10-2. 幸せ、なんですね


 向かってくるエドから目を離さぬまま、ラナは輝石を掴む。アランから預かった輝石は残りは二つ。何度目かのエドの斬撃をかわし、短剣が引かれるタイミングで電気石トルマリンを出す。


『冠するは雷 怒りを放ち悪しきを裁け』


 閃光。エドの舌打ちを聞きながら、ラナは光に紛れてパネルの間を駆ける。

 考えろ、考えろ、考えろ。ラナは叫ぶように己へ言い聞かせる。


 まずはこの状況をなんとかしなければ。青の靄から出ること。ベルニを助けること。たった一つの輝石で、事態を好転させねばならない。

 魔術があるとはいえ、エドの方がよほど戦い慣れしているのだ。むしろ今まで、無傷でいられたことの方が幸運だった。


 そう、幸運だ。

 でも、本当にただの偶然だろうか。


 はたと思い当たった違和感に、ラナの思考が加速する。

 エドが本気を出していないのは明白だ。だがそれは何故だ。

 卑屈な笑い。何度も瞬かせる目。この世界は偽物ばっかりだ。そうやって、妙な言い回しをするのは何故だ。


 ラナの脳内を映像が駆け抜けていく。


 立て掛けたキャンバスの向こうで、タチアナが微笑んでいる。そうね、幸せだわ。はにかんだ彼女が持っていたのは、赤い粉の入った袋だった。


 タチアナの所有するアトリエは埃っぽく、夏の日差しに照らされていた。俺は、君のことが心配なんだ。夏の日差しを弾いて埃が煌めく。時が止まったような部屋で、エドは十年前と同じように何度も目を瞬かせていた。


 目を瞬かせるのは、隠し事をしている時の彼の癖だ。


 結論にたどり着くと同時に、ラナは靴音を鳴らして振り返った。


 相変わらず、辺りには青の靄が立ち込めている。立ち並んだパネルには無数の青の絵が飾られているが、幾つかはエドの短剣により無残に切り裂かれていた。

 その中をエドが駆けてくる。

 ラナは弾かれたように腕を振り上げた。


『冠するは楔 起点となりて我が意志を伝えよ』


 最後の輝石を指先で擦った。楔石スフェーンが砕け、薄緑色の輝きと共に散る。間髪入れず、床から幾本もの薄緑色の石柱が突き出す。荒削りのそれは、鋭利な先端でエドを捉えようとする。


「芸がない」


 エドが低くつぶやき、地を蹴った。宙へ身を躍らせる。


生体骨格変化: 熊Binomen change: Ursus maritimus


 機械の駆動音。仮面の形が変わると同時に、彼は腕をしならせた。宙空へ追いかけてきた石柱を叩き割る。柱は粉々に砕け、幾枚もの破片が雨のように辺り一帯へ降り注ぐ。


 重力に任せるまま、エドの握る短剣がラナへと迫る。

 それをしかし、ラナは避けない。


「っ……!」


 ラナの頬に鋭い痛みが走った。息を呑んだのはエドの方だ。それにラナは確信する。


 ラナは降り注ぐ薄緑色の破片を右手で掴んだ。

 召喚した輝石の目的は攻撃ではない。

 楔石の石言葉は『人脈の強化』。それは転じて『縁を繋ぐ』意味となる。


『冠するは真実 明星の輝きにより暗夜の欺瞞を払え!』


 そしてラナは、瑠璃石ラピス・ラズリの魔術を起動させる。辺り一帯に突き刺さった黄緑色の破片は、周囲に魔術を繋ぎ霧散する。


 青のもやが音を立てて動いた。緩やかに波打っていた靄は次第に渦を巻き、荒波のごとく轟音を立て始める。青の靄は崩れ強風となった。パネルに飾られていた絵が吹き飛ばされ粉微塵になる。


 嵐のような青の世界で、金が激しく明滅していた。そう、青に金だ。吹きつける強風の中で、ラナは唾を飲み込み目を凝らす。やはり、この空間そのものが瑠璃石で構成されている。そして、その元凶は。


 エドの短剣に構わず、ラナは身を捩った。右後方。風が強く吹きつけてくる方向で、瑠璃石を使って塗られた絵が輝いている。

 ラナは叫んだ。


「エド! あの絵だ!」

「――了解」


 ぼそりと、低い声が聞こえた。同時に、エドが飛ぶように輝く絵の元へ駆ける。短剣が本物の呪いの絵を切り裂く。


 雷鳴のような音が青の世界に轟いた。次いで青が激しく輝き、靄が内側から弾けるように四散する。


 飛び散る青の狭間、黒灰色の髪を遊ばせたエドと視線が絡んだ。表情を隠す仮面の奥から硬い声が吐き出される。


「ベルニは、部屋の奥にいる」


 ごうごうと靄が唸る中で、エドの声は奇妙なほどによく響いた。短剣を持たない方の手で、ラナの背後を指差す。

 扉が見えた。青い靄の中でも揺らぐことはない。時計台に元々存在していた部屋なのかもしれない。


「安心して、ラナ」エドが少しばかり口調を和らげる。「約束する。ここから先、学術機関アカデミアの人間はいない」

「……エド。やっぱり、あんたは」


 ラナが言い切るよりも先に、幼馴染はゆるりと首を横に振った。それ以上の言葉はない。

 問うてはならないのだ。ラナは唇を噛んだ。言葉にならぬ感情がもどかしい。けれど、ベルニの元へ急がねばならないのも事実だ。


「――全部終わったら、ちゃんと説明してくれよ?」深く息を吐き、ラナはエドを見据える。「でも、これだけは確認させて」

「…………」

「あんたがタチアナさんを殺したのかい」

「俺じゃない」


 エドの返答は静かで、揺るぎない。そしてだからこそ、ラナにとってはそれだけで十分だった。

 一つ、頷く。そして彼女は幼馴染に背を向け、奥の扉へと向かった。




*****




 ぱたんと、背後で扉が閉まる音がした。それと同時に、青の靄が完全に消える。


 次に目を瞬かせた時、エドは薄暗い小さな部屋にいた。間接照明が壁に飾られた絵を静かに照らしている。赤、青、緑。掛けられた絵には、様々な色でモチーフが描かれている。

 エドの背後には、ラナが駆け込んでいった扉が一つ。

 そして彼の目の前で、部屋に設けられたもう一つの扉が開く。


「だーから、お前を計画から外すべきだ、つったんだよな……」


 実に面倒くさそうな声と共に入ってきたのは、黒髪にガタイの良い男だ。小さなパソコンを脇に抱えた彼は、エドを見下ろし嘆息をつく。


「エド。お前、自分が何してんのか分かってんのか?」

「あんたに心配されるほど、落ちぶれてないです。テオドルス先輩」

「いやー……いやいや……これ完全に、俺が悪者扱いの流れじゃねぇの」


 テオドルスは面倒くさそうに天を振り仰いだ。エドの背後の扉に目を向け、肩をすくめる。


「マリィが泣くぞ。あいつ、あぁ見えて気にしぃなんだから」

「そうですか」

「そうですかってな……あのな」テオドルスが頬を掻いた。「たかが幼馴染に感化されすぎなんだよ。今さら懐古症候群トロイメライの患者一人を助けたところで、今まで殺してきた分がチャラになるわけじゃない」

「別に、罪滅ぼしをしようってわけじゃない。懐古症候群の患者の死は無駄にすべきじゃない。その方針には同意です」

「ならさぁ」

「でも、あんたはタチアナさんを殺した」エドはゆっくりと短剣を構えた。「あの夜の、機械の誤作動。やってないとは言わせませんよ。あんな指示言語コードを書けるのは先輩しかいない」


 テオドルスはため息をついた。のろのろとパソコンを開きながら、エドをちらと見やる。


「非合理だな、エド」

「どうとでも」

「病人が善人とは限らないんだぜ?」

「ベルニのために動いてるわけじゃないんで」

「じゃあ何のために?」


 エドは低く身を沈め、仮面の側面を叩く。女の声と共に仮面の変形が始まる。

 その最中で、エドは小さく笑った。


「ここから先、学術機関の人間は誰もいない。そう幼馴染と約束しましたから」

「……フラグ回収してやんよ。その言葉」


 テオドルスが僅かに目を眇める。その指先が動くと同時に、エドは駆け出した。


*****


 開いた扉の先で、ラナは息を飲んだ。


 部屋中が燃えていた。より正確に言うならば、壁にかけられていた絵から火の手が登っているのであった。酒を腐らせたような臭いが鼻の奥に凝る。天井のスプリンクラーから水が降り注ぐが、霧雨のようなそれに果たしてどこまでの意味があるのか。


「どうして、見てくれない……っ!」


 悲鳴のような声が部屋の片隅から上がる。慌ててそちらへ足を向けたラナの心臓がすくみあがった。


 ベルニが床に座り込んでいた。顔を俯けた男は、喚きながら床を指で引っ掻いている。

 その影から青の靄が噴き上がった。ベルニの周囲で凝縮し固化したそれは、澄んだ音を立てて無数の氷の楔となり前方へ放たれる。


『冠するは炎――』


 氷塊の向かう先からアランの声が響く。炎に照らされた横顔に浮かぶ表情は無い。ベルニに向かって真っ直ぐに差し出した彼の右手で、紅の宝石が鮮やかに輝く。

 そこには迎撃以上の意図が透けて見えた。だからこそ、ラナは声を張り上げる。


「アラン……!」


 ラナの鋭い声に、アランがちらと視線を向けた。その右手が僅かに下がる。


『―― 常世を祓い暁を導け 』


 輝石が砕け、アランの眼前に紅蓮の炎が顕れた。火は天井につく勢いで燃え盛り、氷楔を受け止めて溶かし尽くす。

 けれど煌めく業火が、ベルニに向かって前進することはない。その意図に気付いたラナは、ベルニの方へ駆け寄った。


「見てくれ……」


 呻くベルニの影から青の靄が滲み出た。足にまとわりつくそれは氷のような冷たさだ。服の裾から入り込んだ冷気が肌に割くような痛みをもたらす。

 顔をしかめながら、それでもラナはベルニの傍に跪いた。懐古時計を右手で握る。

ベルニが身動ぎしたのは、その時だった。


「見て欲しい……」


 掠れた声でベルニが呟く。電話を寄越してきた時の勢いは既になく、憔悴しきった画家の小さな背がそこにあった。

 絵の具の欠片がこびりついたベルニの指先が、ラナの右手を力なく握る。


「見てほしいんだ……そうでなければ価値などない。誰からも愛されない。見向きもされない……」

「……ベルニさん」

「なぁ、見ろ……見てくれ俺の絵を。そうでなければ届かない……届けたい……俺は……俺は……」


 ベルニの顔がゆるりと上げられた。目は落ちくぼみ、頬には涙が流れている。地面を掻くように動かしていた、その手の下には千切れた青の絵が一枚ある。


「この絵を、誰かに届けたかったんだ……でも、それが誰なのか。もう、俺には思い出せないんだよ……」


 ラナは目を軽く開いた。きっとこれが、彼の核なのだ。唐突にそのことに気がつく。だからこそラナは、ベルニの手を左手で包む。

 大丈夫と、言葉に出す代わりに懐古時計を握った右手に力を込める。


『冠するは時』


 ラナの手の中で、懐古時計がカチリと音を立てた。月白の光が時計から漏れる。ラナの周囲を漂う燐光は、少しずつ数と輝きを増す。懐古時計が仄かな熱を帯びた。

 その暖かさが、少しでも伝わればいい。あるいは漂う灯りの狭間に、ベルニが自身の願う世界を見られればいい。強く思い、ラナは静かに目を閉じて言葉を紡いだ。


『千切れた運命を手繰り寄せ 廻る世界へ引き戻せ』


 彼女の願いに応じるように、光が膨れ上がった。風のように渦巻いたそれはベルニの体を包む。彼の影から溢れる青の靄は、月白の輝きに成す術なく溶けて消えていく。


 ラナの耳元で、穏やかな笑い声が聞こえた。それにつられて目を開ける。


 ベルニが呆けたように宙を見つめている。その視線の先で、一人の若い女が椅子に腰掛け絵を描いていた。

 ゆるく結い上げられた茶髪は穏やかに輝いている。グレーのワンピースは、ところどころ絵の具で汚れていた。けれど彼女は気にも留めず、筆を動かす。木炭で描かれた男の肖像画が、夕焼けの赤に色づく。


「……幸せ、なんですね」


 気づけば、ラナはぽつりと問いかけていた。まるでそれが聞こえていたようだ。手を止めた女は、ラナ達の方を見やって微笑む。


 口を開いた彼女が何を言ったのか。ラナの耳には届かなかった。

 代わりに、ベルニが震える声で女の名前を呼ぶ。その手の下で千切れた青の絵が渦巻き、女の顔を作る。



 そしてやがては光る風に紛れ、女の姿も青の絵も幻のように消えていった。

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