12-2. Finale of gentle world

 ラナは傘もささずに外へ飛び出した。


 叩きつけるように降る雨が、すぐにラナの全身を濡らす。体に張り付いた服も、熱気と排気ガスを孕んだ濡れた空気も、気持ち悪くてしかたなかった。吐いてしまいたい。立ち止まりたい。今すぐにでも教会に戻って、聞かなかったふりをすべきだ。幾つも浮かぶ弱気を無視して、ラナは必死で足を動かす。


 行き交う車のタイヤが飛沫を散らす大通りを抜ける。店の多いエリアを越え、人々の行き交う時計台を通り過ぎて西へ。

 そうして幾ばくか走ったところで、とうとう足を止めた。


「アラン……」


 廃ビルの、すぐ近くにある裏路地だった。建物がひしめきあっている。暗い路地の隙間から灰色の空と時計台が見える。

 傘を差したアランが振り返った。彼の足元に何かが倒れていて、水たまりを赤く染めている。


「ラトラナジュ」アランは少なからず驚いているようだった。けれどそれも一瞬のことで、すぐに眦を下げる。「どうしたんだ、愛しの君。傘もささないで、こんなところまで」


 アランの声を無視して、ラナは裏路地に足を踏み入れた。彼の方を一瞥もせずに跪き、地面に倒れ込んだ見知らぬ男を抱き起こす。

 呼びかけれど返事はない。けれど微かに息はある。助けを呼ぼうと、ラナはズボンのポケットから携帯端末を取り出す。


 その端末が、音もなく取り上げられた。


 ラナは顔を上げる。

 雨に混じって、香水とタバコと鮮血が濃く香る。

 その中で、端末を奪い取ったアランが、静かにラナの方を見下ろしている。


「助けは呼ばなくていい」

「どうして?」


 ラナが眉間に皺を寄せれば、アランは困ったような顔をした。


「君が知る必要はないさ」

「っ、分かったよ! 理由は今は聞かないから……!」ラナはアランと対峙するように立ち上がった。「とにかく、その端末を返して! 人が死にそうなんだよ!?」

「そんなことよりも、君は早く屋根のあるところに行くべきだ。また教会まで送っていくから、」

「アラン!」


 語気を強めて名を呼べば、アランが言葉を止めた。

 しばしの沈黙の後、渋々と言った調子で息をつく。


「……排除したんだ。だから助けは要らない。そういうことだ」

「は……?」

「ただの人数調整だよ。ラトラナジュ」


 ラナが呆然と呟けば、アランは事もなげに言って肩をすくめた。


「君の魔術は懐古症候群トロイメライを治す。だが、魔術には見合うだけの代償が必要だ。全てを救えば、君が死ぬ」

「そんなの理由にならないだろ……!」

「理由になるさ。俺にとっては十分すぎる理由だ」


 アランの金の目が陰りを帯びる。けれど声音には確固たる意思が滲んでいて、ラナは何も言えなくなってしまう。

 雨音が強くなった。


「――君は全てを救いたいと言った。ならば」アランはラナをじっと見つめて口を動かした。「君が救えるだけの人数に間引かねばならない。俺は君を守ると決めたのだから」

「……そ、んな……」


 ラナの胸の内がどんどん冷え切っていく。雨の音が耳につく。彼は一体何を言っているのだろう。ぐらぐらと揺れる世界でアイシャの声が蘇る。

 あなたは本当に何も知らないのね。なにも。なにひとつ。


 ばしゃんと、背後で足音がした。ラナは振り返る。路地裏の入り口で、一人の男が目を丸くしていた。ぼさぼさの頭。みすぼらしい服。全身濡れ鼠の男の顔を、通りがかった車のライトが照らす。ベルニだ。


「――ああそういえばその男も、ずいぶん目障りだったな」


 冷え切ったアランの声に、ラナは顔を青くした。

 よろめくようにベルニに向かって駆け出す。迷わず手を取り、ラナは画家に向かって叫んだ。


「走って!」


 ラナはベルニを引っ張るようにして駆け出した。


 アランが追いかけて来ているのかいないのか。振り返って確認する余裕はなかった。ただひたすらに、人気のない通りを走る。

 もう走れないと、ベルニが呻く声が聞こえた。死にたいのかと、叱責したいのをこらえてラナは唇を噛む。


 薄くけぶる視界の先に、取り壊し中のビルの影がぼんやりと浮かび上がった。考える余裕もなく、ラナ達は転がるようにそこへ駆け込む。

 工事はほとんど終わっているのか、ビルの骨組みがむき出しになっていた。赤く錆びた鉄骨があちこちに山と積まれている。

 その内の一つに身を隠したところで、ラナは大きく息をついてベルニの手を離した。


「っ、あんた……っ、一体なんなんだっ……!?」

「頼むから、声を出さないで……」


 悪態をつこうとするベルニを何とか制し、ラナは空気を貪るように息を吸った。


 逃げ切れただろうか。いいや、そんなはずはない。それにしても寒い。ひどく、ひどく寒い。夏なのに。雨が染みた衣服を掻き抱き、ラナはのろのろと物陰から辺りを見回す。


 アランの姿は見えない。

 上手くまけたのか。でもここで逃げ切れたとして、どこに行けばいい。教会か? 娼館か? 浮かんだ選択肢はどれも馬鹿げて見えて、ラナの心臓がきりりと痛む。


「なぁ、あんた。俺の懐古症候群を取り戻してくれよ」


 唐突に響いた低い声に、ラナは振り返って顔を硬ばらせた。

 ベルニがじっとこちらを見ていた。暗く淀んだ目がラナを映す。


「懐古症候群を、取り戻してくれ」

「取り戻すって……いきなり何を言うんだい? 今はそれどころじゃないだろ。そもそも、病気が治ったんだ。あんたは死ななくて済んだ。なら」

「絵が売れない」

「……は?」

「絵が売れないんだよ」


 ベルニの呻き声は、雨の中で鈍く響いた。ラナが返す言葉を失う中、ベルニの目がぎらぎらと輝く。


「呪いの絵じゃなくなったせいだ。どいつもこいつも口を揃えていうんだ。あんたの絵は呪いという神秘性があったからこそだった。けれど呪いがなくなった今、あの絵はただのゴミクズだってな」

「そんな……」

「なあ、だから治してくれよ。俺に返してくれ。懐古症候群を。呪いを」


 ベルニの手が暗がりからぬっと伸び、ラナの右腕を掴んだ。力を込められ、ラナは顔をしかめる。


「っ、痛……っ……!」

「なぁ! あんたが懐古症候群を治したんだ! だったら、その逆もできるはずだろ? なぁ……なぁ……!?」

「っ、できるわけないだろ……っ」


 ラナが叫べば、ベルニの目が異様な輝きを帯びた。


「できない、だと?」

「っ……できない。知らない、そんなやり方……!」

「お前、いい加減にしろよ! 俺から才能を奪っておいて、泣いて済むと思ってんのか!?」

「っ……」


 目の前がちかりとした。一拍おいてラナは地面に倒れこむ。ばしゃんと跳ねた雨水と、頰の痛みで自分が殴られたのだと気づく。

 起き上がらなきゃとラナは思った。けれど雨が染み込んだ体は一向に動いてくれない。


 ベルニの様子がおかしいのは明白だった。逃げなければならない。彼から。そしてアランからも。

 ああ、でも。でも、でも、でも。逃げたとして、今度はどこにいけばいい。なにをすればいい。ラナの指が地面を掻く。けれど雨で滑って、その手には何も残らない。


 ベルニが引きつった笑みを浮かべた。

 ラナの視界の端で、ぎらりとなにかが光る。

 それが男の取り出したナイフなのだと、ラナはぼんやりと思って。


「なあ、じゃあ、あんたを殺せば魔術は解けるのか」


 そんな声がして、ナイフが閃く。

 誰かが自分の名前を呼んだ、気がした。



 ****


「は……はは! やった、やったぞ……!」


 ベルニは血のついたナイフを放り出した。

 地面には、腹から血を流した少女が倒れている。全身を震わせるように息をしていた。けれど動きは鈍く、なにより抵抗らしい抵抗だってしなかった。


 彼は天をふり仰ぐ。雨が降ってくる。それが全身に染みて力を与えてくれるようだった。力が蘇る。ああそうだ、まさにそれだ。自分はこれでまた画家として生きていける。いや、前以上にもっともっと。


 そう思い、ベルニは込み上げてくる衝動のまま口を開ける。けれど。


「……っ、が……」


 こぼれ出たのは笑いではなく、呻き声だった。喉元から鮮血を吹き出し、ベルニの体がぐらりと傾く。


「……愚かだな」


 靴音を鳴らし、アランがビルへと足を踏み入れた。その指先で緋色の輝石が音もなく消えていく。

 動かなくなった男を一瞥もせずに蹴飛ばし、アランはラナの元へ足早に近づいた。


「あぁ……」ぐったりとした半身を抱き起こして、アランは息を吐く。ひどく冷たい体に、アランは思わず手に力を込めた。「ラトラナジュ……どうか、目を覚まして」


 微かにラナの瞼が震えた。けれど目が開けられることはなく、その眦に涙が溢れる。

 彼女の命が、尽きようとしている。そのことを思い知って、アランは我知らずに呻いた。


「……すまなかった、ラトラナジュ。この世界も、君にとっては間違いだった」


 アランはラナを抱きしめた。彼女の暖かな血が服に染みる。今にも消え入りそうな彼女の鼓動に耳を澄ませる。そうしながら、彼はただひたすらに後悔する。


 彼女の養父が死んだこと。懐古症候群を排除していた現場を見られてしまったこと。この汚らしい男を早々に始末しておかなかったこと。しくじった点をあげればきりがない。次こそは完璧に、君を守らねば。全てから遠ざけて。


 次こそは。今度こそ。


 ラナの頰へ手を滑らせ、アランは彼女の顔を見下ろした。雨の雫が薄金色の髪を伝って彼女に降りかかる。

 そうして目元を歪めた彼は、ラナの唇へ口づける。彼女の薄い呼吸を奪って、少しだけ舌を絡めて、名残惜しげに離して。


「――時よ 廻れ」


 冷え切った彼女を抱きしめ、アランは低く、呟く。


 懐古時計が、ガチンと軋んだ音を立てた。


 *****


 こんな依頼はもう二度と受けないぞ。固く決意をしながら、ヒル・バートンはぐったりとソファに身を沈めていた。


 くしゃくしゃになった白衣のポケットから携帯端末を取り出し、ヒルは嘆息した。もう18:35だ。手術が終わってから、もう一時間も経っていたらしい。そのことに驚きながら、ヒルは赤の癖毛を両手でかき回し、丸眼鏡を己の腹の上に放り投げて、そばかす混じりの顔を揉んだ。


 バートン医師せんせい、いいですか。今日の勤務時間外労働の分の賃金は、あとできっちり請求しますからね――年重の看護士達の言葉を思い出し、ヒルは暗澹たる気持ちになる。

 彼女たちには感謝している。もちろんだ。かといって、サブリエの片隅にある小さな個人病院には、彼女たち全員の賃金を上げられるだけの余裕もない。


「うー……やめだやめだ!!」


 ヒルは呻いてソファから身を起こした。金の話はよくない。こと、大雨だなんていう天気の悪い日には特にそうだ。それに今日はツイてなかった。廃ビルで妙な少女と男に絡まれたのだから。

 明日は明日の風が吹く、だよ。うん。無理矢理に言い聞かせたヒルは眼鏡をかけ、テーブルの上の冷めたコーヒーを一気飲みして隣の部屋に向かう。


 扉を開けば、雨音に混じって規則正しい機械音がした。画面に表示された生体反応バイタルは安定している。ベッドに横たわる老いた女性の顔色を見て、ヒルは一つ頷いた。顔色も悪くない。新しい人工呼吸器は問題なく機能しているようだ。


 失敗するはずがないさ。この私の発明品なのだから――毎度厄介事を持ち込んでくる高らかな男の声を思い出し、ヒルの胃がさらに痛む。


 外がやけに騒がしくなったのは、その時だった。


 ヒルは目を瞬かせ、窓辺に近づく。

 雨に濡れた窓の向こうで、時計台が狂ったように鐘の音を鳴らしていた。


 *****



 ロウガは椅子から転げ落ちて目を覚ました。


「っ、いって……」


 しょぼくれた目を必死でこする。警察署の壁にかけられたデジタル時計が18:35を示していた。幸いにして、彼のデスクの周りには誰もいない。そのことに胸を撫で下ろしながら、ロウガは椅子を軋ませて大きく伸びをする。


 寝不足だった。何を隠そう、シェリル・リヴィの一件のせいだ。


 彼女は懐古症候群に罹患している最中に、娼館の主人に怪我を負わせた。そんな匿名の通報が事の発端だった。


 起こった事件自体は単純だ。問題は懐古症候群が精神疾患の類であり、病を患っていた間の傷害事件を罪に問えるのか、というところなのだった。なにしろ前例がない。厄介ごとを上司が押し付けたのは間違いない。


 おまけにシェリルという少女はひどく強気で、ロウガに向かって何度も繰り返すのだ。

 自分が娼館の主を傷つけたことは認める。でも、あの事件には学術機関も一枚噛んでいた。


「……一体どういうことなんだ……ったく……」


 はっきり言って、サブリエに赴任したばかりの自分がやるような仕事じゃない。ぶちぶちと文句を並べながら、ロウガは首を鳴らして立ち上がる。

 そこで、けたたましい音が響いた。


「っ……!?」


 ロウガは首をすくめて辺りを見回すが、人気のないデスクが広がるばかりで音源らしきものはどこにもない。

 音は外から響いているらしい。そう当たりをつけたロウガは、近くの窓に駆け寄った。土砂降りの雨が吹き込むのも構わず窓を押し上げる。

 そしてロウガは、あんぐりと口を開けた。


「なんだ、こりゃあ……」


 時計台の鐘が、鳴っている。何度も何度も何度も。



 *****


 その日、科学都市サブリエ中に時計台の鐘の音が鳴り響いた。

 狂ったように打ち鳴らされる鐘の音に、人々は手を止め時計台を見上げる。







 そして彼らの目の前で、時計台の針が動いた。

 ――軋んだ音を立てながら、反時計回りの方向へ。





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