、今回の取材の内容は一週間後の特番で放送させて頂きますので」

「結構。精々、くだらん昼下がりの情報番組に成り下がらないよう気をつけたまえ」

「それは……」リポーターの目に一瞬不快そうな色がよぎった。だが、すぐに元の表情に戻り、首を縦に動かす。「……そうですね、えぇ、勿論です。放送前には先生にも確認していただくよう手配しますので」


 リポーターは体を捻り、カメラマンに目配せした。カメラの作動する小さな音が響く。それを確認し、再びエメリに向き直った彼は居住まいを正した。


「改めまして……学術機関アカデミア生体工学研究室教授エメリ・ヴィンチ先生。今日はよろしくお願いいたします。我々が伺いたいのは、先生が先月の学術誌で発表された時計台の人造知能、」

「人工知能」


 エメリの硬い声に、淀みなく喋っていたリポーターは言葉を止めた。


「……時計台の人工知能、プレアデス機関の解析結果についてなのですが」若い男は少しばかり苛立ったように言葉を続けた。「先生の論文では、プレアデス機関の役割は時計台の時間管理のみに留まらない、と述べられていました。ここについて、詳しく話を聞かせて頂いても?」

「詳しくも何も。言葉通りの意味だが」


 エメリは鼻先で笑った。男たちが顔を引きつらせる中、老いた科学者は安楽椅子にゆったりと背を預ける。


「プレアデス機関は人工知能だ。自ら考え、結論を導き出す。本来ならば課題を解決するための機械なのだよ。時間管理などという単純作業に用いられるべきものではない」

「今回の研究では、それを裏付けるデータがとれた、ということですね?」

「解析に成功したのはごく一部だがね。今回判明した結果をごく分かりやすく言うならば、あの人工知能が科学都市サブリエのみならず、世界中の電子機器から情報を得ている、ということだ」


 電子端末にペンを走らせていたリポーターが、胡乱げな目をして顔を上げる。


「電子機器から情報を得る、ですか」

「あぁ。君の端末も例外ではない。もちろん、私のデスクトップもな」

「……ですが、それは……プライバシーの観点から問題なのでは?」

「データを見る限り、あくまでも、与えられた問題の解決方法を探るためだけに情報収集を行うようだ」エメリは安楽椅子に右肘をついた。「君たちマスメディアと違って、収集された情報は大衆へ公開されない。こう考えれば、よほどプライバシーは守られていると思わないかね?」


 カメラマンが目をそらした。リポーターはパイプ椅子をしきりに軋ませ、端末の上で忙しなく指を動かした後に咳払いをする。


「エメリ教授のご専門は懐古症候群トロイメライであると伺いました。にも関わらず、今回の研究では時計台の人工知能に注目なされましたよね? 一部の専門家からはデータ解析の信憑性を疑う声もあるようですが、これについてはいかがですか?」

「三つ」

「……は?」

「君の発言の訂正点の数だ」エメリは指を三本立てた。「一点目。私の専門は生体工学――有り体に言えば、生物が本来有する機能を工学的に再現する学問だ。二点目。懐古症候群は学術都市サブリエにおける重大疾患の一つであり、専門分野を超えての対策が求められている。三点目。科学者でもない専門家の意見を元にインタビューの原稿を組むのはいかがなものかな」

「…………」

「あぁすまないね。三点目は訂正点というよりも個人的な意見になってしまった」


 顔を真っ赤にして沈黙するリポーターへ左手をひらりと振り、エメリは言葉を続ける。


「以上を踏まえて回答するならば、プレアデス機関と懐古症候群の発症に関連性を見出したから、といったところだ。申し訳ないが、これ以上の回答は差し控えさせて頂こう。次の論文の肝になる部分なのでな」

「専門家からは」


 エメリは冷ややかに眉を上げた。リポーターの男はエメリを睨みつけ、噛み付くように口を動かす。


「今回解析に成功したプレアデス機関について、一部の研究者が成果を独占し、それを悪用するリスクが指摘されています。これについて、教授はいかがお考えですか?」

「専門家、科学者とあえて責任の所在を曖昧にする態度は頂けない」

「教授、はぐらかさないで回答頂きたい」


 目をギラつかせる若い男へ、エメリはにこやかに微笑んだ。


「優れた技術をどう使うかは心得ている。少なくとも君よりはな」


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