11. あと少しだけ
「こんなところにいたのか」
アランに声をかけられ、ラナはゆっくりと顔を上げた。
タチアナのアトリエだった。二階に立ち並ぶ部屋の一つ。ラナがタチアナと共に絵を描いた場所。
数日前に夏の明るさに満ちていた部屋は、深夜を迎えた今、ひどく暗かった。窓の向こうには半月が浮かんでいるのが見える。
ラナは椅子に座ったまま、静かに息を吐いた。乾いた絵の具と、降り積もった埃の香り。ラナと向かい合うようにして置かれた椅子に、腰掛ける人はもういない。
ラナは目を伏せた。
「……ベルニさんは目を覚ましたかい?」
「まだだが」
「そう」
「そちらの方がよほど都合がいい。目を覚まして何かと訊かれても面倒だ」
「……うん」
「ラトラナジュ。君は? 疲れてないか?」
ラナは曖昧に頷いた。手の中で懐古時計がかちりと鳴る。
一体今は何時なんだろう。ぼんやりとラナは思い返した。
気を失ったベルニと共に時計台を離れた時には、零時を告げる鐘が鳴っていた。そのベルニをヴィンスの車で運び、ベルニが持っていた鍵を使ってタチアナの家に運び込んだのだ。
一階で眠っているベルニの顔色は良かった。
ラナがベルニを治し終わった頃には、
絵画を燃やしていた炎はアランによって鎮火され、時計台自体に目立った損傷もない。
これで一件落着なのだ。何もかも。
そう思えば思うほど、アトリエの静けさがラナの胸を重くする。視界の端に、布の掛けられた絵画が映った。
あぁそうだ。もう二度と、あの布が上げられることはないのだ。
「ラトラナジュ」床を軋ませて近づいてきたアランが、驚いたような声を上げる。「泣いているのか」
ラナは何度も瞬きしながら首を振った。鼻を啜って、目元をこする。それでも結局、何も止められなくて、ラナは小さく呻く。
「そんなに擦るな。跡になるだろう」
「っ……ぅ……」
「どうしたんだ、一体?」アランがラナの傍に跪いて彼女の手首をとる。金の目がラナを覗き込んだ。「君はベルニを治療した。犠牲者も出なかった。君の望むとおりに。そうだろう?」
「……タチアナさんが、死んじゃったんだ」
ラナはアランの手を振りほどき、弱々しく呟いた。アランが眉を下げる。
「それは君のせいじゃない」
「でも……私がちゃんと、気づいてればよかった。ここに来た時、エドもマリィさんも、タチアナさんと一緒にいたんだよ。私がもっとしっかりしてれば……」
「君は万能じゃないんだ。起こってしまった出来事に対する仮定ほど無意味なものはない」
「……分かってる……けど……っ」
ラナは顔を歪める。分かってる。痛いほどに分かっていた。それでも割り切れるわけでは決して無い。タチアナは死んでしまった。エドの姿だって見えない。
「君は……」
アランがため息をついた。しばし何か考えるように目を伏せた後、おもむろに
腕輪に嵌っていた最後の輝石を外した。夜を思わせる濃紺色に、星を散らしたような金の輝きが混じっている。
『冠するは夜空』睦言のようにささやき、アランは
微かな音を残して輝石が砕ける。煌めきが爆ぜて宙を舞う。それを追いかけた先で、ラナは目を丸くした。
天井いっぱいに、満天の星空が広がっている。果ての知れない濃紺の夜に、金の星が息づくように揺れていた。
「お気に召して頂けたかな」アランは、ラナの方を見やって肩をすくめた。「といっても、この手の魔術は得意ではないんだが」
「そんなこと……ないよ……すごい……」
「それは光栄だ、愛しの君」
微笑んだアランは、ラナの手を取り指を絡めた。触れ合う指先は冷たい。それでも、ラナにとってはそれがひどく心地が良かった。
手を繋いだまま、ラナは再び夜空を見上げる。吸い込まれそうなほどに深い青を見つめて、何度か深呼吸した。
胸のつかえはとれない。けれど。
「アラン」
「なんだ、ラトラナジュ」
「私……」星を見上げたまま、ラナは最後と言い聞かせて一度だけ鼻をすする。「私、もっと強くなるよ。ちゃんと全部、守れるように」
「……そうか」
星が瞬いて、尾を引いて流れていく。二人きりの部屋で、アランが絡めた指先にそっと力を込める。
かちん、とラナの懐古時計が静かに歯車を鳴らした。
――あと少しだけ、このままで。そんなラナの願いに寄り添うように。
*****
血が、落ちない。呪いのように胸中で繰り返しながら、アイシャは教会の手洗い場で手を動かしていた。
ばしゃばしゃと蛇口から冷たい水が降り注ぐ。湿った灰色の人形が、水に打たれてくったりとしている。猫の人形だ。右足の辺りに小さな血の染みがついていた。
一体いつ汚れてしまったんだろう。眉をぎゅっと潜めたアイシャの脳裏に蘇るのは、つい先程の時計台での戦いだった。
ラナと共に、呪いの絵の案件に対処しに行った。
けれど、時計台で待ち受けていたのは学術機関の人間だった。
そして自分は、彼らと戦って。
――あぁそうか。君は魔術を見られたくないんだったな。
仮面の少年の嘲笑を思い出し、アイシャは人形を握る手にぐっと力を込めた。
見られたくない。当たり前だ。当たり前だよ。アイシャは唇を引き結ぶ。
だって、自分の魔術は汚い。そんな物をみたら、ラナはなんて言うだろう。せっかく出来た大切な友達なのに。一緒に雑誌を見て、自分の話をちゃんと聞いてくれて、自分を見て笑ってくれる。大切な、大切な友達なのに。
だから、ちゃんと隠さなきゃ。アイシャはさらに手に力をこめ、再び人形を洗い始めた。
冷たい水の中で何度も人形を擦る。灰色の毛が抜けて排水溝へ流れていく。
それでも血は落ちてくれない。少しも。
「落ちるわけないでしょ」
不意に軽やかな少女の声が耳朶を打ち、アイシャは悲鳴と共に飛び退いた。
猫の人形が音を立てて手洗い場に落ちる。壁に嵌められた鏡には、青白い顔をした自分自身が映っていた。
その鏡像が、赤い目を光らせてアイシャを笑う。
「馬鹿なアイシャ。一度ついた血は二度と落ちないのよ? 何度も何度も、教えてあげたじゃない」
「っ……う、うるさい……ですにゃ……」
「ですにゃ、なんて。人形も持ってないのに、そんな口調になったって痛いだけよ」
ころころと少女が笑う。鏡の中の自分が。
アイシャは激しく頭を振った。違う、あれは自分じゃない。違う、違う、違う。
鏡から無理やり目を逸らし、アイシャは勢いよく洗面台に両手を突っ込んだ。ばしゃんという水音と共に、灰色の人形を握りしめる。何度も何度も指先で血を拭う。
考えては駄目よ。アイシャがエドナと初めて出会った時に交わした約束を思い出す。たとえ何かが聞こえても、応じては駄目。考えては駄目。さもなければ、貴方の魔術は封を破って貴方自身を食らう。哀れな末路は辿りたくないでしょう?
分かってる。冷え冷えとした己の師の声に、アイシャは弱々しく呟いた。ちゃんと分かってる。
アイシャが魔術を暴走させれば、師であるエドナに手間がかかる。だからこそ、アイシャは己を律しなければならない。迷惑だけはかけてはいけない。言い聞かせながら、努めてゆっくりと呼吸をする。猫の人形だけに意識を向けようとする。
いつもならば、姿なき声はそれで消えるはずだった。
それなのに今日は、いつまでたっても鳴り止まない。
「ねぇ無理だっていってるじゃない」
うるさい。
「私が言ってるの。ちゃんと信じなきゃ駄目でしょ」
うるさい。
「アイシャ」耳元に木霊する声が、仄かな憂いを帯びる。「……そんなに辛かったの」
「うるさいっ……!」
アイシャは猫の人形を鏡に投げつけた。湿った音を立てて鏡にぶつかった人形は、ずるりと鏡面を滑り落ちていく。滴る水が鏡像を歪めた。
「消えて……」アイシャは肩で息をしながら、弱々しく呟いた。頭を抱え、その場にずるずると座り込む。「お願い、消えて。どっかに行って。あなたは私じゃない。私じゃないの……」
「ひどい、アイシャ。私はあなた。あなたは私。私がいなくちゃあなたは魔術をつかえない。あなたがいなければ私は生きてはいられない。今までもこれからも、そうでしょ」
「違うもん……違う……」
「違わない」
弱々しいアイシャの否定をいとも簡単に切り捨てて、少女は声を上ずらせた。
「なんにも違わないよ。アイシャ、私達はたくさん頑張ってるのに、神父様にもエドナにも褒められない。たくさんたくさん血を流して、誰よりもいっぱい我慢してるのに、だぁれも気づいてくれない」
「っう……」
「なのに、新しく来たお姫様は何も知らずに呑気に笑ってる。こんなの不公平でしょ?」
「っ……ラナは……っ……!」アイシャは絞り出すように声を上げる。「ラナは、友達だもん……っ! 関係ないもん……!」
「じゃあどうして、こんなに胸が痛いの」
少女の静かな声は、アイシャの心臓を正確に突き刺した。傷跡はぽっかりと残って、息を吸う度にアイシャの中から大切な何かが抜けていくようだった。
「どうして、なんて……」
ぼんやりと呟く声が、今のアイシャにはひどく遠く聞こえた。そのせいだろうか。響く声と、自分の声の境界が曖昧になっていく。
「分からないなんて、嘘つかないで。ちゃんと知ってるはずよ。貴方自身の気持ちだもの。あの子を見る度に、ずっとずっと苦しかったでしょ」
「わたし……」
「どうして、あの子はきらきら笑えてるんだろうって思ったでしょ? 私達の方がずうっと役に立ってるのに。今日だって、学術機関のオネーサンの相手をしたのは私達だった。この前だって、仮面のオニーサンを退けたのは私達だった」
「……なのに、エドナも神父様も……褒めてくれない……ラナは、アランに気づいてもらってるのに……」
「そう」
「私は……ちゃんと……良い子にしてるのに……」
「うん」
「……私は……ただ少しだけ……」
「そう、少しだけ」
――少しだけ、皆に振り向いて欲しかったの。
そう呟いたのは、どちらだったのか。
永遠にも思える沈黙の後、ゆらりと少女は立ち上がった。猫の人形には目もくれず、蛇口ひねって水を止める。顔を上げ、鏡を覗き、やだ、と彼女は左頬に人差し指を這わせる。
「こんなところにも血がついてるじゃない。しっかりしなきゃ駄目よ、アイシャ」
己の中で涙を流すもう一人の自分へ鼻を鳴らし、少女は拭った血をぺろりと舐めて嫣然と笑った。
どこからともなく、時計台の鐘が鳴り響く。
――あと、少しだけ。そんな彼女の願いを笑うように。
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