12-1. Finale of gentle world

 科学都市サブリエを、雨が叩く。


 腕に抱えた絵を、ベルニは衝動に任せて地面に投げ捨てた。

 絶え間なく降り注ぐ雨が、キャンバスにかけられた布をじとりと濡らす。その布の上から、ベルニはキャンバスを踏み抜いた。


「くそっ……くそくそくそっ……!」


 何度か繰り返した後、ベルニは無残な紙の塊に唾を吐いた。傘を持たない体は、とうの昔に濡れ鼠になっていた。重い頭を振って雫を払う。アルコール臭い息を黄色い歯の隙間から吐き出す。足元をふらつかせながら、乱暴に地面を踏む。


 あいつのせいだ。ベルニは低く呻く。あいつが呪いを奪ったせいで、自分の絵は売れなくなった。

 せっかくアトリエの女が死んで、あの家を好きに使えるようになったと思ったのに。ルベール展覧会で名を売って、いよいよ画家として名を馳せる予定だったのに。


 一ヶ月前の時計台のボヤ騒ぎ――なにより、あの場にいた黒灰色の髪の少女が、ベルニの病を治したせいで、青の絵の呪いは失われた。


 ベルニは血走った目を開いて、頭を乱暴に掻いた。足を引きずるようにして歩き始める。

 あの女から、呪いを取り返さねばならない。ただただ、それだけを思いながら。



 *****



「さっきの、絶対に気づいてただろ」


 時計台での戦いから一ヶ月後。

 アランの運転する車の助手席で、ラナは頬を膨らませていた。


 彼と共に懐古症候群トロイメライの患者を治療しにいった帰りだった。さっき、というのはその時のことだ。


 今回の患者は廃ビルに逃げ込んでいて、例によって戦闘になりかけた。その近くを偶然通りがかったのが赤毛にそばかすの青年だった。哀れな通行人は、アランの放った魔術に危うく巻き込まれるところだった。

 結局はラナがすんでのところで気づき、事なきを得たわけだが。


 ラナの隣で、ハンドルを握ったアランが肩をすくめた。


「気づいてなかったさ。まさか廃ビルに人がいるとは思わないだろう?」

「嘘だ」ラナは横目でアランを見やる。「あんたの位置から見えてた」

「ふむ……であるならば、俺が君に夢中になっていたせいだな。気付かなかったのは」

「ねぇアラン。あんた、それさえ言っとけば何でも許されるって思ってないかい?」

「さぁ? どうだろう」アランが可笑しそうに眉を上げる。「少なくとも、俺は君の寛大な心を信じているが」


 反省の色を見せぬまま、アランが車のギアを軽やかに動かす。

 ラナは深々とため息をついて、助手席に身を沈めた。

 それでも、アランは無闇に人を傷つけることはなくなったのだ。それ自体は良いことのはず。


「さぁ着いたぞ」


 アランは穏やかに言って、車を停めた。

 雨のせいで薄くけぶる空気に、ぼんやりと教会が浮かんでいる。


 アランとはここでお別れだ。そう思えば、急にふわふわと浮いていた気持ちが萎んでいくようだった――そう、少なくとも自分は、彼との会話を楽しんでいるのだ。どんな形であれ。

 嬉しくもあり、けれど気後れするような気持ちにもなって、ラナは思わず目を伏せる。

 そんな彼女を見て何を思ったのか。少しばかりの沈黙の後、アランがたった今思いついたと言わんばかりに口を開いた。


「そうだ、ラトラナジュ。今度の土曜日にでも、買い物に行かないか」

「買い物?」


 ラナがぱっと顔を上げれば、アランが小さく笑った。


「そうさ。この雨も土曜日には止むらしいからな。もう夏も終わるだろう。秋服を買うべきじゃないか?」

「あ……それは……そうだね……」ラナは視線を彷徨わせ、おずおずと問うた。「で、でも。アランは忙しいんじゃないのかい? 服くらいなら自分で買いに行くし……」

「俺と一緒に行くのは嫌だったか? ならば辞めにするが」

「い、嫌ではないけどっ」

「そうか」


 アランが顔を綻ばせた。からかわれていると分かりながらも、そんな顔をされればラナの胸がじんわりと熱くなる。

 ラナは頬を染めながら顔を背けた。ドアノブを捻って扉を開ける。


「行くなら、朝がいい」雨の音がぐっと大きくなる中、ぼそぼそとラナは付け足した。「昼を過ぎるとお店が混むから」

「ならば十時に迎えに行こう」

「ううん。待ち合わせがいいな」

「待ち合わせ?」

「そう。大きな木が立ってる広場のとこ。時計台の近くのさ」


 そっちの方が、それっぽいじゃないか――そう言いかけて、その発言が随分恥ずかしい物であることに気がついたラナは、慌てて唇をきゅっと結んだ。

 けれどアランは、きちんと理解したらしい。


「ラトラナジュ」


 逃げるように車から出ようとすれば、アランに腕を掴まれた。

 自分の名前を呼ぶ声は低く艷やかで、ラナの心臓にじわりと熱を灯す。


「……なんだい」


 渋々と言った風を必死に装ってラナが振り返れば、輝石の魔術師は恭しくラナの手の甲に口づけて微笑んだ。


「土曜日の約束、楽しみにしている」


 ラナは目を逸らし、少しばかり乱暴に手を振り払った。

 頬が熱くなるのを感じながら助手席を飛び出す。雨に濡れた地面を踏んで教会に飛び込んだ。


 ばたんと後ろ手に扉を閉める。教会の中は薄暗かった。雨の湿った空気と晩夏の熱気に混じって、ほのかに薬草の香りがする。廊下の奥から聞こえてくるのは、朗々としたヴィンスの声だった。


 かつてこの世界は救われた。輝石の魔女と、奇跡の悪魔によって。


 ラナは深いため息をつき、ずるずるとその場に座り込む。

 心臓が、耳のすぐそばで鳴っているようだった。火照った頬に手を当てて、ラナはぎゅっとその場に縮こまる。

 

 あまりのぼせ上っては駄目だ。アランは自分の師で、彼から魔術をきちんと学ばねばならないのだから。そう叫ぶ理性の隣で、ラナの直感がにんまりと笑う。

 でも、彼は自分に好意を寄せてくれているんだよ。少なくとも、それは間違いじゃない。

 そして自分も、彼のことが。


「――アランのことが、好きなのね」


 自分の気持ちを見透かしたような声が響き、ラナはぎょっとして顔を上げた。


「……アイシャ」


 一体いつからいたのだろう。ラナのすぐそばで、アイシャが見下ろすようにして立っていた。

 彼女は赤い目を瞬かせた後、ぱっと顔を輝かせる。


「おかえりなさい、ラナ! 待ってたのよ!」

「待ってた?」

「そう! 見せたいものがあるの!」


 アイシャに両腕を引っ張られ、ラナは立ち上がった。そのまま階段を登りながら、ラナはちらちらとアイシャを見やる。

 黒のワンピース。白銀の髪。赤の目。なにもかもいつもどおりだった。なのに、何かが決定的に違うのは何故なんだろう。そう思って、ラナははたと気づく。


「ねぇ、アイシャ。ニャン太はどうしたんだい? 今日は持ってないみたいだけど……」

「ニャン太?」二階の廊下を軽やかに歩きながら、アイシャは、あぁ、とどうでも良さそうな声を上げた。「あの猫の人形なら、捨てちゃったわ」

「捨てた?」

「だって、子供っぽいじゃない。それにとっても汚かったし」


 ぽかんとするラナを見ることなく、アイシャは廊下の端で立ち止まった。

 陽に焼けた木製の扉だ。ラナはそわそわと辺りを見回す。


「ねぇここ、なんだい?」

「神父様の部屋よ」

「ヴィンスさんの? だったら、勝手に入っちゃ駄目なんじゃ……」


 戸惑うラナを無視して、アイシャはくるりとドアノブを回した。扉はあっけなく開き、アイシャがラナの腕をぐいと引いて部屋に連れ込む。


 転がり込むようにして部屋に入ったラナは、ぱちぱちと目を瞬かせた。

 小さな部屋だ。灯りはついていないが、部屋の奥の壁に大きな窓が嵌められていて、そこから差し込む灰色の陽光が部屋を照らしている。


 部屋の両脇にある棚には、古めかしい本が並んでいた。擦り切れた赤の絨毯には金の糸を使って二対の頭を持つ竜が描かれている。窓の前に置かれた大きな机の上には、天球儀が一つとパソコンが一つ。


 ラナの腕を離したアイシャは、絨毯を踏みしめながら部屋の奥に向かった。

 机に腰掛けた彼女は、迷うこと無くパソコンを手前に引き寄せる。


「その感じだと、ラナはここに入ったことがないのね?」パソコンを起動させたアイシャは、ラナの方をちらとみやって肩をすくめた。「ここに来て一ヶ月も経つのに、あなたは本当に何も知らないのね。なにも。なにひとつ」

「何も、って……」

「何もよ。なーんにもラナは知らないの」

「……だから何を知らないっていうんだい」


 アイシャの持って回った言い方に、ラナは唇を尖らせた。

 言いたいことがあるなら、はっきり言えばいい。そんな思いを込めて眉をひそめれば、アイシャがにこりと微笑む。


「たとえば、私達がどうやって懐古症候群の人間を見つけてると思う?」

「それは」ラナは苛々しながら腕を組んだ。「依頼を受けたりして、だろ。それこそ、ベルニさんの時みたいに」

「あれは特例よ」

「特例だって?」

「そうよ。考えても見て? いちいち依頼なんか受けたりしたら後手に回っちゃうでしょ。そうでなくたって、症状に気づいてない患者の方が多いんだから。むしろ特例じゃなかったのは、あんたの親友の方」

「シェリルの……」


 ラナが眉を潜める間にも、アイシャはキーボードを叩いた。


「懐古症候群を患った人間は魔術師に殺される」アイシャが歌うように呟いて、パソコンの画面モニタをラナの方へ向けた。「これが答えよ、お姫様」


 青白く輝く画面に地図が浮かんでいた。時計台の位置と表示された建物の配置から、どうやら自分が今しがたまでいた場所らしいと、ラナは気づく。

 そして地図のそこかしこに、顔写真が浮かび上がっていた。名前の下には、様々な長さの赤い棒グラフが付されている。ある写真は明るく、ある写真は暗い。


「この地図の見方は簡単」アイシャは人差し指を立ててくるりと回した。「写ってる人間が懐古症候群の患者たち。そしてこれが、今日ラナが治療してくれた患者さんね。暗くなってるでしょ? これが懐古症候群が消滅した証拠なの」

「つまり……神父様は懐古症候群を予測できるってことかい?」

「まさか。神父様に懐古症候群を予測する力なんてないわ。彼の魔術はあくまでも結界術だもの。それに……そうね。エドナでもないのよ。彼女は悪魔を召喚する魔女だけれど、未来予測なんて人一人の命を代償にしたって実現できないもの」

「じゃあ、これは」

「簡単よ。予測できないのなら、予測してもらえばいい。人間よりよほど正確で、情に流されず、悪魔のように見返りを要求しない、完璧な存在に」

「……なんだい、それは」

「プレアデス機関」アイシャが小さく笑んで、パソコンを叩く。「自ら思考する機械。神父様が真に信奉しているカミサマよ」


 絶え間なく響く雨音に、遠雷の音が混じる。

 パソコンから放たれる光がひどく得体の知れない物に思えて、ラナは我知らず後ずさった。胸元の懐古時計を握る。夏だと言うのに、時計はひどく冷たい。

 そんなラナを見て、アイシャはとびきり嬉しそうに手を叩く。


「ここからが本題よ、ラナ。この灰色は何を意味するでしょうか?」


 返す言葉も出てこず、ラナは眉を潜めた。灰色は懐古症候群が消えた証拠だと、言ったのは他ならぬアイシャだ。そう思う間にも、明かりが消える。一つ。また一つと。

 懐古症候群が消滅したのだ。当たり前のように思った。思って、そこでラナはどきりとする。

 懐古症候群を治療できるのは自分だけだ。

 ならばどうして、今目の前で明かりが消えたのだろう。

 アイシャの唇が弧を描く。


「ねぇ、ラナ。アランは今、何をしているんだと思う?」



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