6-1. 随分歪んでいるな?
「この世はかつて救われた。奇跡の悪魔と輝石の魔女によって」
澄んだ少女の声に耳を傾けながら、ラナはそろりと辺りを見渡した。
そこは小さな礼拝堂だった。朝の冷えた空気に、香炉で焚かれた
彼らに相対するのは、頭から黒のヴェールを被った小柄な女性だった。彼女が司祭なのか、祈りの言葉らしきものを唱えている。
壁に背中を預けたラナは、妙なことになったな、と当惑を隠せなかった。
ラナは息をつく。少なくとも、アランがいれば礼拝堂に連れ込まれるなんてことはなかっただろう。壊れた
「――魔女様」
囁くような声にラナは顔を上げた。
いつの間にか祈りは終わったようだ。黒のヴェールを被った女司祭が、最前列に座った老婆の前で立ち止まる。
ぼそぼそと、老婆が話し始める。それを聞いていたラナはどきりとした。微かだが、たしかに聞こえた。懐古症候群、そして家族という言葉。
あぁそうか。ここは懐古症候群に苦しむ家族が集うための場所なのか。奇妙な無力感と共にラナが納得した時だった。
「どうぞ、安心なさってください」
黒いヴェールの下から、少女の穏やかな声がする。ゆっくりと身をかがめた彼女は老婆の手を労るように取り上げ、己の額につけた。
「全ての懐古症候群は救われる。貴女の最愛の方であっても、例外ではありません。ですから今は、ただ心安らかに祈り待ちなさい」
どうか貴女達に、奇跡の祝福を。
天井近くに取りつけられた小窓から光が差し込む。柔らかな光は、真摯に祈る少女の横顔を柔らかく照らした。ヴェールの隙間からさらりと溢れる白銀の髪に、ラナは目を丸くする。
アイシャだ。彼女の意外な一面にラナが驚いている間に、祈りの時間は静かに幕を引いた。
礼拝堂からばらばらと人が出ていく。どこかほっとした様子で見送っていたアイシャは、そこでようやくラナに気付いた。
小走りに近づいてきたアイシャに、ラナはゆっくりと口を動かす。
「……意外、だったかも」
「なによう、いきなり」アイシャが頬を膨らませた。「アイシャがお祈りしちゃ悪いわけ」
「や、そういう訳じゃないんだけど……なんていうか、全然雰囲気が違うっていうか……」
「むーっ、そんなの当然でしょ! アイシャはキセキの魔女なのよ? 私がきちんと祈らなくて、誰が助けてあげられるっていうの」
「わっ」
アイシャは乱暴に黒のヴェールを取り払うと、ラナに向かって放り投げた。慌てて受け止めるラナを尻目に、アイシャはヒールを鳴らして歩き始める。
礼拝堂を出た二人は古びた廊下を進んだ。微かに床を軋ませながら、アイシャが得意げに話す。
「そもそも魔術協会っていうのはね、懐古症候群で苦しむ人を助けるための場所なの。もちろん、懐古症候群になった人は助けられないけど……彼らにだって家族がいて、大切な人がいるでしょ。その人達の心のケアをするの」
「そうなんだ」
ラナは少しばかり感心して頷いた。
「てっきり、魔術師がたくさんいるような場所なんだとばかり」
「魔術師はいるわよ。もちろん」アイシャが拗ねたように呟いた。「でも、二人とも……その、ちょっと忙しいだけ」
「忙しい?」
返事の代わりにアイシャが急に立ち止まった。つんのめるようにして足を止めるラナの前で、アイシャがくるりと振り返る。
「レモンティーが飲みたいわ」
「……は?」
「だから、レモンティーよ」アイシャがやや不満そうに眉を寄せた。「
「待って。なんで私が作らなきゃいけないんだい?」
「だってアイシャは、これから着替えてくるもの。あ、炊事場はそこだから」
少しも悪びれる風なく言い放ったアイシャは、困惑するラナの腕の中からひょいとヴェールを取り上げる。じゃあね、と一方的に言いおいて、アイシャは軽やかに階段を昇っていってしまった。
*****
湯の沸騰した
いや、やっぱり自分が紅茶を淹れる意味が分からない。手狭な炊事場で、ラナはため息をついた。
そもそも娼館でコーヒーを淹れた時だって、アイシャは飲まなかったじゃないか。しかもあの時は、彼女の希望通りに砂糖を山盛りいれたのに。それこそ甘味が苦手なアランが見れば、顔を引きつらせるくらいには。
そこまで考えたところで、小さな違和感がラナの思考を引っ掻いた。けれど彼女がその正体を掴む前に、背後で控えめな物音がする。
振り返ったラナは、ぽかんと口を開けた。
見知らぬ青年が入り口の柱に寄りかかっている。小柄な男だった。襟足で切り揃えられた黒髪は少しばかり乱れている。長い前髪のせいで目元はすっかり隠れてしまっていた。男がふらりと部屋の中に足を踏み入れ、ラナは思わず後ずさる。
男はどこか疲れているようだった。それも多分、単なる疲労ではない――無造作に羽織られた
男は冷蔵庫から酒瓶を取り出すと、無造作にそれを煽った。そうしてやっと、ラナの方へ顔を向ける。
「だ、誰だ。お前」
「……いや、あの、えっと……」
「れ、礼拝に来た人間……ではなさそうだな」
男が気だるげに動く。じりと後ずさったラナの背中が、食器棚についた。だというのに男は止まらず、そのままラナの頭の横に手をつく。
ラナは思わず首をすくめた。
「っ……!」
「……そ、そうか」
鼻先が触れ合う距離で、男が動きを止める。長い前髪の隙間から
「お、お前……随分歪んでいるな?」
どこか愉しそうにも聞こえる男の声は、不意打ちであるがゆえにラナの心臓を一瞬で氷漬けにした。
深緑色の目を、彼女は呆然と見つめる。それは何もかもを暴く目だった。彼女が奥底にしまった全てを。アランにさえ隠している秘密を。
己を見つめる目に、十年前の光景がちらと映る。冬の森、飛び交う松明。叶うことのなかった幼馴染との約束。
そうして目の前で、沢山の血が流された――。
「……っ、見ないで……っ!」
ラナが小さく悲鳴を上げて身をよじれば、男は我に返ったように彼女の手を離した。
拘束が解け、ラナは床に座り込む。男は打って変わって狼狽した声を上げた。
「す、すまない。つい……」
「っ……あんた……」ラナは肩で息をしながら男を睨みつけた。「あんた、今一体なにを……」
「べ、別に何も……」男はおどおどと首をすくめた。「す、少し目を合わせただけだ。そ、そうだろう?」
男はラナの視線から逃れるようにして酒を飲んだ。先程までの得体のしれない空気はなく、だが、だからこそ信用ならない。
ラナは懐古時計をぎゅっと握りしめた。歯車の微かな振動を感じながら、慎重に口を開く。
「……あんた、誰なんだい……?」
「ヴィンセント」恐る恐るといった様子で呟いて、男は空の瓶を流しに置いた。「し、神父様と呼ぶ人間もいるが」
「神父なんて……そんなの、服装だけじゃないか」
その服装だって随分乱れている。ラナが非難がましい視線を送れば、男は居心地悪そうに身動ぎし、顔をそむけた。
「な、ならばヴィンスとでも呼んでくれ。そ、そういうお前はラトラナジュだな?」
「どうして知ってるんだい?」
「あ、アイシャが盛んに喚いていた」
ヴィンスは憂鬱そうに呟いた。
「き、君も随分面倒な女に目をつけられたじゃないか。き、気の毒に」
「面倒なんて」目の前の奇妙な男に同意するのだけは避けたい一心で、ラナは声を固くする。「そんなことないよ。全然。これっぽちも」
「う、嘘つきほどよく喋る」
不意にヴィンスの言葉が鋭さを取り戻す。それにラナが身を固くすれば、彼も気づいたのか慌てて声を和らげた。
「ど、どうせ振り回されてるんだろう? お、大方今は紅茶でも飲みたいと言われたんじゃないか」
「それは……」
「わ、悪いことは言わない。あ、あの娘の言葉は真に受けない方がいい」
やけに真剣なヴィンスの言葉に、ラナは返答に詰まった。
「あら、神父様。こんなところにいたのね」
そこで、甘ったるい女性の声が響く。見れば、ヴィンス以上にしどけない格好をした女が入り口に立っていた。肩どころか、ほとんど胸元まで見えかかっている。艶やかで退廃的な香りが色濃くなり、ラナは思わず鼻に皺を寄せた。
女は乱れた長髪を片手でかきあげ、
「え、エドナ……」
「もう、神父様ったら」女はにこりと微笑んだ。「起きたらどこにもいなくて、心配したわ」
「……の、喉が乾いてな」
「まぁまぁ! そういうことならば、私に命じてくださればよかったのに。すぐに悪魔に持ってこさせてよ?」
「だ、だが……君の手をわずらわせるのも……」
「もう! 神父様と私の仲じゃない」
うっとりと言いつつも、エドナと呼ばれた女はつかつかとヴィンスに歩み寄った。ラナと目が合うものの、ひどく冷たい視線で一瞥し、ヴィンスに向かって美しい笑みを浮かべる。
「ふふ。じゃあもう一度。今度は夜の続きがてら部屋で飲み直しましょう?」
容赦なくヴィンスの腕を引く。彼も抵抗する気がないらしく、ラナに少しばかりすまなさそうな視線を向けた後、二人揃って立ち去ってしまった。
*****
「ねーえ、ラナ」
「…………」
「ラナ」
「…………」
「ラナってば! もう! そんなにレモンティーを飲まなかったこと怒ってるの?」
アイシャに掴まれた腕を、ラナはやや乱暴に振り払った。そうして再びテーブルの上で頬杖をつき、ため息をつく。
「違う。そうだけど、そうじゃない」
「なにそれ。意味分かんない」
「それはこっちの台詞だよ……」
科学都市サブリエで大人気の洋菓子店ハミンス。そこに併設されたカフェで、ラナは額を押さえた。
運ばれてきたばかりの紅茶に口づけながら、ラナはここに至るまでの過程を思い出してみる。
ヴィンスが姿を消し、それとほぼ時を同じくしてアイシャが炊事場に現れた。結局アイシャはレモンティーを飲まず、ばかりかこうやって魔術協会の外に連れ出された。
ラナはぎゅっと眉を潜める。
「ねぇ、アイシャ。なんで私はあんたとカフェでお茶しないといけないんだい……?」
「やぁねぇ、ラナったら」アイシャは生クリームのついた苺を頬張って目を緩める。「だって、さっきのお店でパスタ食べたでしょ。じゃあ次は甘いものをつまみたくなるじゃない」
「……パスタの前はアイスクリームを食べてた」
「甘いものを食べたから、今度は塩気のあるものを食べたくなったの」
「……その論理で行くと無限に食べることになるよね……?」
「あら」
唇の端についた生クリームをぺろりと舐め、アイシャは澄んだ眼差しを向けた。
「女の子って、そういうものでしょ?」
「…………」
いや、絶対にそういうものじゃない。ラナはがっくりと肩を落とす。魔術協会にまともな人間はいないのか。ラナはぼやくが、もちろん返答などあるはずがない。
ショートケーキを食べ終え、アイシャが紅茶に口づける。少なくとも彼女はこの時間を堪能しているようだ。それを眺める内、ラナの中にもやもやとした苛立ちが溜まり始めた。どうして自分ばかり頭を悩ませなければならないのだろう。
アイシャがタルトへ手をのばす――それよりも早く、ラナはタルトを自分の方へ引き寄せた。アイシャが赤の目を光らせる。
「ひどい! それアイシャが食べようと思ってたのに!」
「アイシャはさっき食べただろ」
半ばやけくそに食べたタルトの、フルーツの酸味とクリームの甘みがじわりと体に染みる。それに心を慰められながら、ラナはじろとアイシャを見やった。
「そもそも、私は懐古症候群について聴きに来たんだ。たくさん食べたんだし、いい加減に教えてくれたっていいんじゃないのかい」
「教えろって言われても困るわ」
「なんだって?」
アイシャのすげない返事にラナは危うく果物を喉につまらせるところだった。何度か咳き込みアイシャを睨む。
「知りたいなら自分のところに来いって、君が言ったんじゃないか!」
「うるさいなぁ。アイシャにだってちゃんと考えがあるの」
「もう! あぁ言えばこういう!」
いい加減にしてほしいと、ラナが苛立ちのあまり立ち上がった時だった。
和やかな昼下がりの空気を、甲高い悲鳴が裂く。ラナが思わず見やった先、街角から青い顔をした女性が飛び出してくるのが見えた。
「なんだい……?」
「予言どおりね」
「は?」
騒然とする空気の中で、ラナは胡乱げな視線をアイシャに向けた。そうすればキセキの魔女を自称する彼女は静かにティーカップを置き、目を上げる。
「懐古症候群よ」
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