7-2. 片思い……なのに、幸せなんですか

 赤、青、黄。

 色も濃淡も様々な絵の具が真っ白な小皿に注がれ、夏の日差しを浴びている。開かれた窓から響くのは建物を建て替える音。それに寄り添うように、タチアナの足元で機械が控えめな音をたて、彼女へ酸素を送る。


 タチアナと二人きりの部屋だ。椅子に座ったラナは、筆を片手に考えあぐねていた。とりあえずと思い、手近な小皿に筆を浸す。黄色に染まった筆を持ち上げ、視線をさまよわせ、もう一度筆を下ろした。


「描けない?」

「あ、いえ!」


 向かいに座ったタチアナと目が合う。彼女の目の前にあるのもキャンバスだ。それは先程見かけた、布のかけられたキャンバスに違いなかった。


 ずっと動き続けていたタチアナの腕が止まる。優しい――けれど、どこか気遣うような彼女の目線に、ラナは慌てて付け足した。


「気にしないでください!」

「でも……つまらなかったかしら、と思って」

「そんなことないですよ! ちゃんと描いてますし」ラナは真っ白な己のキャンバスから目をそらして立ち上がった。「よろしければ、タチアナさんの絵を見せて頂いてもいいですか?」


 タチアナは少しばかりラナを見つめていたが、気を悪くした風もなく椅子の上で体をずらす。


「わあ……」


 いそいそとタチアナの方へ向かったラナは、キャンバスを覗き込んで感嘆の声を上げた。

 描かれているのは一人の男の横顔だ。木炭で引かれた写実的な輪郭に、淡い赤や橙色で滲むように色づけされている。


「さすが……お上手ですね。タチアナさん」

「ふふっ、ありがとう。気に入って頂けてうれしいわ」

「モデルはベルニさんですか?」

「そう。私から見た彼よ」


 タチアナが嬉々として頷く。ラナは改めて絵を見つめた。無精ひげに伸び放題の髪は、実際に会った彼と寸分たがわない。けれど絵の中の男の方が余程、まとう空気は柔らかかった。


「幸せ、なんですね」


 少なくとも自分にはこんな絵は描けない。そんな思いを込めてラナが呟けば、タチアナがはにかむ。


「えぇ、そうね。幸せだわ」

「あの、ベルニさんとは……」


 結婚でもしているのか。ごく自然に問いかけて、ラナは口をつぐんだ。人を見かけで判断してはいけない。そう思いつつも、タチアナの方がベルニよりも随分年上に見える。恋人というよりも親子と表現した方がしっくりきそうだ。


「そうねぇ、この見た目だとねぇ」


 タチアナは苦笑いした。皺を一つ増やした目の奥で、諦めとも寂しさともつかぬ感情を浮かべ、ゆるりと首を振る。


「結婚はしてないわよ」


 長机の上に置かれた水差しを引き寄せながら、タチアナは穏やかに言葉を継いだ。引き出しから『岩辰砂いわしんしゃ、13』と書かれた小袋と白い皿を取り出す。

 水を皿に垂らし、小袋を傾けた。赤い粉が輝きながら水面に散り、夕焼け色に水を染める。


「彼はただのアトリエの住人で、画家よ。付き合ってもいないわ」

「そうなんですか?」

「そうよ」色づいた水を筆で溶きながら、タチアナがおどけたようにラナを見上げる。「私の片思いね」


 片思い。タチアナの言葉を繰り返して、ラナは唇をきゅっと結んだ。決して言葉の意味がわからないわけではなかった。けれど。


 タチアナが夕焼け色の筆をキャンバスに踊らせる。絵の中のベルニが、また一段と柔らかな空気を帯びる。

 風が吹く。机の上に置かれた空の袋がふわりと舞って床に落ちた。


「片思い……なのに、幸せなんですか」


 それを拾い上げながら、ぽつりとラナが問う。ちらとラナを見上げたタチアナは、すぐに視線をキャンバスに戻した。


「両思いだからといって、幸せとは限らないわ。それと同じことね」

「でも……その、苦しくないんですか」

「苦しいわねぇ」タチアナはからりと笑った。「でも、いいのよ。私は私の気持ちに嘘はつきたくないの」

「…………」

「誰かを愛するってね、口で言う以上に勇気のいることだわ。それが親愛にしろ、恋愛にしろね。でも、もしも誰かを本気で愛すことができたなら、これほど幸せな人生はないと思うの」


 タチアナは筆を置いた。顎を引いて絵を見つめ、一つ頷く。

 そしてラナの方を見上げながら、ゆっくりと口を動かす。


「だからね。ちゃんと感謝しなきゃ駄目よ」

「感謝、ですか?」

「そう。例えお嬢さんが相手のことを嫌っていたとしても、誰かが本気で好意を向けてくれた時は、真摯に受け止めて、感謝しなくちゃ。誤魔化して嘘をつくのが一番よくないわ」


 ラナは口ごもった。

 タチアナの言葉は、エドに対するラナの態度をやんわりと諌めているようでもあった。亡き養父が言わんとしていた一端を掴ませるかのような言葉でもあった。あるいは。

 そこまで考えたところで、彼の魔術師のことを思い出す。優しく細められた金の目。俺は君を守りたいんだ。そんな言葉が耳を打って、絵の具のようにさらりと消えた。


「あの」


 ラナの声に、タチアナがそっと首をかしげる。


「なにかしら?」

「絵、実はまだ描けてないんですけど……」ラナはちらとタチアナを見やった。「その、少し相談にのってもらってもいいですか?」

「えぇ」タチアナは手を胸の前で組み、にこりと微笑んだ。「もちろんよ」


 

*****


「本当にここまででいいのか? ラナ」

「大丈夫」


 そう答えて、ラナはエドに向かって頷いた。


 タチアナと共に絵を描き終え、外に出た時には日が落ち始めていた。建て替え工事の音は既に止み、人気のない通りはひっそりと静まり返っている。

 並び立つ建物の隙間をぬって夕日が届く。その眩さに目を細めながら、ラナはエドに向かって頭を下げた。


「送ってくれて、ありがとう。タチアナさんにもお礼を」

「構わない。タチアナ婦人も随分楽しそうにしてたし」言いながら、エドはラナと、彼女が腕に抱えた包みをじっと見比べた。「それに、君もさっきより元気そうだ」


 エドの声音は柔らかで、だからこそラナは目を伏せた。布で包まれた絵を何度か抱え直し、辺りをぐるりと見回して咳払いする。


「その……エド。ありがとう」

「何を急に?」

「心配してくれてたじゃないか、私のこと」先程のやり取りを思い出し、ラナは少しばかり肩を落とす。「でも、ちゃんとお礼を言ってなかったなって」


 エドは肩をすくめた。


「お礼なんて……いいよ、別に。君らしくない」

「……それはちょっと失礼じゃないかい?」


 思わずラナが唇を尖らせれば、褒めてるつもりさ、とエドは穏やかに付け足した。 そうして何度か目を瞬かせた彼は、独り言のように呟く。


「ちょっと、安心した」

「え?」

「やっぱり君は変わってない」エドはすいと目を細める。「泣いたって、苦しくたって、ちゃんと前を向ける――世界で一番、格好いい女の子だ」

「か、……っ!?」


 ラナが思わず声を裏返せば、エドは真っ白な歯を見せてにやっと笑った。その目に浮かぶ悪戯っぽい光で、ラナはからかわれたことに気づく。


「っ、もういい……! 私、そろそろ行くからっ」顔を真っ赤にしながら、ラナは隣大股でエドの横を通り抜けた。「それから! ベルニさんが帰ってきたら、ちゃんと連絡しておくれよ!」

「メモに書いてくれた番号に、だろ。任せて」


 じゃあ、また。笑いを堪えるようなエドの声へ乱暴に手を振り、ラナは歩き始めた。



*****



 じゃあ、また。だなんて。


 自然と転がり出てきた言葉に、エドは苦笑いを漏らした。

 夕日に染まる通りの中で、ラナの小さな背中が遠ざかっていく。黒灰色の髪は橙色に染まり、いっそう煌めいて見えた。

 その光景はまさしく、故郷の日常そのものだ。

 そうして、この十年の間で失われてしまった大切な光景そのものでもある。


 それを眺めながら、エドは自身の研究室の教授から――エメリから手渡された資料の内容を思い出した。


 ラナが故郷を出て以来、娼館で働いていたこと。その期間は十年であること。最近になって、客の一人に買い取られて娼館を出たこと。


 問題は、彼女を買い取ったのが魔術協会ソサリエの人間だということだ。エドの記憶の中、大学の教授室で、獲物を狙う鷹のように目を細めたエメリが笑う。ならば彼女に備わった能力とはなにか。エドワード君には是非、それを探ってきて欲しくてね。


 夕暮れの静寂に、無粋な振動音が響く。

 詰まりそうになる息を無理矢理に吐きだし、エドは端末を取り出した。表示されたマリィからのメールを一瞥する。


 件名:サンプル回収どうも

 内容:あんまり入れ込みすぎるなよ、エド坊


「……分かってるさ」


 低く呟く。そしてエドは目を閉じ、踵を返して帰路を辿り始めた。

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