7-1. 俺は、君のことが心配なんだ

 ベルニという人を探している。案内された部屋で絵筆を渡しながら伝えれば、ソファに腰掛けたタチアナは眉を下げた。


「ごめんなさいね……確かに彼はここに住んでいるけれど……日中はほとんどいないのよ」

「そうなんですか」


 ラナが肩を落とせば、タチアナは頬に手を当てた。灰色のロングスカート――その上には何故か色とりどりの点が散っている――が緩く波打つ。


「せっかく来てくれたのに、申し訳ないわね。なにか伝言でも残していく?」

「ええと……」

「メモなんか渡しても、どうせアイツは見ないですよ。昼間から酒を飲んだくれてるんですから」


 ラナの耳に届いたのは、再会したばかりの幼馴染の声だった。

 タチアナが苦笑いしながら足元を見やる。


「あらあら、エドワード君。陰口はいけませんよ」

「陰口ではなく事実ですよ、タチアナ婦人。貴女があの男に甘いだけだ」

「恋する乙女は盲目なのよ」

「あんな男に恋をする気が知れませんね」


 応じながら、タチアナの足元の機械を弄っていたエドが立ち上がる。そのままラナの向かいに座った。

 ラナとエドの目があう。たったそれだけなのに、彼は何かを見抜いたように、心配そうな表情を浮かべる。

 ラナは慌てて目をそらした。レースのかけられたソファを軋ませながら、タチアナの方へ体を向ける。


「あの……エドはここで何を?」

「私の手伝いをしてくれてるのよ」


 ラナが早口で問えば、タチアナがのんびりと応じた。そのほっそりとした指先が、自身の鼻の下にあてがわれたチューブを指す。


「見ての通り、人工呼吸機をつけなきゃ生活ができなくて。学術機関アカデミアの病院に入院してたんだけれど」


 顔をしかめそうになるのを、ラナは紅茶を飲むことでなんとか堪えた。

 学術機関。頭によぎるのは娼館で出会った黒髪の男だ。テオドルスと、アランが呼んでいたあの男。短い時間しか関わってないが印象は最悪だった。ラナは繊細なティーカップの柄をぐっと握る。


 病人が学術機関の病院を利用すること自体に不思議はないのだ。ラナは己に言い聞かせ、浮かない気持ちを残りの紅茶と共に流し込んだ。


 タチアナは紅茶を一口飲み、ぐるりと部屋を見回して目を細める。


「仮帰宅の許可が出たの。でもほら、こんな姿だから色々と生活が大変でしょう。だからエドワード君とマリィちゃんがお手伝いにきてくれてるわけ」

「しょーじき、こっちの方が仕事は楽だわなぁ。なんてったって、こきつかわれないし」


 金髪を揺らしながら、つなぎ姿の女が部屋の奥から出てきた。先程マリィと名乗った彼女はクッキーの乗った皿をテーブルの上に置く。


「どうぞ、お客さん。タチアナ婦人イチオシの店のクッキーだ。そんじょそこらの安モンより、よっぽど美味しいぞ?」

「ど、どうも……」


 マリィがずいと顔を寄せる。その緋色の目に戸惑いながら頷けば、彼女はにかっと笑って身を引いた。ラナの隣へ乱暴に腰掛け、皿の上のクッキーを一枚頬張る。そうしながら、頬杖をついてエドを見つめた。


「それにしてもなー。あのエド坊がなー」

「……なんですか、先輩」


 エドが迷惑そうに眉を潜める。マリィは笑みを崩さず、タチアナと顔を見あわせた。


「見ました? タチアナ婦人。今のエド坊の顔」

「うんうん、見たわ。すっごく新鮮ね! 初々しいわ!」

「……あんたたち、何考えてるんです……?」

「やだなー、それを聞くのは野暮ってもんよ、エド坊。かわいい幼馴染と再会なんて、古今東西どんな物語でも相場は決まってるよな」


 な! とばかりにマリィに同意を求められ、ラナは頬を引き攣らせた。言わんとしていることは分からなくもないが、果たしてそれを本人に同意を求めるのはいかがなものだろうか。

 エドが咳払いをした。花の装飾が施されたデジタル時計を見上げ、立ち上がる。


「いずれにせよタチアナ婦人。そろそろ薬の時間では?」

「あら? そういえばそうね。じゃあエドワード君は、そこのお嬢さんを案内して差し上げて」

「え、でも……」


 そう言って目を瞬かせるラナに、タチアナは片目をつむってみせた。


「積もる話もあるでしょう? お嬢さんの時間が許す限りで構わないから、ゆっくりしていってちょうだい」


****


 エドに案内されたのは建物の二階だった。


「ここは、タチアナ婦人所有のアトリエだ」

「アトリエ……っていうと、絵描きの人が住んでるってことかい?」

「そう」


 廊下に並ぶ扉は開け放たれている。どの部屋も窓に分厚いカーテンが引かれていて、薄暗闇にペンキや絵の具、キャンバスが転がっているのが見えた。


 その内の一つに通されたラナは、倒れたキャンバスの近くで腰を折った。薄っすら埃を被った表面を掌で拭うと、暗闇に白地がぼうと浮き出る。

 ラナの隣をすり抜けたエドが、擦り切れたカーテンを横に引く。眩しい夏の日差しがさっと部屋に差し込んだ。


「多い時には、十人くらいだな。駆け出しの画家が住み込んで、日がな絵を描いていたらしい」

「みんな、画家として成功したってことかい?」

「それなら幸せだけど」錆びついた窓枠を苦労して揺らしながら、エドは肩をすくめる。「夢半ばで諦めた人がほとんどだと思う」


 ラナはもう一度部屋を見回した。陽の差し込む部屋は明るい。けれど、永久に使われることのない絵筆やキャンバスの落とす影はどこか暗く滲んで見える。

 エドが窓を開いた。夏風が吹き込み、薄く積もった埃がふわりと舞う。きらと輝く中で二人は同時にくしゃみをし、互いに目を合わせて吹き出した。


「……本当に久しぶり、ラナ」

「うん」エドの視線に少しばかり気恥ずかしくなって、ラナは髪を弄った。「もう十年だっけ。エドがこの街にいるとは思わなかった」

「四年前から学術機関の大学に通ってる」

「理系って……もしかして医学部かなにかなのかい?」

「あぁいや」エドは苦笑いした。「病気について研究してるのは間違いないけどな。今ここに来てるのは、研究室ラボのバイトの一貫みたいなものだ」

「…………」

「ラナ?」


 首を傾げたエドに、ラナは慌てて首を横に振った。


「い、いや。大学なんてすごいなと思って」


 ラナが尊敬の念を込めて幼馴染を見つめれば、彼は照れくさそうに頬を掻く。


「そんなことない。誰だって勉強すれば行けるし」

「その勉強が大変なんだろう?」

「勉強は嫌いじゃないだろ?」エドの目がきらりと輝く。「昔から興味のあることだけは、俺よりも早く覚えてたじゃないか。ほら、羊の鳴き声を聞き分ける方法とか、薬草の種類とか」

 

 懐かしい話題にラナは思わず目元を緩めながら、手をひらりと振った。


「でも、そんなもの覚えてたって、大学には行けないだろ」

「行けるよ」


 エドがじっとラナを見つめた。少し言葉を区切る。風をはらんで、黄ばんだレースのカーテンがふわりと揺れた。


「学問は、公平で平等だ。誰に対しても開かれてる。それは君にだって例外じゃない」


 どこか熱を帯びたエドの声に、ラナは苦笑いした。


「気持ちはありがたいけどね。エドは買いかぶりすぎだよ、私のことを。そんなに頭は良くないし、お金だって」

「奨学金っていう制度もある。せっかくこうやって会えたんだ。勉強なら俺がいくらでも教える」

「でも、」

「俺は、君のことが心配なんだ」


 強い口調でエドに言われ、ラナは黙した。

 冬の森、飛び交う松明、男たちの声。今朝見た夢を思い出す。それはまさしく二人の故郷で起こった出来事だった。そしてそうであるが故に、エドが同じ出来事を思い出しているのは想像に難くなかった。


「……ラナ。君はあの時……」そこでエドは言い淀んだ。唇を何度か開け閉めた後、小さく首を振る。「……いや、君は今まで何をしてた?」

「……何って」


 ラナは床に視線を落とした。陽の光を弾きながら埃が舞う。それを目で追う間に、十年という月日が音も立てずに流れて消える。

 静かに息をして、ラナは瞼を閉じた。


「普通だよ」

「普通って……さっき悩んでるような顔してたじゃないか」

「悩んでなんかない」脳裏によぎったアランの顔を押し込めて、ラナは微笑んだ。「大丈夫。私は今でも、十分幸せさ」


 エドは黙り込んでしまった。ラナと同じ黒灰色の目が忙しなく瞬く。その癖は十年前と変わらないなぁと、ラナは少しだけ懐かしくなる。


 レースのカーテンが夏風を受けてはためいた。子どもたちのはしゃぎ声が聞こえてくる。胸を締めつけるような暖かい空気を吸い込んで、ラナはエドに近づいた。

 少しだけ背伸びをする。


「ここ」エドの眉間にそっと人差し指を当て、ラナは顔をのぞきこんだ。「皺を寄せるのやめな? せっかく良い顔してるのに、跡になっちゃうよ?」


 エドが少しだけ目を見張り、ついでふいと視線を逸した。


「……皺になんかならない」

「なんだい? 可愛げがないねぇ……昔のエドだったら、素直にきいてくれたのに」

「俺に可愛げなんて要らないだろ」

「何言ってんだい? 私からすれば、今も昔もあんたは可愛い弟分だよ」

「……それを言うなら、君は」


 躊躇うような間の後、エドはラナの手を取った。荒れた手先を眺め、少しだけ撫でてから彼は視線を上げる。


「……君は綺麗になったと思う、ラナ」


 真剣な視線で言われ、ラナは思わず返事に窮した。ややあってから、エドが盛大な息をついて目をそらす。


「……そこは何か言うところだろ」

「え……あ、……ええと、ありが、と……?」

「なんで疑問形なんだ」


 エドは投げやりに笑いながら、懐からハンカチを取り出した。


「おでこ、血が付いてる」

「え?」

「絵筆の当たりどころが悪かったんだろう……これでよし」

「あ、ハンカチ……」

「気にしなくていい。これくらい、すぐに取れる」


 ラナが止める間もなく、エドは薄く血の滲んだハンカチをしまいこんだ。


 がたんと、廊下から物音がしたのはその時だ。見れば、タチアナとマリィが折り重なるようにして入り口から顔をのぞかせている。


「ほうほう、タチアナ夫人……これはこれは……大変に熱いですなぁ」

「えぇえぇ、本当にそのとおりね、マリィちゃん。嫌だわ……なんだか青春を思い出してきゅんとしちゃうわ……」

「……二人とも」


 剣呑な目をしたエドが身をかがめた。そうして拾い上げた絵筆を投げつける。

その柄はあやまたずマリィの額をすこんと撃ち抜いた。


「いってええ!? 何すんだ、エド坊!」

「覗き見する悪趣味野郎に灸を据えただけですが? マリィ先輩」

「ふふふ、相変わらずエドワード君は照れ屋さんなんだから」


 くすくすと笑いながら、タチアナがゆっくりと立ち上がった。足元の機械が規則的な電子音を奏でる中、ラナの方を見たタチアナは目元の皺を一つ増やす。


「ところでお嬢さん。もう少しお時間ある?」

「? ありますけど……」


 首を傾げながらラナが応じれば、いたずらっ子のような笑みを浮かべて、タチアナは懐から絵筆を取り出した。


「絵、描いていかない?」

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