6-2. 本当に弱くて、役立たずね

 美しさだけが全てなのだと、懐古症候群トロイメライの女は繰り返した。身よりもない。恋人もいない。廃屋同然の建物で生きる女は酒に溺れ、麻薬に狂い、かつての己を映した雑誌の表紙に囲まれ狂ったように笑っていた。


 故にエドは、その女を壊した。懐古症候群を発症した人間は例外なく何かに執着する。その何かを奪えば病は進み、異形の力を手に入れて周囲に死を撒き散らす。その仮説を裏付ける、データを回収するために。


「――戦闘の開始を確認しました」

『それは結構。引き続きラトラナジュ・ルーウィの観察を続けたまえ』

「はい。ですが、エメリ教授せんせい


 携帯端末に向けた言葉を切って、エドはちらと眼下を見やった。


 三階建ての集合住宅アパートから見下ろす広場は騒がしい。カフェのテーブルと椅子はあちこちに散らばり、逃げ出した客の代わりに、妙に足元の覚束ない十数の人影で溢れている。彼らに囲まれ、甲高い笑い声を上げているのは懐古症候群に堕ちた女。


 それに相対するのは一人の少女だ。襲いくる人影をなんとか躱し、彼女は時折魔術を放つ。その度に黒灰色の髪が揺れ、横顔に焦りが滲む。

 エドは目を細め、携帯端末へ尋ねた。


「観察だけでいいんでしょうか。必要ならば、ラトラナジュ・ルーウィを排除しますが」

『私怨を混同させるのはやめることだな、エドワード君』携帯端末の向こうで、老いた男の声が冷ややかに応じた。『今回は観察に徹しろ。いいかね?』

「……申し訳ありません」


 エドが渋々謝罪の言葉を口にすれば、男は鼻を鳴らした。


『戦闘終了まで余すこと無くデータをとりたまえ。その後は速やかに退去すること』

「承知しました」


 ぶつ、と端末の通信が切れる。それにエドは息を吐き、天を振り仰ぐ。こんな戦いさえなければ気持ちの良いくらいの晴天だった。だというのに、鼓膜に雨音が響いた気がする。


 エドは頭を振った。夢だ。あの灰色の街の夢。娼館での戦闘が終わって一週間。ここ数日、さらに頻繁に見るようになった。目覚めた直後には、不安と後悔が乾いた泥のように頭にこびりつき、どちらが現実なのか分からなくなる。


 何を馬鹿な。エドは胸中で呟いた。ラトラナジュは自分を見捨てて逃げ出した。そんな彼女を恨みこそすれ、どうして彼女を失うのが怖いと思うだろうか。


 ありえぬ幻影を否定するように、懐から薬を取り出し、奥歯で噛み砕く。


 ラトラナジュ・ルーウィの観察など、あまりにも簡単な任務だった。だからこそ、些細な体調不良で失敗することなど許されない。


 *****



「予言って、どういうことだい!?」


 ラナはアイシャに怒鳴りながら、輝石を掴んだ右手を突き出した。躊躇うことなく指を擦り、口を動かす。


『冠するは風  無垢の輝きを以て荒海を裂け!』


 放たれた突風が、ラナの目前に迫っていた男を突き飛ばした。男の姿が霧散する。それと同時に、視界の端から新たな男が手をのばす。


 ラナは舌打ちした。緩慢な男の動きを体を捻ってかわし、後退する。


 カフェを背にして辺りを見回した。あちこちに散らばったテーブルと椅子。女の悲鳴と共に現れた男達は、ゆらゆらと覚束ない足取りでラナ達を囲んでいる。


 男たちは幻影のようだった。だからこそ、攻撃に躊躇しなくて良い。加えて言うなら動きも鈍い。養父ならば、容易く退けるだろうに。思考の先に浮かんだ己への不甲斐なさを、ラナは頭から追い払う。今は、不安を感じている場合じゃない。


 ラナの背後で、場違いなまでに軽やかな食器の擦れる音がした。


「そのままよ」ラナの先だっての問いかけに、紅茶を一口飲んだアイシャが答えた。「懐古症候群は予言できる。アイシャの手にかかれば紅茶を淹れるよりも簡単なことなのよ?」

「だったら、先に言ってくれれば良かったじゃないか!?」

「やだ! 先に言っても信じてくれなかったでしょ?」


 すげなく返して、アイシャはモンブランの載った皿を引き寄せた。


「もちろん、予言だけじゃないわ。今まで対処してきた懐古症候群のデータも当然きちんと把握してる」


 物音のした方向へ、ラナは再び輝石の魔術を放った。養父のそれよりも数段威力の低い雷は、近寄ってきた男の一人に直撃し、もう一人を取り逃す。

 舌打ちするラナの頭上を、アイシャの声が通り過ぎていく。


魔術協会ソサリエは懐古症候群を狩るために存在してるの。なら当然、キセキの魔女たる私が誰よりも懐古症候群について詳しい。でしょ?」

「…………」

「どう? アイシャの凄さが分かってもらえた?」

「あぁもう分かった! 分かったから!」男の振るう拳を何度か躱し、やっとの思いで雷を当てて消滅させて、ラナは苛立ちと共に叫んだ。「だから、いい加減手伝ってくれないかい!?」

「いやよ」

「はぁ……!?」


 ラナは思わず振り返った。アイシャはつんとそっぽを向いている。


「だって、ラナったら私のタルト食べたじゃない」

「そんなこと引きずってるのかい!?」

「そんなことじゃないもん。一大事よ」アイシャはラナを一瞥し、挑戦的に笑った。「そもそも、ただの幻影に手こずるなんて。輝石の魔術なんて大したこと無いのね」


 瞬間、ラナの腹の底が一気に冷えた。男たちが間近に迫っていることもすっかり忘れ、アイシャの言葉を一言一句違わず繰り返す。


「輝石の魔術が大したことない、だって?」


 ラナの低い声に、あら、とアイシャが眉を跳ね上げた。悪気はないのだろうと思う。けれどそれがかえって、ラナの神経を逆なでした。冷えた時と同様に、一気に顔が熱くなる。


「あぁ、そう」


 呻くように呟いて、ラナはアイシャの返事も待たずに背を向ける。輝石を痛いほどに握りしめた。


 自分のことを馬鹿にされるのはいい。けれど輝石の魔術は養父に教えてもらったものだ。それを侮辱されることだけは耐え難かった。何があっても絶対に。


 怒りに任せて、きっ、と敵を見据える。残る石の数は二つ。幻影を一人一人相手にしているだけの余裕はない。ならば、懐古症候群の元凶になっている人間――男たちの中央で狂ったように笑う女を討つ。これに尽きる。


『冠するは楔 万世の輝きを以って罪人を繋げ』


 掴んだ楔石スフェーンを、ラナは指先で擦った。砕けた無数の破片が地に刺さり、薄緑色の輝きによって男たちの動きを阻む。


 ラナは駆け出した。無造作に伸ばされる男たちの腕を躱し、忌々しそうに悲鳴を上げる懐古症候群の女へ詰め寄る。胸元で踊る懐古時計を握った。あと一歩で届く。そう油断したのがいけなかった。


 不意に服の裾を引かれ、バランスを崩す。なんとか体勢を保って振り返った先で、虚ろな目をした男が拳を振り上げる。その手には、剥き出しの万年筆が握られていた。


『冠するは不変 純潔の祈りにて一切の穢れを退けよ』


 ラナは慌ててもう一つの輝石を弾いた。金剛石ダイヤモンドは雪華の煌めきと共に砕け、男とラナの間に半透明の盾を築く。タイミングも強度も十分。そのはずだった。


 そこで、男の持つペン先が太陽の光を弾いてぎらと輝く。


 ――本当に可哀想だね。


 エドの声が前触れ無く蘇り、ラナは体を震わせた。振り下ろされた短剣と肉を断つような激痛。憐れむように己を見つめる幼馴染の目が、ラナの思考を乱す。


 魔術を結んでいた金剛石が輝きを失って地に落ちた。しまった、とラナが我に返るも遅い。盾が消え、ペン先がラナの目に向けて振り下ろされる。


 刹那、赤い風が二人の間を駆け抜けた。それは男の横面を叩き、握っていたペンを弾き飛ばす。


 男の姿が霧散した。ラナの眼前で軽やかなヒールの音が響き、黒のワンピースが空気を孕んでふわりと落ちた。


「アイシャ……」


 ラナが呆然と呟けば、白銀の髪を揺らしてアイシャが振り返った。その両脚は龍鱗のようなもので覆われ紅く輝いている。鮮血を写しとった苛烈な色に、ラナは先程の風がアイシャ自身であることを知る。


 アイシャが馬鹿にしたように呟いた。


「やっぱり、輝石の魔術なんて大したことない」

「……そ、れは……」


 ラナの胸がずんと重くなる。アイシャは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。


 そこで、懐古症候群の女が悲鳴じみた声を上げる。楔石の魔術が消え、男たちが動き始めた。


 アイシャはそれらをぐるりと見回し、嫣然えんぜんと笑みながら己が掌を唇に寄せる。


「弱虫は、精々そこで見てなさい。アイシャがお手本を見せてあげる」


 彼女の歯が掌に突き立った。皮膚が裂け血が溢れる。その手を振るって、アイシャは歌うように言葉を紡ぐ。


『巡りの血の果て 煉獄の底』


 四方に零れた鮮血が輝いた。それは瞬く間に業火と化し、向かってくる男達を燃やす。肌を焼くほどの熱量にラナは顔を覆った。同時に腹の底が冷える。これほどの炎は、天然の紅玉ルビーを使っても呼び出すことは難しい。


 次々と消えていく男達の間を、アイシャが楽しげに駆け抜けていく。


『巡りの血の環 修羅の果実』


 地を蹴るアイシャの両脚が再び輝く。跳躍は美しく、男たちに振るわれる脚は研ぎ澄まされた刃のごとく残酷だった。


 軽やかに――けれど嵐のような脚さばきで男たちを蹴り倒したアイシャは、苦労なく元凶へと辿り着いた。悲鳴をあげた女が逃げを打つ。その背に彼女は笑う。


「散々男をはべらせておいて、逃げるなんてひどいんじゃない!?」


 せめて一緒に逝ってあげなさい。聞き分けのない子を諌めるように言って、アイシャは真紅の脚を動かした。


 鮮血が飛び散る。それが果たしてアイシャのものだったのか。それとも懐古症候群のものだったのか。


 ラナは青ざめた。鉄臭さと生臭さの混じった臭いに、どっと汗が吹き出し、思わずうずくまる。


「なによう、情けない」


 かつん、と靴音がする。のろのろと目を上げれば、腕を組んだアイシャが冷ややかにラナを見下ろしていた。その脚に先程までの鮮紅色はなく、元の白い肌に戻っている。

 そのことに少しだけほっとしながら、ラナはのろのろと口を動かした。


「ご……めん……その、ちょっと血が苦手で……」

「ふうん」

「それより、ありがとう。助けてくれて。アイシャがいなかったら、」

「ねぇラナ」アイシャは、やや強い口調でラナに問うた。「あなたはなんで懐古症候群を倒したいの」


 藪から棒の質問に、ラナは言葉が出てこなかった。戸惑ってアイシャを見つめるが、彼女の表情は微動だにしない。


「そんなの……」少しの沈黙の後、ラナはゆっくりと口を開いた。「シェリルを助けたいからに決まってるだろ? あの子が懐古症候群に関する事件を解決したいって言ってるから、」

「違う。それよりも前の話よ」

「前?」

「ラナはシェリルに会う前から懐古症候群を追いかけてたんでしょ。なんで?」


 アイシャの叱責めいた言葉に、ラナは地面の上で手を握った。冷たい指先に地面を擦った痛みがじんと染みる。


「なんでって……」


 ラナは何度か唾を飲み込んだ。やけに粘性の高いそれは喉に絡まって上手く言葉を紡げない。

 なぜ、なんて、そんなの簡単だ。懐古症候群を治せるからだ。そう思う。思うけれど、きっとそれさえもアイシャの求める答えではないのだろうと気づく。


「アラン・スミシーとかいうオニーサンの手伝いをしたくて戦ってる。ラナの理由はこれよ。違う?」


 痛いところをつかれて、ラナの体がびくりと震えた。凍えた体が、さらに冷たくなるような気がする。否定しようもない事実だった。しかもそれは、悪い方の意味で。

 アイシャが突き放すように告げる。


「あなたには主体性がないのよ。あるように見えるけど、全然ない。魔術師として半人前ね。魔術は願いが引き起こす奇跡なのよ。誰かに依存するばかりで強い想いがないなら、どんなに良い触媒を用意しても大した威力にならないわ」


 何故かヴィンスの深緑色モスグリーンの目を思い出した。這い上がるような震えはまさしくあの時に感じたものと同じだった。


 暴かれたくないものをむき出しにされる。そこには一片の優しさも、同情の余地もない。


「ラナ。あなた、本当に弱くて、役立たずね」

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