1. 久しぶりね、ラナ
科学都市サブリエには
それは患った人間の精神を崩壊させる病。患者は戻らぬ過去を嘆くように悲嘆に暮れ、異常行動をとるようになり、挙げ句の果てには死に至る。
治療不可能、診断困難、予後不良。そんな病にまつわる噂が一つ。
懐古症候群にかかった人間は、魔術師に殺される。
*****
がしゃん、という音と共に、ラナのすぐ隣を鉄骨が落ちていく。それに彼女は顔を引き攣らせ、自分の前方を走る黒い影に声を上げた。
「ちょっと……なんなんだい……!」
されども、ラナの先を行く小柄な影から返事はない。加えていうなら、立ち止まる気も毛頭ないようだった。脇目も振らずに足場を駆ける。頭から被っているフードがばたばたと風に揺れる。
ラナは舌打ちし、さらに足に力を込めた。
発信機の信号を頼りに、ラナと養父が辿り着いたのは廃ビルであった。解体途中で放棄されたビルの中はがらんどうだ。鉄骨のむき出しになった柱と、壁に張り巡らされた朽ちかけの足場だけが打ち捨てられている。
時計台が鐘を鳴らす。どこからともなくカラスの鳴き声が聞こえる。日はとうの昔に暮れていて、夜闇に満ちた空気は見通しが悪い。
その足場を、ラナは甲高い足音を立てながら辿る。高さにしてビルの三階相当だ。おまけに古くなっているのか、ぐらぐら揺れる。鉄骨が落ちてきたのも、存外、自分たちが動き回っているからなのかもしれない。
ラナは顔をしかめた。ひらひらと足にまとわりつく衣装も、ヒールが高いばかりで実用性の欠片もない靴も、何もかもが腹立たしい。普段着なら、とうの昔に追いつくことが出来るというのに。
がしゃんと、再び音がする。二度目となれば鬱陶しいだけのそれに、顔を上げたラナは短く息を呑んだ。
自分とフード姿の人間が走る一つ上の階。
その足場の裏側から、コウモリのように真っ黒な影がぶら下がっている。
男のようだった。ようだったというのは、ラナが見た瞬間に影が解けて蔦のような何かが一斉に飛び出したからだ。
『っ、冠するは風――』
すんでのところで足を止めたラナは、ズボンのポケットから真珠を取り出し指先に挟んだ。真っ直ぐに影へ向かって腕を伸ばし、口を動かす。
『無垢の輝きを以て荒海を裂け!』
真珠が砕け、風が放たれる。突風は黒の影と激突し、それを押し返す。けれど。
甘い。ラナは己の未熟さに顔をしかめた。風は一時と経たずに消滅し、宙で反り返った黒の蔦が再びラナに向かってくる。
一本、二本。前方へ駆け、なんとかラナは蔦を躱した。勢いを殺しきれなかった蔦がラナの足元を掠め、大きく足場を揺らす。
前方で悲鳴が上がった。声の主はフードを被った人影だ。怯えたように手すりに捕まっている。亜麻色の髪がちらりと見える。それに華奢な肩も。
彼女は、懐古症候群だ。それがために自分は彼女を追いかけてきた。一瞬でもラナはそう思って、思考が止まりそうになって。
「――あぁ、もう……!」
それを理由にして、立ち止まりそうになった自分にラナは悪態をついた。
三本、四本。再び前方へ駆け出したラナの頬を蔦が掠めていく。鋭い痛みがはしる。足場が軋んで、いよいよ大きく揺れる。それら全部を無視し、ラナは少女の体を強く前方へ押して、複雑に組まれた足場の分岐点へ移動させる。
ぎいと軋む音がした。足場が崩れ、ラナの体が宙に放り出される。黒い蔦が空気を鳴らした。ラナはなんとか身をひねるが、それで精一杯だ。眼前に迫る無数の蔦に身を固くする。
涼やかな声が届いたのは、その時だった。
『冠するは太陽 恐れを退け宵闇を散らせ』
黄緑の燐光が、ラナの頬をくすぐって舞い上がる。だがそれも一瞬のことだ。
一拍置いて、彼女の眼前に顕れるは閃光。そして先ほどとは比べ物にならないほどの突風。
視界を塗りつぶす輝きにラナは思わず目を閉じた。体が重力に引かれて落ちる。そして。
「――真珠ではなく、オリビンを使用するのが正解だな。あの懐古症候群の本体は影なのだから」
誰かに抱きとめられた。呆れと笑みを含んだ低い声が降ってくる。それにラナは瞼を上げ、目を何度か瞬かせた。
男がラナを覗き込んでいた。薄金色の髪の隙間からのぞく金の目が、音もなく細められる。
「大丈夫か?」
「
呆けたようにラナが呟けば、養父は――アランは綺麗な笑みを浮かべ、次いで眉を上げた。
「おや、血が、」
「っ――」
アランに顔を覗き込まれ、ラナは息を呑んで身を
「ち、近い!」
「近い」アランが目を瞬かせ、はて、と首をかしげる。「近いもなにも、親子なんだから当然だろう?」
「親子だからこそ、保たなきゃいけない距離感ってもんがあるだろっ。助けてくれたのは礼を言うけどさ……っ」
「ふむ……?」
釈然としない声を上げる養父を尻目に、ラナは
全部、目の前の養父のせいだ。いつだって彼は無神経なんだから。言い訳するように胸中で呟いて、ラナは己の頬を腕で乱暴に拭う。
「それで?」早口で言いながら、ラナはアランの方をちらと見やった。目立つ怪我がないことに安堵しつつ、努めてぶっきらぼうに言葉を続ける。「養父さんの方は、大丈夫だったの」
「君を追いかけ回していた愚かなコウモリもどきなら消滅したが?」
「そっちじゃない。男を一人相手にしてたじゃないか」
あぁ、とアランが微妙な顔をした。何か問題でもあったのだろうか。ラナが首を傾ければ、彼は肩をすくめる。
「問題はない」
「……なんだい? その遠回しな返しは」
「心配には及ばない、ということだ」アランは顎で暗がりを示しながら、付け足した。「懐古症候群でも……まして、共感者でもなかった、というだけの話なのだから」
「は?」
それは一体どういうことだろう。眉を潜めたラナがアランの示す方へ目を向けた時だった。
ばさりとフードをはためかせ、小柄な影が舞い降りてくる。アランが示した先、うずくまった人影の側だった。同時に響く、ぐえ、という情けない声。
ラナはぱちりと目を瞬かせる。
「……ぐえ?」
「あーあー、もう! ちょっと踏んじゃったくらいで声を上げないでよ、刑事さん! 全然締まらないじゃない!」
ラナの声をかき消すように、フード姿の人間が声を上げた。澄んだ高い声は紛れもなく少女のそれだ。彼女が地面にうずくまった影を爪先で蹴れば、もごもごと非難がましい男の声がする。
「い……いやいや嬢ちゃんよ……人間の体には限界ってもんがあるんだぜ……?」
「刑事なんだから鍛えてるはずでしょ」
つんとそっぽを向いた少女の足元で、うずくまっていた男が半身を起こす。
眠たげな目に、冴えない顔をした男だった。ぼさぼさの髪の毛をしきりに気にしている。そして、くたびれた灰色のコートで光るのは鷹を模したバッジ。
警察だ。けれど、なぜそんな人間が娼館に出入りしているのか。ラナの疑問を見透かしたように、一息ついた少女が顔を上げる。
「――久しぶりね、ラナ。ま、数時間ぶりってとこだけど」
「……シェリル」
「良かったわ。ちゃんと私って分かってくれてて……あ、ちなみに、こっちのこれはロウガ刑事よ。刑事っていうか、私のパシリだけど」
軽やかなに言いながら少女は頭から被っていたフードを外した。折よく吹いた秋風に、亜麻色の艷やかな髪がゆらりと舞う。それを片手で押さえながら、少女は――シェリルは艷やかな唇を動かした。
「というわけで、内緒話ができる良い場所を知らない?」
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