# Ingannare

 懐古時計が午前二時を示す。それを確認してベッドサイドに時計を戻したラナは、その隣に目をやった。


 煙草の箱と銀色のジッポライターが置かれていた。ベッドの上で膝を抱えたラナは、先程からずっとそれを見つめていた。廊下からはアランがシャワーを浴びる音が聞こえる。その音を、なんとはなしに聞き流しながら。


 アランの宣言どおりに、ラナは娼館から引き上げた。しばらく娼館で噂になるわよ、と引きつった笑みを浮かべたのはシェリルだった。酔狂な客が、入って一ヶ月にも満たない娼婦を多額の金を払って買い上げた、なんて。


 数時間前に別れたばかりのシェリルの記憶に、ラナは苦笑いする。仕方ないんだよ。養父さんはそういう人なんだ。


 アランとラナが二人で住むアパートは、一ヶ月前と変わらずだった。だからこそ、娼館を離れて帰ってきたばかりの今、思いを巡らさざるを得なかった。アランのこと、エドのこと。シェリルのこと、アイシャのこと。あるいは懐古症候群トロイメライの犯人。感じたことは日記に全て書いた。それでも吐き出しきれなかった何かが胸の奥底にこびりついている。


 シャワーの音は相変わらず響いている。ベッドサイドに置かれた箱とジッポも変わらない。


 ラナはゆっくりと体を動かした。ベッドに手をつき、箱とライターを掴む。慣れない手付きで煙草を取り出し、何度か失敗して先端に火をつけた。


 どこか恭しい手つきのまま、ラナはじっと煙草を見つめた。小さな紙の塊は仄かに暖かく、唇に近づければ煙と共に香りが鼻をくすぐる。


 彼の、香りがする。


「煙草に興味があるのかな、お嬢さん」


 からかうようなアランの声と共に、煙草を己の手首ごと奪われた。あ、とラナが我に返った時には遅い。彼女が首を捻った先で、アランが見せつけるように煙草を口にしていた。勿論、ラナに煙草を握らせたまま。


「っ……!」


 唇が指先に微かに触れる。赤面したラナは息を詰めた。それにしかし、養父は唇の端を上げて笑っただけだった。


 己の指の中で微かに動く煙草がやけに艶かしく、ラナの心臓の音が大きくなる。白煙の向こうで、アランの金色の目が細められた。半乾きの薄金色の髪は、いつにもまして深く輝いていた。その隙間からは覗く耳飾りは、音もなく揺れている。何かを誘うように。


「……べ、つに」服の裾をぎゅっと握りしめ、ようやくラナは干上がった喉を動かした。「……興味とかは、ないよ」

「それは重畳。煙草なんて、君にはまだ早い」


 アランの面白がるような視線に、ラナはますます頬を赤くした。

 どうして自分ばっかり。少しばかり苛々しながら、アランの手を乱暴に振り払う。目をそらしながら唇を尖らせた。


養父とうさんは、いつもそう言う」

「おや、そうか?」

「そうさ。ピアスをしたいって言ったときもそうだった。養父さんが危ないからやめろって言ったんだよ」

「あぁ」煙草をくゆらせながら、アランが楽しげに言う。「そうだったな。懐かしい」

「懐かしい、じゃないよ! まったく……! 養父さんはいつまでたっても過保護なんだから……!」

「だが、ラトラナジュ」


 冷たい指先でするりと耳朶を撫でられ、ラナはびくと体を震わせた。青玉サファイアのついたイヤリングは、シャワーを浴びる時に外したっきりだ。だというのに、まるでそこに何かがあるかのように、アランの指先は軽やかに踊る。


「代わりに贈ったイヤリングは、とても似合っていると思うよ。君は毎日つけてくれているし」

「だ……って……養父さんに最初にもらった贈り物、だし……」

「いじらしい。最初と言わず、君が望めば幾らでも輝石は用意するが」そこまで言いさしたところで、アランが何かを思い出したように言葉を付け足した。「そういえばこのイヤリングを贈った時……君たっての希望で結婚式の真似事をしたんだったな」


 十歳にも満たない頃の思い出を掘り返され、ラナは顔を跳ね上げた。アランは金の目を輝かせてラナを見つめている。

 彼女はぐっと眉根を寄せた。


「っ、もういい!」

「おや」


 アランを無視して、頭から毛布を被った。彼が可笑しそうに笑う。それも無視を決め込んでいれば、ベッドが微かに軋んだ音を立てて沈む。


「――おやすみ、愛しの君」


 優しい声と共に、毛布越しにラナの頭が撫でられた。その確かな重みに、それでも少しばかりほっとしてラナは目を閉じる。


 おやすみなさい、と呟く。その言葉を合図に、ぱちりと部屋の電気が消される音がした。



 *****



 壁に掛けられたデジタル時計が『13:18』を示す。その、下で。


「絶対に似てない」


 侮辱もいいところだ。そんな気持ちを込めてエドが吐き捨てた言葉は、ものの見事にテオドルスと重なった。それにエドは顔をしかめる。不本意だ。不本意すぎる。心の中で付け足し、組んだつま先を揺らせば安物のパイプ椅子が軋んだ音を立てた。


 昼下がりの病室であった。そもそも、エドは病院という空間が好きではない。シミひとつ許さないと言わんばかりの天井と床の白さ。薬品と鬱屈とした命のこもった独特の香り。何もかもが生を拒んでいるような気がして落ち着かないのだった。


 それでもせっせと足を運んでいるのは見舞いのためだ。決して、隣の万年留年野郎と似ていると笑われるためではない。


 昨日の娼館での戦いの疲れも相まって、エドは首を捻ってテオドルスを睨みつける。


「なんで俺の言葉に被せてくるんですか、テオドルス先輩」

「おうおう、エドのくせに生意気言ってんな?」テオドルスは腕を組んで唸った。「真似してきたのはお前の方だろうが?」

「冗談言わないでくださいよ。先輩の考えを読み取れるほど、俺は馬鹿じゃないんで」

「はぁ!? 誰が馬鹿だ!」

「っ、ぶはっ! あんたら本当に仲良しだなぁ!」


 ベッドから半身を起こしたマリィが金髪を揺らして吹き出した。エドとテオドルスは同時に顔をしかめ、揃って顔をそむける。そう揃ってだ。


 最悪だ。ぼやいたエドが見やった先で、ベッドの縁に止まったカラスと目があった。エメリ・ヴィンチ教授の最新作である機械仕掛けの鴉は、赤の目を冷ややかに細めて濡羽色を震わせる。


 エドはきゅっと眉を寄せた。お前、今少し馬鹿にしただろ。胸中で訴えど、返事は勿論ない。


 マリィは相変わらず爆笑している。


「そんなことより、マリィ先輩」エドは何とか空気を変えようと咳払いをした。「体調はいかがなんですか? 手術が控えてるんでしょう」

「んー、全然問題なしよ。ノープロプレムってやつ」


 言いながら、マリィは勢いよく自分の心臓を叩いた。エドとテオドルスは揃って顔を引きつらせる。何を隠そう、彼女が抱えていたのは心疾患だったはずだ。

 マリィはいじけたように唇を尖らせた。


「つーか、むしろ入院生活が退屈でさぁ……この前はガキ達とチャンバラごっこしたせいで、医者から大目玉食らうし……」

「あのーもしもし? マリィ・スカーレットさん?」テオドルスが控えめに進言した。「すまん、やることのパンチが一々強すぎて、内容が全然頭にはいってこねぇんだけど……」

「なになに? もしかして私のバイタリティの高さに嫉妬でもしたか?」

「いや、なんで病人がバイタリティ溢れてんだよ……」


 テオドルスが、がっくりと項垂れた。エドも嘆息する。その一方で、どうりで、と納得もした。


 部屋に入った時に、真っ先に目に入ったのが剣だったのだ。窓際に立てかけられた細身の剣には、でかでかと『使用禁止』と書かれた紙が一枚貼り付けられていたのだった。


 鴉が一鳴きし、マリィの膝の上に乗る。「お、可愛いやつだな」と言いながら、マリィは嬉しそうに小さな鴉の頭を指先で撫でた。


「まぁまぁ。私の手術の話なんてのはどーでもいいんだよ。ぴゅってやって、バッってなって、特別製の心臓に変えるだけなんだからさ」

「……え、待って。エド、こいつの言ってること分かる……?」

「……およそ大学生とは思えない語彙力ということしか……」

「んなことより、お前らの研究はどうなのよ? 順調? 相変わらずブラック?」


 マリィににこやかに問われ、テオドルスが何故か沈黙した。いや、よくよく目を凝らせば彼の頬が微妙に赤いことが分かる。大方、彼女の笑顔に不意を突かれたとでもいうところか。

 何を今更、とエドは呆れ、テオドルスの足を思い切り踏んづけた。


「あ、あー! いや、もちろん!」テオドルスが妙に調子っ外れな声を出した。「もう相変わらずってやつだよ。昨日の夜も日付超えるまで働かされっぱなしでさ」

「ふふっ、我らがエメリ教授は相変わらずだねぇ」

「学生を酷使しすぎなんだよな。そのくせ、あいつは自分で働かねぇんだからさー」


 エドは白けた視線をテオドルスに送った。


「よく言いますよ、テオドルス先輩。昨日は綺麗な女の子との会話に精を出してただけのくせに」

「ち、ちっげえよ!」テオドルスは目に見えて動揺した。「あれはその、あれだ! 我らが教授の言うところの、策は無限にある、っつー意思の現れっつーか! 余裕の体現っつーか!」

「出た。テオドルス先輩が唯一出来る、下手くそな教授のモノマネ」

「くっそ、お前はあぁ言えばこう言う……!」


 マリィが再び吹き出した。エド達が顔を揃って向ければ、彼女は笑う。


「まぁ、あんた達二人が揃っていれば、万が一ってのもありえないか」マリィがどこか満足げに頷く。「私は大人しく信じて待つから、あんたらも無理はしないようにな」


 テオドルスがにやっと笑った。


「病人に言われてもな」

「ばっかだな! 病人だから大人しくしてんだろ」

「さいで」

「そうじゃなかったらさー、ハミンスのアイスクリームを食いに行きたいし、体力戻すためにランニング20kmしたいし、素振りの練習もしなきゃだろ。あとはテオを適度に殴って筋力回復、」

「いや待って、最後のおかしくないか!?」


 マリィが話して、テオドルスが突っ込む。研究室にいた時とまるで変わらぬ賑やかなやりとりにエドも笑みを浮かべ、頃合いを見計らって立ち上がった。


「なんだ、エド坊。もう帰んのか?」


 見上げてくるマリィに、エドは頷く。


「ええ、まぁ、やることがあるので」

「そっか……」

「大丈夫ですよ、マリィ先輩」残念そうな顔をするマリィに、エドは幾分か表情を緩めた。「テオドルス先輩はもう少しいるでしょうし。また、時間がある時に」


 ちらとテオドルスに目を向ければ、こんな時ばかり彼はさっと目を逸らした。だがエドは、その足元に小さなケーキ箱が置いてあるのを見逃さない。

 エドは小さく肩をすくめる。


「おいで、クロウ」


 名を呼べば、鴉が濡羽色の翼をはためかせてエドの肩に止まった。


 振り返ることなく病室を後にする。廊下の空気はよそよそしく、エドは心持ち足早にその場を立ち去った。


 長い廊下を抜け、学術機関アカデミアと病院とを繋ぐ渡り廊下へ向かう。廊下に人通りはなく、等間隔に嵌められた窓から燦々と陽の光が注いでいる。


 エドは足取りを緩めた。窓の向こうで、落ち葉がくるりと風に舞う。


 テオドルスとマリィの暖かなやりとりが再び思い出された。不快ではない。けれど少しだけ寂しい。それは仲間に入れてもらえない寂しさではなかった。自分がかつて手にしていて、けれど失ってしまった、そんな寂しさに近い。


 馬鹿みたいだ。エドは己を笑った。自分は何も手に入れていない。だからこそ、失うものなどないというのに。


 そこで、窓から差し込む陽光がエドの目を射た。一瞬の眩惑。その内に、光を弾いて舞い上がる埃を見る。熱気をはらんだ夏風が吹く。静かな世界で誰かが微笑んでいる。


 ――悩んでなんかない。大丈夫。私は今でも、十分幸せさ。


 そう言って微笑んだのは、誰だったか。



 奇妙な郷愁と共に浮かんだ疑問の意味を、彼はまだ知らない。




 *****




 画面に浮かんだ歯車が、鼓動のように明滅する。


「データ収集ご苦労だった」


 暗闇に吐き出される合声音に労いの感情はない。パソコンの中に住まう人工知能に感情は設定されていない。だが、己の手先に感情を向ける必要もない。

 人工知能の望む通り、光の届かぬ部屋の隅で、守り人たる人影は深く頭を垂れる。


異常エラーの原因は判定可能でしょうか」

「アラン・スミシーと断定する」

「……理由を聞かせて頂いても」

「参照データはエドワード・リンネウスとの戦闘である。その最終データだ」


 言い終わらぬ内に、人工知能はパソコンの画面を切り替えた。仮面をつけた黒灰色の髪の少年と、スーツを着込んだ薄金色の髪の青年。後者の男の指先で光が瞬く度に、雷が、風が生まれる。


「アラン・スミシーが使用するのは魔術だ。触媒は宝石。そこは疑いがない。だが」


 人工知能の言葉の途中で、拮抗していた戦局が動いた。

 画面右下から放たれた炎に、少年がすんでのところで青年を盾にして逃走する。青年は紛れもなく炎に飲まれた。その直後の映像だった。


 炎は消え、少年の姿はない。炎が現れた方角から、ふらりと少女が姿を表した。黒灰色の髪の少女はラトラナジュ・ルーウィに違いない。ひどく衝撃を受けたのか、彼女が体をふらつかせる。


 その背中を、薄金色の髪の青年が抱きとめた。ラトラナジュの背後から。


「この時点で、時間の乱れを観測した」


 映像が止まる。人工知能の声に、画面を見つめていた人影が身じろぎした。囁くように問う。


「時間を操る魔術、ということでしょうか」

「可能性は高い。本世界で観測されている時間の異常とも類似する。よって、この男を時間遡行における異常原因であると設定。排除行動を要求する」


 話は終わったと言わんばかりに、人工知能が画面を元に戻す。再びの歯車は変わらず輝きながら動いていた。

 そこで、人影が慎重に口を開く。


「……一つ、よろしいでしょうか」

「質問に応じる」

「アラン・スミシーの排除に関しては異論ありません。すぐにでも次の手を打ちましょう。ですが……」

「簡潔な質問を要求する」

「……仮にアラン・スミシーが時間を操る魔術を使用したとして……何故、貴方がその異常をすぐに特定できなかったのでしょう?」

「…………」

「貴方は全ての時間を管理する。そうであるならば、時間遡行の一部に異常を検出した時点で、アラン・スミシーが原因であると断定可能だったのでは?」


 人影の問いに、人工知能は思考した。歯車の明滅が僅かに早くなる。そうして三秒間という長い沈黙の後、それはゆっくりと結論を吐き出した。


「……何者かにより、アラン・スミシーが異常の原因であるという事実が隠されていたということか」


 人影はほっとしたように頷いた。


「何者か――というよりは、アラン・スミシー本人によって、と考えるのが順当かとは思いますが。いずれにせよ、奴がこちらを妨害している可能性は十二分にある」

「ならば、その可能性を踏まえた上で、我々は彼の男を仕留めねるまでだ。指示に変更はない」

「その通りです」人影は深く頭を垂れた。「どうぞ、お任せを。策は無限にある」


 人影の声に細やかな自負の色が滲んだのを、人工知能は見逃さなかった。守り人も所詮は人間だ。程度の差こそあれ、感情を持つ。そしてその感情は、時に最上の策さえも水泡に帰す。


 実に単純な事実に基づき、人工知能は牽制するように言葉を吐き出した。


「最善手を話せ。予測される危険リスクの検討を行い、確実性を向上させる」


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