5. どれだけ間抜けだろうが俺ぁ刑事だ

 一連の騒動を終え、娼館は元の静けさを取り戻しつつあった。ロウガ刑事とアランは個室で何やら話し込んでいる。シェリルの姿が見えないことが気にかかったが、それよりもラナの頭を悩ませたのは白銀の髪の少女、アイシャだった。


「……ねぇ、アイシャ」


 娼館の廊下で、コーヒーの載ったトレイ片手にラナは嘆息した。

 彼女に飲み物を要求した張本人は、床に白銀の髪がつくのも構わず、閉じた扉へ一心不乱に耳を寄せている。


「アイシャ、何してるんだい?」

「みゃっ!?」


 ラナが少しばかり声を大きくして問い直せば、アイシャはぴょんと飛び跳ねて振り返った。きょろきょろと辺りを見回し、ラナと目が合うなり動きを止める。


「なっ、なーんだ! ラナじゃない」努めて平静を装いながら、アイシャは腕を組んだ。「もう、びっくりさせないでよ」

「びっくりって、こっちが驚いてるんだけど。飲み物持ってくるから隣の部屋で待ってて、って言ったよね?」

「やぁよ。あんな退屈な部屋。アイシャには全然向いてないわ」


 軽やかな足取りで近づいてきたアイシャは、ラナの持ってきたカップを手にとった。中身を覗き込んだ彼女は一転、眉間にきゅっと皺を寄せてカップをトレイの上に戻す。


「コーヒーの気分じゃない」

「は?」ラナは思わず胡乱げな声を上げた。「君が飲みたいって言ったんじゃないか!」

「今は紅茶の気分なのー! ミルクをたっぷりいれて、泡立てたばかりのホイップクリームを浮かべたやつ!」

「そんな無茶苦茶な」

「無茶でも苦茶でもないわよー! アイシャはキセキの魔女様なのよ? 魔術協会で一番なのよ? だったら、もっと敬わなきゃ!」

「あぁもう! キセキの魔女も魔術協会も知らな、む!?」


 抗議の声を上げていたラナの口は、アイシャの人差し指によって封じられた。うんざりした目を向ければ、アイシャが神妙な顔で扉を指差す。

 確かそこはアランとロウガ刑事がいる部屋のはずだ。ラナは眉を寄せた。


「……盗み聞きはよくない」

「あなたの話をしてるのよ」

「…………」


 アイシャの返事は端的で、だからこそ効果的だった。言葉に詰まったラナはしばし悩み――結局アイシャともども扉に耳を寄せる。

 そうして聞こえたアランの第一声に、ラナはどきりとした。


「俺はラトラナジュと共に娼館から引き上げる」

「おいおい、魔術師さんよ」


 応じるロウガの声は、ラナの気持ちを反映したように戸惑いの色を滲ませていた。


「いきなりどうしたっていうんだ? あぁいや、大事な娘なんだから、娼館なんぞに置きたくないって気持ちは分かるがねェ……何もあんたまでいなくならなくても。捜査に協力してくれるって約束だったじゃないか」

「ここで調べるまでもないということだよ、刑事殿」


 革靴が床を鳴らす。その音に次いで、アランの淡々とした声が聞こえた。


学術機関アカデミアの教授、エメリ・ヴィンチ」

「……は?」

「犯人の名前だ」アランはぞんざいに付け足した。「あぁ言っておくが、証拠はない。だが、それを見つけるのは君たちの仕事だろう?」


 ロウガが沈黙した。顔こそ見えないが、彼が額の汗をハンカチで拭っている姿がラナの目に浮かぶようだった。少しばかりの沈黙の後、ロウガは再び口を開く。


「いや……いやいや。証拠もないのに犯人が誰かを当てられるわきゃないでしょう」

「無論、俺は信頼してもらわずとも構わないが」アランの声が、幾分冷ややかになる。「そうなれば、君は犯人の目星もつけられない状況のまま、ということだな」

「ややっ、そりゃそうかもしれねぇがなぁ……」

「待ってよ、刑事さん。そのいけ好かない男の言うことを本当に信じるつもり?」


 弱りきったロウガの声に、異を唱えたのはシェリルだった。姿が見えないと思ったら、彼女も部屋の中にいたらしい。


 ということは、自分だけが除け者にされているのだ。ふと気づいた事実に、ラナの胸がちくりと痛む。扉に添えた指に僅かに力がこもった。

 扉の向こうでは、シェリルが早口でまくし立てている。


「証拠がないんでしょ? だったら、彼の話は嘘よ」

「あぁ、いや、まぁ嘘って決めつけるのは早いと思うが……」ロウガはしどろもどろに返事をした。「だがなぁ、嬢ちゃん。他にアテがねぇのも事実だわな。俺たちの方には、犯人に繋がる手がかりもねぇしよ」

「持ってるわよ、手がかり」

「……へ?」


 シェリルの自信満々な声に、ロウガが頓狂な声を上げる。部屋に足音が響いた。僅かな衣擦れの音についで、ロウガが戸惑いの色を声に滲ませる。


「こいつぁ……」

「薬よ」


 シェリルの声に、ラナは身を固くした。心なしか空気が強張ったようにも感じる中、シェリルの得意げな声が響く。


「お客さんからスッたの。懐古症候群トロイメライを予防できるんですって。いかにもな代物じゃない? そういえば、彼の相手をしていた女の子は調子を崩してたもの。もしこれが原因なら、薬をくれたお客が犯人で決まりだわ」

「……スるなんて、お前さん……」

「あら。信じられないって目をしてらっしゃいますけどね、刑事さん」シェリルはわざとらしく口調を改めた。「こんなの簡単だわ。一粒飲んでみせたら、相手もすっかり油断してたもの」

「飲んだ?」ロウガの声が裏返った。「飲んだってのか? この得体のしれない薬を?」

「いちいち騒がないで。そうでもしないと信用されないでしょ」


 しん、と部屋が静まり返った。ラナは恐々としながら扉に耳を押しつける。

 ややあって、ロウガの低い声が聞こえた。


「……分かった」


 感情を抑えた声は彼にしては珍しい。けれど、シェリルは気づいていないようだ。相変わらずのすげない声音で言う。


「何がよ?」

「シェリル・リヴィ。捜査に協力感謝しよう。だが俺ぁ約束したな? 無理はしない、と」

「無理はしてないわ」

「してる。薬を飲むなんて」

「体に異常はないじゃない」

「遅効性かもしれないんだぞ!」


 テーブルを叩く音と共に、ロウガが怒鳴った。ラナの視界の端でアイシャが首をすくめる。

 誰も何も言わない。その空気の中で、ロウガが乱暴に息をついた。


「とにかくだ。シェリル、あんたは今後捜査に参加しなくていい」

「ちょ、ちょっと待って! なんでよ!」

「危険なことをする人間を参加させることはできねぇ」

「今更じゃない! 第一、そうでもしなければ証拠なんて手に入らなかったでしょ! あんたはボンクラなんだから!」

「それでもだよ」ロウガは強い口調で言った。「どれだけ間抜けだろうが俺ぁ刑事だ。刑事にはあんたら一般人を守る義務がある」

「っ、なによそれ! こんなところだけ善人ぶらないで!」


 乱暴な足音が響き、ラナとアイシャは慌てて扉から身を離した。コーヒーの載ったトレイをラナが掴む。

 扉が勢いよく開いた。飛び出してきたシェリルを見て、ラナはぎょっとする。彼女の目は少しばかり潤んでいる。


「シェリル……」


 ラナが名を呼ぶも、シェリルは返事もせずに大股で立ち去ってしまった。感じ悪いわね、あのオネーサン。アイシャがぼそりと呟く。

 と、ラナの持っていたトレイが軽くなった。


「これはこれは、ラトラナジュ」顔を上げれば、コーヒーを一飲みしたアランが微笑する。「聞き耳など立てずとも、君のためならば幾らでも席を用意したのに」

「…………」

「ラトラナジュ?」

「……ごめん、養父とうさん。それ、そのまま持ってて!」


 アランにトレイを押しつけ、ラナはシェリルを追いかけて走り出した。客と娼婦たちの歓談が虚しく響く廊下を抜け、シェリルに少し遅れて相部屋に飛び込む。


 瞬間、ラナの目の前を枕が横切った。ラナはぎょっとし、体を反らして枕をかわす。

 けれど、強襲物はそれだけにとどまらなかった。ぐるぐると部屋を歩きながら、シェリルが目についたものから力任せに放り投げていたからだ。


「なんなのよ……なんなのよ、なんなのよ!! あのボンクラ刑事!!」

「ちょ、ちょっとシェリル……」

「せっかく私が手に入れた証拠なのに! それを横から掠め取っていくんだから最低だわ!」

「落ち着いて……」

「私のためとか言って、ただ捜査から外したいだけなんじゃない!」


 二つ目の枕、化粧道具、アクセサリー、ラナが日記を書くために使っているペン。次々に飛んでくる物を避けて、なんとかラナはシェリルの手を背後から掴む。


「シェリルってば……!」


 彼女はぴたりと動きを止めた。肩で息をする度に、亜麻色の髪が僅かに上下する。静寂は長く、それでも結局、シェリル自身の言葉で破られた。


「……分かってるわよ、ちゃんと」


 背を向けたシェリルが、ぼそと呟いたのはそれだけ。たったそれだけだった。泣くわけでもなく、嘆くわけでもなく、呟いただけ。


 ――あぁ、彼女はずっと、こうだったんじゃないか。そのことにふと気づき、ラナはいたたまれない気持ちになった。心臓が苦しい。夜闇にぽつんと浮かぶ背中がひどく悲しい。この感情を、ラナは痛いほどに知っていた。だからこそ、慰めの言葉なんて浮かぶはずもなかった。


 それでも彼女を独りにしたくなくて、ラナはシェリルの体におずおずと腕を回す。

 シェリルの細い体が、微かに震えた。


「いきなり、なによ」

「……ごめん、その」

「今度は謝るわけ?」

「嫌だったらやめるよ。でも、」早口に言って、ラナはそこで言葉を切った。腕に力を込め、シェリルの華奢な背に額をつける。「でも、その……私も一緒に考えるから」


 シェリルは少しだけ体を揺らした。永劫にも思える沈黙の後、呆れたように息を吐く。


「……ラナの下手くそ」


 ありったけの強気を無理矢理に詰め込んだような声だった。振り返ったシェリルはラナを引き剥がし、それでも少しだけ笑みを見せて、ベッドの縁に腰掛ける。


「いいわ、付き合ってあげる。具体的には何を考えるの?」


 シェリルが本調子でないのは明白だった。それでも、それに気づかぬフリをして、ラナは答える。


「まずは、状況を整理しないかい?」

「……そうね。そうしましょう」


 シェリルがほっとしたように頷いたのを皮切りに、二人はとつとつと互いが経験したことを報告しあった。単なる事実確認は、三十分も経たずに終わった。けれど、この一ヶ月で最も濃密な時間だった。


「とりあえず、だよ」全てを話し終えた後、ラナはゆっくりと口を動かす。「今のところ怪しいのは二人ってことだよね。養父さんが言ってるエメリ・ヴィンチって男と、シェリルが薬を受け取ったテオドルス・ヤンセンって男。問題はその内のどっちが犯人で、どうやって懐古症候群を増やしているのかってことだ。私達はそこを調べなきゃいけない」

「えぇ、まぁ、そうだけど」


 ラナが渡したカセットテープを弄りながら、シェリルが不服そうに口を動かす。


「ラナ、あんたは信じてるの? あのいけ好かない男の話」

「……まぁ、とりあえずはね」眉根を寄せるシェリルを見て、ラナは苦笑いした。「うん、でもシェリルの気持ちも分かるよ」

「何の根拠もないじゃない。それなら、私に薬をくれた男の方がよっぽど根拠もあるし怪しいわ」

「でも一応、君が受け取った薬だって『予防薬』ってことだったんだろ?」

「馬鹿ね。あんなの嘘に決まってるじゃない。飲んだら懐古症候群になる薬なんて、誰も欲しくないでしょ。だから『予防薬』って偽って薬を配ってるのよ」


 シェリルが組んだ足の爪先を揺らしながら不貞腐れたように言う。

 少なくとも反論するだけの元気は出てきたらしい。それに少しばかりほっとしながら、ラナはもう一度記憶を振り返った。視線の定まらない少女。鳴り響く警報音。現れた幼馴染。


 エドのことを考えただけで、ラナの胸に影がさす。それを努めて無視しながら、ラナは己に言い聞かせるように胸中で呟いた。エドはエメリ・ヴィンチの名を聞いてから様子がおかしかった。ならば、そこの二人が繋がっている可能性は十分ある。


 他に何か見落としていることはないか。そこまで考えたところで、ラナはふと思い当たった。


「……ねぇ、シェリル。今日戦った女の子のことなんだけど」

「警報を鳴らした子のことね?」

「そう。その子、ちょっと変だったんだ。最初は懐古症候群の共感者……ええと、懐古症候群の悪影響を受けちゃった子なのかなって思ったんだけど……誰かに指示されてるみたいな感じがして。その『誰か』っていうのが、もしかするとエメリ・ヴィンチって奴なのかもしれない」

「そう……」何かを考えるような間の後、シェリルはゆるりと首を横に振った。「でも、そんなの証拠にならないわ。ちょっと変、なんて、あんたたち魔術師なら分かるかもしれないけど、私にはさっぱりだもの」

「うん、そうなんだけど……でも例えば、だよ? 薬を飲んだ人間が、ちょっと変な懐古症候群になってしまうとしたら?」


 突拍子もない仮定だったが、口に出してみれば悪くない考えのようにも思えた。シェリルも同じような考えらしく、カセットレコーダーを弄っていた手を止めてラナと目を合わせる。


「……そうね、それはあるかも」

「ね、そうだろ?」ラナは笑みを浮かべて手を叩いた。「ってことは簡単だ。様子のおかしかった女の子が目を覚ました時に、薬を飲んだかどうか聞いてみよう? きっとそれが証拠になるはずで、」

「ううん、それは私がやるわ」


 ラナに被せるようにきっぱり宣言して、シェリルが立ち上がった。いつもの強気な光を宿した目でラナを見据え、彼女は言葉を続ける。


「それよりも、ラナは別のことをすべきかも」

「別のこと?」

「他の場所で、この娼館と同じことが起こっているかどうか調べてくれないかしら」


 シェリルの提案に、ラナは返事に迷った。名案だとは思う。なにせ懐古症候群はサブリエ中で増えているのだから。けれど、この広い都市からどうやって当たりをつければいいのか。

 そこで、場違いなまでに明るい声が入り口から響いた。


「ふっふっふっ……! どうやら、お困りのようじゃない!」


 入り口に立つアイシャを見て、ラナは顔をしかめた。シェリルも眉を潜めている。

 だというのに、ラナ達の視線を浴びたアイシャは得意げに胸へ手を当てた。


「懐古症候群について調べたいんでしょ? だったら、アイシャに任せなさい! なんてったって、アイシャは魔術協会でも一番の魔術師なんだから!」

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